そして原発を残すことを選んだ日本人

 たまたま投票権がなく、他人事のように終わった選挙。新聞も取ってないし、テレビもほとんど見ないから、何か変化があったっけ、という程度に終わった。わりとそういう人は世の中に多いのだろう。職業柄はまずいのかもしれないけれどもそれだけ政治が「軽い」。この国では。
 もちろん、個人的には重たく受け止めているし、完全なる敗北感を味わっている。単純にいえば、あの3.11の震災とそれ以後のフクシマにおける事故を、「たいしたことではなかった」とみんな信じたいということがあからさまになった。それは、マスメディアがつくっていた現実でもある。つまり結果は順当だ。そう、なでしこの世界制覇が愛国という雰囲気作りに強く貢献してしまったのも、危惧したとおり。
 ひどく日本人は傷ついているのだろう、と選挙結果を通して感じた。個々の政策を吟味して投票する人は少ないのだから、その手の論評はあまり意味をなさない。ひどい景気で身近な生活が痛んでいる。みんな目の前の生活に精一杯なのである。その痛みを「気持ちとして」受け止めてくれそうなところに票が集まった。民主党の人々は官僚みたいにあまりにも「情」が薄く見えるのである。
 安倍氏はとても感傷的な人。彼がお気に入りだと言う映画「ミリオンダラー・ベイビー」を見た時に確信した。私はあの種の美学が苦手なので、後味の悪かった映画として記憶に残る一作である。かっこわるくても無様であろうと生き続けようとする人を安倍氏は評価しない。だから恐ろしい。維新も「熱そうな心情」は伝わる。がっちりと論理で説得しようとした党派はことごとく消え失せつつある。日本人はそう教育されているのだからいたしかたない。安倍氏が種をまいた愛国的な教育方針がさらに強まることになる。学者稼業には厳しい社会である。
 原発はずっと日本人が気にしなかった問題である。こういう事故で意見や考え方を変えるような人は少なかった。そこに余裕のなさが露呈している。「愛国」が言い出される時とは、それが揺らぎつつある時。信条が崩れ落ちそうになると人はよりいっそうしがみつく。3.11後に自分の思考の正しさをかたくなに守るために、多様な情報を閉め出した人と、積極的に取り入れて行った人に、世間は大きく2分したが、後者はあいかわらず少数派である。自分がこの少数の中にいることを、これでもかというほど思い出させられた。
 そういう意味では、これからの人生をさばさば過ごせるという気もしている。少数の人とともに歩き続けるということで、よろしい。一時、さほど自分がマイノリティでもないような気がしたことがあった。幻想にすぎないと久しぶりにカツを入れられた感じ。10代の頃の原点に戻ったような軽快さもある。ずっと孤独感をひきずりながらも素晴らしい友たちと出会えた。それでよい。そして、サッカーという魔法のツールが、時には世界とつながっているという思いを与えてくれれば、そう、何とか生きていける。

卒原発のための環境社会学講座:6) 権力の集中から分散へ

 講座シリーズはきょうで最終回になります。原子力発電を残すかどうか、あるいは残るかどうかの分かれ目は、その社会が権力をどう配置させたいのかと関連してきます。少数の権力者が物事の可否を判断し、大衆がそれに従うといった構造の社会と原子力発電のやりかたは馴染みやすいでしょう。逆に権力が分散し、地域ごとの判断が重視されていくような社会では、原子力発電は排除されていくでしょう。
 今後も途上国で原子力発電が導入されていく可能性が高いのは、そういう権力構造がよくみられるからで、ドイツでさっさと脱原発が宣言されたのも、地域主権の徹底した国ならでは、と見ることもできます。すでにふれたように、地域主権を重視する政党が卒原発と主張するのは、そういう理由から理解できます。
 少数の権力者が物事の可否を判断する、というシステムで原子力中心で粘っている国に、フランスがあります。権力は相当に(パリに)集中し、エリート養成システムが徹底しています。ただし、その分、権力者への監視も半端ではありません。常に徹底批判されることを覚悟しながら、彼らも論理構成を鍛えています。なにかあったら、だまっているような国民ではないので、権力者も戦々恐々でしょう。
 振り返って、日本はどうでしょう。ここ数日の間に、原発の近辺に活断層が次々と発見されていることからもわかるように、やっていることがお粗末すぎて信頼して「権力者」に任せられる状態にありません。そのことは、3.11で痛いほどみんなわかったはずですが。でも、結局お任せしてしまう。誰も責任とりたくないのです。ぐるぐる、責任をトランプのババ抜きのようにまわしてるだけ。
 投票というものは確かに1つの責任を伴う行為です。残念ですが今回私は転居時期の問題で投票権がないようです。選挙権を得てこのかた、初めて投票に行けません!期せずしてすでに責任を逃れております。このブログを書くことは、唯一現状でできる卒原発のためのささやかな行為でした。さて、みなさん16日の投票はどうされますか?

