春学期が終わろうとしている。教員である私はひたすら採点の季節。人の文章をたくさん読んでいるうちに、自分で文を書きたくなってきた。今年は多くの学生さんに教える機会を持っているので、大変な量の小論文を読まなくてはならない。どうやって評価されているのか気になっている人もいるだろう。私の規準をここに記してみたい。
最近は持ち込み可で、長文でも時間にあまり追われない範囲の字数を設定して論述してもらうタイプの試験を複数回して成績をつけることが多い。講義の内容にもよるけれど、原則としてレポートは課さない。本当は内容からいってレポートを書いてもらいたいところを、時間制限内で小論文を書いてもらうという方式だ。過去にはレポート試験を課していたこともある。さすがにあまりにも多いインターネット剽窃のチェックに疲れ果ててやめた。結果として剽窃により単位が認定できなくなる割合は減ったと思う。出席回数は評価に含めないことが多いけれど、語学・データ・調査系など結果だけでなくて参加の努力を認めたほうがいい科目では使っている。数百人取っている科目だったりすると、正直言って読むのはキツいが中間と期末、2回は書いてもらう。1回で評価するのはやはり不安定になるからだ。
長年このようなやり方で採点しているので、かなり安定して評価できている自信はある。短時間目を通すだけでも大概の場合2回の小論文評価は近い値となってそろってくる。もちろん課題が違うので、ずれることもたまにある。合わせると例え質問されてもちゃんと理由を答えられる評点になる。小論文は曖昧なようで、実力はしっかり現れているものなのだ。
知識とは、思考に使えてこそ意味を持つと私は考えている。残念ながら、自分の頭を使って考えたい学生さんは昨今そう多くない。また、自分で考えるのは得意な人でも、一端つくってしまった思考の体系にこだわるあまり、柔軟性を欠き論理の展開に無理がある論述をする人も目立つ。新しいデータや根拠が示された時に、それを無視して主張を繰り返すのはいただけない。常に主張には根拠が必要だし、説得力を持たせる書き方をしてほしい。日頃論文を書いている研究者には当然と感じる小論文のお作法も、学生さんにはなじみがない。日本の高校までの教育はこのあたりの力の育成がどうにも弱い。
私が気を使っているのは、自分と違う主張を退けないことである。思想的には相当に納得いかないことが書いてあっても、書き方が正しいかどうかで判断する。社会科学はイデオロギーと切り離せない学問だけれど、それをできる限り持ち込まないように心がける。意図してかどうか私の著作を読んでよく勉強して書いてくる人がいても、そうよい評価になるとは限らない。
教員である、というだけで何かの権威が発生するわけではない。評価には常に根拠が提示できなくてはいけないとなると、大変にエネルギーを使う知的作業を必要とする。少し採点すると脳が休眠しだすので、長くは続かず休み休み。
よくぞここまで身についた、とうれしい答案もあれば、落胆する答案もある。それにしても採点しているといつも気になることが1つ。講義で紹介しているような事実とその考察に至るまでに、どれだけたくさんの積み重ねられた議論があったのかという重みが学生に理解されているだろうか、ということ。学問のすごさが伝わっていないとしたら、まだまだ私が未熟だということだと自戒しなくては。