卒原発のための環境社会学講座:5) 自然エネルギーは期待できるか

 そろそろ最もポピュラーな話題に。原発の代わりに自然エネルギーはどのくらい期待できるのか、という問題です。この話は少し丁寧に、出版予定の本(そういいつつ、なんと3年くらいたっている!)に書いたので、そちらを読んでもらえればよりありがたく思います。(http://www.pot.co.jp/green/20101012_163828493920011.html)ここでは、ごくかいつまんで解説しましょう。
 ひとことでいうなら、原発程度の電力を自然エネルギーで生み出すのは技術的に言えばごく簡単なことです。けれども、社会的にはいろんな障害があります。やろうと思えばできることなので、20年前に代替していたらいまごろ原発などなくてすみました。誤解の始まりは、人々が「技術の問題だ」と思っているところにあるように思います。適度に「技術」とか「理系」を持ち出すと、ごまかしやすくなるんです。
 自然エネルギー技術は、発展途上なのではなく、すでに商品化されているものばかり。これから研究、とかいっていたら補助金産業のための予算取りだと思って下さい。いまは研究より投資の時代のはず。私が特に期待している自然エネルギーは日本の風土に合う地熱と水力です。火山が多く地震だらけの日本とは、すなわち地熱を取り出すのに最も適した場所であるということで、モンスーン気候で雨がじゃぶじゃぶ降り、平地が少ないということは水力に最適。物理現象として考えればどうみてもこの2つが当確のはず。ついで、「バイオマス」も期待できる。
 それなのに、なぜこの3つより「太陽光」とか、「風力」などばかり注目が集まってきたのでしょうか。それは、原発の存在とまともに競合してしまうエネルギーが「地熱」と「水力」だから。わざわざはずされてきたと考えると整合がよいのです。巧妙であざとい中央の人々が考えそうなことです。マスメディアは、ずっと騙されて来ました。
 「地熱」も「水力」装置産業として世界での商売が期待できるのに、妙な規制でがんじがらめの日本に導入しにくい状態が作り出されています。そうこうしているうちに、海外でつぎつぎに商品化が進展してしまいました。それでも、元首相の管さんがクビと引き換えに成立させた固定価格買い取り制度は、じわじわと効いてくるでしょう。原発で提供されていたベース電源分が自然エネルギーでまかなえる日もさほど遠くないはず。
 「未来の党」代表代行の飯田哲也さんは自然エネルギー分野の玄人です。やっかいな人を相手にしなくてはならなくなったと、技術系官僚は非常に煙たがっています。彼が他政党の政治家から必死にこきおろされているのをみると、実力ある人だとよくわかります。必死で排除されるということが実力の証のようなものだから。私は将来、水力や地熱による自家発電でまかなえる地域に暮らしたいという夢を抱いています。

卒原発のための環境社会学講座: 4) 効率よくエネルギーを生みだす方法

そろそろエネルギー問題としても原子力が不要な理由の説明に移りましょう。まずは、電気というエネルギーはとても高級なものですが、人間は電気でなくても構わないエネルギーをたくさん使って暮らしていることを理解してください。都市ガスは家庭では電気と同じくらい存在感があります。ガスでお湯を沸かすとその場で大半のエネルギーが水をお湯にするために使われます。無駄がそうありません。では、火力発電するためにガスを使ったらどうなるかというと、残念ながら、最新鋭の設備をもってしても、半分以上は捨てられてしまい、電気として使うまでにいたりません。火力発電所は6割のエネルギーが温排水などで、海に流れているのです。もったいない話ですよね。でも、それを捨てないで使う方法があるのです。
3.11後の計画停電の時、六本木ヒルズにいる人々は涼しい顔で心配をせずにすんでいたことを知っていますか?自前で発電しているからです。発電と同時に出てくる熱を冷暖房や給湯などに使っているので、捨てられているエネルギーは3割ほどですんでいるでしょう。このようなシステムをコージェネレーションといいます。原子力ムラは長年このシステムがそれほど広がらないよう、様々な工夫?をこらしてきました。安あがりのこのシステムが広がりすぎると、原発がいらなくなるからです。北欧などの国々では暖房に有効なので集合住宅にほぼ標準的に入っていたりします。日本にも寒いところはいくらでもあるけれど、めったに導入されていません。
不思議に思いませんか?オール電化住宅はエコであるとの「でんこちゃん」の宣伝に洗脳され、理由は深く考えずオール電化住宅にしてしまいましたか?IHクッキングヒーターの熱効率がいくらよくても、電気を使う時点ですでに6割のロス。送電線が遠いとさらに、1割のロスが発生しています。そのことは黙っているなんて、ある種の詐欺に近い言い回しでしょう。そうまでしてオール電化住宅を推進した理由が、あまっている電気を夜に使ってくれるともうかるから。原発は電気しかつくれないし、夜もとめられず小回りがききません。そんななか、省エネの時代に消費が減らないように、電気依存のライフスタイルを作りあげるしかなかったのです。
原子力が止まっている間に、この設備を導入するところは増えるでしょう。でも、現状ではおとなりで発電していても自由に直接売ってもらえないままです。独占している電力会社が買い上げてから売るしくみだから。電話会社が自由に選べるように、電気も選べるようになることを、だから彼らは怖がりつづけて必死に阻止しようと、いろんな理由を並べつづけています。

卒原発のための環境社会学講座: 3) 安全が損なわれた労働を生み出す原発

 フクシマ以後、多少はメディアにとりあげられ目に見えるものとなった原発の下請け労働者のおかれたひどい環境はいまに始まったわけではない。ただ世間が見ようとしなかっただけだ。Youtube「隠された被曝労働〜日本の原発労働者」のシリーズでは、このあたりの丁寧なドキュメンタリーがみられる。1995年にイギリスのテレビ局が作成/放映したもので、日本ではこの種の内容になると、どうやら全く放映できないらしい。
 私が原子力発電という巨大システムにとうの昔にダメ出しをした一番主な理由は、実はこの差別された労働者の問題であった。原発はウランの採掘から始まり、定期点検中のメンテナンス、その後の核燃料処理などあらゆる工程で、汚い仕事が発生する。恒常的に被曝労働者を生み出すシステムなど、持続させてはいけない。環境社会学にも公害問題が起きる前にその物質を扱う労働者の健康問題として現れがちだ、という重要な知見がある。まさに、原発労働者にはこの構図があてはまる。広く薄く毒物が散らばる前に、労働者はより多く高い濃度で浴びるのだから。それを、「しかたがない」といえるのは、汚い仕事を誰かに押し付けることができる「貴賤のある」労働システムあってのことだ。
 そういうと、もっとひどい労働は世の中にたくさんあるのではないか、と言われるかもしれない。命をかけて戦地に赴く人だっているのだ、原発労働なんてたいして危険性はないのでは?という人がいたら、「すりかえないでください」といえばよい。それは無駄なリスクでしかないからだ。少なくとも、他の方法で電力を生み出す工程では、もう少しましな環境のもとで労働が営まれている。もっと直裁にいうなら、誰かが儲かる為に誰かの命を減らされている。しかも、黙って危険性を十分知らされずに。見えにくい放射能の特徴がここで最大限に利用されるのだ。
 事故後話題となっていたように、労働者の日給がいかに安かったことか。8次下請け!などという醜悪な搾取構造が蔓延しているという。時に、これを英雄扱いや神聖視してごまかそうとする輩も出現する。あえて管理を行き届かなくすることで、責任を霧散解消させているとも考えられよう。「原発ジプシー」という言葉は30年前からあるのに、正面から問題化することを政府も避けつづけてきた。自分の親族や友人が原発の日雇い労働者になることなどない、と思い込んでいる階層の人々が安心して、他人事として原発は安いと語る。厳しい職業階層が持続している社会だからこそ、原発はここまで延命できたのである。

卒原発のための環境社会学講座: 2) 毒物問題として原子力を扱うべし

慌てた官僚や政治家たちが、卒原発を「実現不可能」とやっきになってリーク中である。きょうは、まず、原発とは「エネルギー問題」と切り離して考えてよい、という話をしたい。じゃあなにかというと、伝統的鉱毒や化学物質の安全性などをどうするか、という毒物を扱う公害防止視点でよいのである。石原のおじいさんが、記者会見で「きみらわかってないのに、脱原発とかいうな」と、吠えていたが、知らなさすぎなのはあなたでしょう。
原発が、100歩譲ってエネルギー的に有用だと認めてもかまわない。でも、生き物に危機的に有害なものを出すことは確実だ。普段からも放射能は漏れでていて、働く人は危険にさらされてきた。それでも、見て見ぬ振りをされてきたのは、広く一般の人々の触れるところに出さないし、出ないという前提だったからなのだ。でも、時に毒物が出てしまうことがはっきりした。だから、30km圏にヨウ素剤を備蓄するだのという恐ろしい計画を出すひとは、決定的に勘違いをしている。そこまでして害毒のあるものを、人間は使い続けられない。それは歴史が証明している。
例えば、PCBやアスベストなども、有用だったけど害があるから結局使わなくなった。ついこの間まで石炭をストーブにさえ使っていた日本人も、もうあまり使わない。いまでも石炭は安いし、埋蔵量も世界中にある。なぜ使わなくなってきたかといえば、掘る時から汚く危険で、燃やすと空気が汚れて体にもよくないから、先進国では不人気になったのだ。安いから産業によい、と使い続けられるのは中国のように市井の人々の権利がないがしろにされがちの国。どう考えても原発は石炭と同じ運命をたどるしかないのである。安くて産業によいからという論理で人々が我慢しなくてよい国が、民主的で人権配慮の行き届いた文明国の証しだから。家父長オヤジが原発好きなのは偶然ではない。人権がいきわたってほしくないからだろう。
放射能汚染は目にみえにくいので、石炭よりも毒性がわかりにくい。一見クリーンにみえる。そこが長らくごまかしがきいた理由かもしれない。さすがにそろそろ妙運はつきようとしている。歴史に敬意を払い無駄に逆らうことなく卒業しよう。
そして、日本全体の一次エネルギーでみるなら、原子力がフルパワーで動いていた時代でも、1割にすぎなかったことを思い出そう。たった1割のために、劇毒物をなんで我慢して使う必要があるのか?と素直に質問すればいい。原子力自動車も原子力高炉もない。私たちは結局石油漬けのまま暮らしている。それがいいとは思わないけれど、とりあえず毒性は低いほうが安心なのだ。例えば天然ガスなら、自然界でも湧いてくるものだし、セシウムやらウランよりずっと生物にはまだ馴染み深い物質である。
エネルギー論争に突入する前に、原発廃止という答えを出してもよい理由は「体に悪いものを出すから」。3.11以後のオーガニッック化粧品ブームの広がりはすごい。みんな身体にこれ以上毒物を取り込みたくないのだろう。無駄に原子力を怖がっていると非難する人は、どこかフツウの感性を失っているように、私には見える。

卒原発のための環境社会学講座: 1) イントロダクション

「未来の党」の理念にひとまず希望をたくす時間をもらえたことが素朴にうれしい。嘉田由紀子さん、あなたがいまはじめての女性首相に最も近い方だと確信しています。
私は30年以上、原発もなくし気候も変動させないためにどうしたらいいかを考えつづけてきました。学生さんにはずっと断片的に話してきたので、そろそろ本にまとめたいといいながら、先伸ばししています。来たる選挙に向けまにあわないので、急遽ブログに落とそうと決意しました。

なぜこんなことを考えつづけているのか?私は社会学者としてはどちらかといえば、「家族」の研究者と思われているため少し前置きをすることにしました。大学入学前から環境と公害問題に関心があったのですが、「公害を出す側」の論理をしっかり学ぼうと資源工学をやりました。予想通り、当時公害問題が生じたことさえ、カリキュラムの中にないのが工学の世界。ですので、「原発研究会」というサークル活動で自主勉強。他にもほそぼそとエコサークル活動をしたり。リサイクルなどまだ広がっていない時代、なぜ大学内にリサイクルシステムがないのですか?と著名なゴミ問題の専門家であった先生に質問にいったのがご縁で、環境政策のシンクタンクに就職を決めました。
卒論では当時出始めのグローバルな環境問題の一つ「酸性雨」をやっていたことから、入社してすぐにIPCCに備えて、地球温暖化問題を担当することになり、英語の原著論文を集めて読み、まとめる作業に日々追われたわけです。これは将来の気候がすごいことになってしまう、と深く憂慮したけども、その技術的解決策はみえませんでした。それが社会学者になった理由の一つです。その時予測されていたことは、20年後の今現実の気候変化としてすでに表れはじめています。

この講座では、過去10年ほどの間の、立教大学「環境のデータ分析」武蔵野大学「資源エネルギー論」、明治学院大学「社会学特論」駒澤大学「環境社会学」などで話してきた内容から、学生さんが「全くしらなかった」「もっとはやく聞きたかった」などの感想をよせてくれたなかできづいた、意外とマスメディアでは報道がわかりやすくなされず、よく知られていない視点を取り出して見るつもりです。間違いなく重要な争点となる原発、環境、エネルギー問題について考える材料の一つに加えてもらえればうれしいですね。

ちなみに、私は原発について再稼働せずに撤廃の立場を支持しています。それはもちろん可能だし、そうしたいかどうかは一人一人が決めることで、専門家や技術者や官僚にお任せしてはいけません。素人として、原発をどうしたいかあなたが判断すればよろしい。それが社会学の正統な議論から引き出される教えの一つでなのです。

社会はどうしたら変わるのだろう

 もう相当に前から、みんな世の中を変えたいのだと思ってきた。小泉政権も、民主党の政権交代もそうやって起きたこと。そこに、3.11だったわけだから、「とにかく変えたい」エネルギーは、爆発寸前に充満してる、と信じてる。私も例外ではなくて、そのまんまタイトルの小熊英二の「社会を変えるには」とか、坂口恭平の「独立国家のつくりかた」を読んでみたり。相当にせっぱ詰まった気分を時代とともに共有してる。ただ、予想通りそこに自分がほしい答えはみつからなかったから、ここでぶつぶつ考えてみる。
 この国の歴史を振り返ると、すごい人は現場に結構いて時代の先を読んでる正しい主張をしてきたリーダー的存在の人も必ずいたし、普通の人もみんなもかなり賢明な気がする。なのに、「全体システムとして」行き詰まっていった事例にことかかない。これを繰り返してきたわけで。さらに管直人が「東電福島原発事故:総理大臣として考えたこと」を読んだりすると、またためいき。ありがちな状況で、そこら辺の組織でおきていそうな事象が確認できるだけ。
 第一歩をどうしたらいいのか、私の中でははっきりしている。「長いものにまかれない」で立っていること。丁寧に周囲に説明して変えることや、変わっていることを受け入れてもらう努力をしてきた。時々は痛い目にあいながらも、それで世の中を歩いてこられたし、できることはしてきた感がある。事実婚で、子どもの姓も2つあったり、ずっと学生には脱原発が可能だと話してもいる。子育ての常識にも疑問を呈してきた。個々の人間の関係性そのものが変わらなければ、社会が変わったとはいえないと信じているから、関係性をはぐくむ場所として幼児教育という現場に望みを託している。
 でも、そんな考えかたが社会的に広がりを持ってきたのか、といえばそうでもない。20年前と社会が変わったようにはあまり感じられないし、中高年だけではなく若いはずの学生でさえ一時代前の常識にしばられて、がんじがらめのままである。それで元気ならいいが、生き生きと幸せなようにはみえない。親たちは、とにかく現在の社会で安定した居場所を見つけさせることに熱心だ。組織人は、上から降りてくることをこなすだけでいっぱいいっぱいである。近い将来に、人々をとりまく環境がどれほど変化してしまうのか、予測もつかないほどなのに。
 ここしばらく、社会の閉塞感にエネルギーを持続させられなくて、へたりそうになっているとき、映画「ペイフォワード」を DVDでみた。自分が「社会によいこと」を3人の人にしてあげたら、それをお返しされることは期待せず他の3人にしてあげる、という連鎖のアイディアを出した少年の物語である。実は私も似たような構想を実行してみようとしているし、贈与論を研究のテーマの一つに入れてるから、とても興味深い映画だった。最後はちょっと悲しすぎたけれども。
 それから、電車通勤帰りに知り合ったとある高齢女性の生き方に圧倒されている。少し前の時代に女性が一人で生きていくって、それはそれは大変なことだったはず。齢85過ぎていて、身よりない中で一人ネットワークを構築してたくましく生活してる。自分には合わないから、と老人ホームを退所してきたという。一人の友としての会話が楽しい。親族や家族に頼らない人生のまっとうのしかたが聞いていて潔く、どちらが精神的に若いのだろう、と頭がクラクラしてくる。私なんか、彼女に比べたらなんて保守的な人生。
 結局変えたい人は、さっさと変えているんだ、まわりがどんな状況でも。ということは、じつはみんなまだ変わりたくないから変わらないのか。変える勇気がないのか。このブログを書きながら、そう理解してきた。それにしても中途半端に古い常識にしがみついてる人たちの家族は、どこかうまく回転していないような気がしている。
 佐藤俊樹のいうように、末端まで痛みが伝わらないと変われない。予測で変われない。これが日本社会。良くも悪くも一挙に変わるときには雪崩をうって変化する。少しでもましな方向に雪崩をうつようなつつきどころを、日々探して積み重ねよう。看板だけかえたところで何も変わらないという繰り返しに、そろそろみんなが飽き飽きしていると信じて。

「市場社会と人間の自由」K・ポランニーと橋下徹と

 難しい社会哲学の本を、忙しいからこそ読みたくなる。雑事に紛れている日々に、清涼な風を吹き込んでくれた本。初邦訳の貴重な論文集である。ポランニーはずっと気にとめてきた学者の1人だけれども、この論文集を読むとほんとうにすごい人だったということがわかる。人生の軌跡を含めて尊敬してやまない。無人島に一冊だけ持って行く本を選べ、と今いわれたら絶対これにする。
現代社会を考えるために重要な論点が散りばめられているが、彼が擁護しようとしている価値は「自由」なのである。その自由を希求するためには、権力と価値が制御される必要があると彼は考えている。そして、その制御の現場として具体的に彼が考えているのは、まさに人間の日常生活なのだ。「周囲の環境に対する、友人に対する、家族や人生の伴侶や子どもに対する人間の関係、自分自身の能力や仕事に対する関係、自分自身との関係、首尾一貫性と誠実さ、それらとともに人間は自分自身と向き合い、内面的良心に対して死によって制約された運命の責任を負う。ここに作用しているのが個人的自由であり、それによってはじめて人間は人間になるのである。」(p.34)
彼は、「大転換」で知られるように、市場原理主義への批判者であるが、「自由」というキーワードから理解してようやく彼の思考の深さが見えてくる。「複雑な社会」にあってそれが簡単に手に入れられるものでもない。誰かの自由が誰かの不自由を招きがちである諸側面に彼は目を向け続ける。考えてみると、私もずっとそのことばかり気になって研究をしてきた。
ところで、まさに目の前で起きようとしている橋下フィーバーを理解するのに、とても役立つ論文が第4章「ファシズムの精神的前提」に述べられている。ファシズムと経済がどう結びつくのか、これほどシンプルに説明したロジックを私は知らない。ファシズムは、資本主義に伴って引き起こされてしまう経済上の不平等化と、議会制民主主義という制度が意味する平等という理念のズレを調整する動きとして捉えられているのである。ファシズムに対置されているのは社会主義であり、社会主義が民主化された政治から経済を民主化しようとするのに対し、ファシズムは政治を廃棄して経済を絶対化し、経済から国家を掌握して国家を経済から「分離」しようとし、政治とともに「自由」の領域を廃棄するという。議会主義が機能不全になって経済が機能しなくなったときに、矛盾に満ちた出口を探そうとする大衆運動から発したファシズムという介入により、資本主義が救出されるというのだ。
「経済的に」思考する階層のあいだでこそファシズムが政治的な効果を持つという説明が腑に落ち、橋下徹の主張がようやく一貫性をもって理解できた。やはり彼は典型的な「ファシズム」を体現する政治家のようだ。そして、民主党政権誕生時から一貫して「ズレの調整」を社会はしようとしているのだが、その失敗があからさまになりつつあるいま、維新の会が調整役の受け皿となっている。
ファシズムと社会主義の闘争はつまるところ信仰戦争だという。「自由か支配か、人間と歴史の意味を信じるか信じないかが重要なところでは、最後まで戦い抜く決戦しかない」のだそうである。ファシズムではなく社会主義(あるいは経済の平等化)をめざすには、物質的利益を求めてはならず、流れに逆らって泳ぐしかないようで、ひもじさに負けて自由を売り渡したら最後、全体主義に敗北する。橋本徹は自由を擁護せずに、支配を好むことは明らかで、経済至上主義に堕している。私は自由を擁護する側に立つ。
しかし、対抗する勢力もまた、「今日のパン」に照準しているように見える。それは、日本人が日常世界で「自由」よりも「支配と今日の(より多くの)パン」を選んでいるところの反映でしかない。ポランニーが見ていたのは、その責任を結局引き受けていくのが私たちでしかありえないという、冷徹な現実であった。

単位制の意味を考える

試験の季節である。学生にとっては単位の認定をめぐって努力する短期勝負の日々かもしれない。振り返ればこれまで担当してきた講義と認定した単位の数は膨大である。認定基準はわりと自分の中でははっきりしているので迷うことは少ない。しかし、近年いくつかの経験を通して、単位制ってなんだろう?とあらためて考えさせられている。
高校でも単位制をとるところが増えてはきたけれど、厳格に「単位」を規準に進級や卒業が決まる経験は、大学で初めての学生が大半である。なんとなく学校にいれば進級し、卒業できる。これが日本の初等中等教育の実態である。不登校でも病気でも結構なんとかなってしまう。いろいろと「配慮」されるからだ。そのノリは大学でも続いてしまう。大学教員は初めて立ちふさがる嫌な役回りになる。
大学での単位認定には学生の個別の事情に、どこまで「配慮」することがそもそも期待されているのだろうか。明確な規準が示されることは稀で、個々の教員の判断に任されているケースが多い。大学によっては(非)公式に、本人どころか職員から「体育会なんで配慮を願います」と頼まれる。職員が自分の親族に「配慮」をそれとなく要請してきたことさえある。立場の弱い非常勤講師時代であったけれども、「配慮」はしたことがない。幸い「配慮」する必要もなく単位認定できたので問題はなかったが。
体調が悪かったり怪我をしたり親族の世話をしたり、と欠席の理由は数多あるにせよ、講義にほとんど出られなかったり試験を受けられず、レポートも出せない、という状況では単位は認定されなくとも、しかたがないであろう。そこを「配慮」してほしい、といわれることが結構あるのだ。
私はその「配慮」を頼む側の理由にとても違和感がある。予定どおりスケジュールどおり卒業できないと就職できない、といった一斉卒業と一斉就職の呪縛に、本人も周りもがんじがらめになっていることがあるからだ。新卒でないと「よい就職」にありつけない、という側面が現代日本にまだあるにせよ、私にそう懇願されても、説得されようもない。
「4年で大学を卒業してすぐ就職しないと、人生が終わる」みたいに考えている人には、「それさえできればうまくいくほど人生甘いもんじゃない」と伝えたい。そういう神話をみんなで作りあげている不自由さから、そろそろ「一斉に」降りてみてはどうか。単位制とは、もう少し自由な学びを支える認定のしかたであったはずなのだから。

専門家であることの軽さ

ずっと気になっている日本社会らしさの一面に、専門家よりもゼネラリストが世の中を取り仕切っている、という現実がある。この一両日に、それを思い出させられた。1つは、伊藤淑子「21世紀イギリスの子どもサービス」を読んで、あらためてイギリスのソーシャルワーワーカーは、重要な判断を任されているな、と思ったこと。そして、同時に強い制度でソーシャルワーワーカーも守られている。よく知られるように、日本で子どもの虐待死はたらい回しになっているうちに生じることが多い。構造的に担当者がはっきりしない(させない)のである。裏返すと、責任持たされても困るような脆弱な制度になっている。
もう1つは、全然違う方面とはいえ、国会事故調の福島原発に関する分析を読んで、「専門家はどこで何を判断していたのだろう?」と考えたこと。国会事故調では、学術界はあまりにも陰が薄かったからである。「水素爆発するとは思わなかった」と能天気に語っていた、当時、原子力安全委員長だった班目氏がその後もずっと委員長をやっている意味がそもそも理解不能だ。
専門家っていうのは、判断を間違っても平気でその地位にいられるものなのか?歴史をひもとけば、水俣病の原因を間違って推定し、かく乱させた「有名」大学の教授がぞろぞろでてくる。早くから因果を正確に読み解いた宇井純氏は東京大学では最後まで助手(いまの助教)。3.11のあと正確に推移を予測していた小出氏は京都大学助教。どちらも、誠実に真実を見つめている。そういう人を、学者というのだと私は思っているが、出世はできないらしい。国会事故調をまとめた黒川清氏は学術会議のトップなので、業界を上り詰めた人といえるだろう。そのせいか、身内とも思われる(東京大学の)専門家にはおとがめもない報告書となっている。
どうも日本で、専門家は重たい判断を期待もされていないから、軽く扱われる。そして、専門家にもさほど緊張感が感じられない。どちらが先ともいえないだろう。委員会は形骸化し、人数をやたら集めて発言を少しさせ、さらに責任を雲散霧消させるのだ。博士号など吹けば飛ぶような価値しかもたないのもそのあたりに理由がある。ジャーナリストは専門領域が重視されていないし、中央官庁では、数年ごとに部局を移動するから日々がお勉強。結局、手際よくお勉強して吸収するのが得意な人たちが、重宝されていく。途中に判断する人がいない以上、だれが責任をひっかぶるのか、というと結局トップに負わせるしかないわけで、菅元首相と官邸が汚名を着せられたといえる。
私は、学者のはしくれとして、たとえ期待をされなくても少しはましな判断ができるように、日々精進したい。研究から引き出された結論を撤回しなければならないような事象はまだ起きていないのは幸いだが、自説が浸透しているとはいえない、というあたりが寂しい。

「被ばくと発がんの真実」の不誠実

とある身近な人が一冊の本をくれた。ご親切にも、放射線をむやみに心配しないように、女子学生にすすめてくれれば、とのご託宣つきで。中川恵一という東京大学医学部医学科卒業後、東大医学部付属病院に勤めている准教授がかいた本「放射線医が語る被ばくと発がんの真実」である。
まずもって、信じられないほど重要な点に誤植がオンパレードであることに開いた口がふさがらない。(http://www.kk-bestsellers.com/cgi-bin/detail.cgi?isbn=978-4-584-12358-4)。「東大話法」の教材には使えそうであるが、女子学生には確実にすすめない。帯によれば、「これが真実です:フクシマではがんは増えない」私もそうであってほしい、と祈る。でも、「全国では増えないとは言ってない」、とか後で詭弁をたれそうだな、この人。
つい最近、めったに流さないtwitterで取り上げたばかりであるが、低線量被爆問題は日々検証されている。幼少時のCTスキャンで浴びた放射線が後に悪性腫瘍を発生させるリスクを何倍にも高めるという結果が疫学的にもはじめて検出された(http://www.afpbb.com/article/life-culture/health/2882432/9069794)。そのためには18万人ものデータが必要だったのだ。さすがに実証主義の本場イギリスである。こんなデータが普通の社会にはないので結局わかっていない、のが真実に近い。ほんとうは医療被爆大国で、フクシマ原発のあとの低線量被爆が議論になっている日本でこそ、このニュースは大々的に取り上げられてもよかったはずなのに、国内メディアの反応は鈍かった。自分で論文読んでその価値を判断できる記者が少ないとはいえ、あいかわらずひどい。
中川氏の議論は、かいつまんでいえば「チェルノブイリの報告書」に書いてあることを繰り返し、広島長崎をもとにしたデータでICRPが言っているように、「100ミリシーベルト以下の被ばくでは、発がんの可能性はきわめて低い」なぜなら「影響がみとめられていないから」といった単純な内容である。でも、これでは人々の不安のツボは完全にはずしている。「チェルノブイリの報告書」が真実をとらえていないのでは、とみんな心配しているのだし、「影響が検出されていない」といっても、それは疫学的(統計的)に検出されにくいだけではないか、というまっとうな疑問には何も答えていないからだ。放射線の専門家なんだから、その微妙なところを最新の論文をもとに解説してくれるのならまだしも、ほかの権威にすがってるだけなのだ。要するに、彼は「自分は権威ある立場にいるものだ。自分がいってるんだから正しい」と権威が権威にすがってる以上のことは何もしていない。あほらしくて途中から読むのもうんざりだった。
ゆっくりあびるのかいっぺんにあびるのかはともかく、CTスキャンで高まる発がんリスクの放射線量とは、フクシマの周辺で現に人々が浴びたのと同程度の水準である。グレイという単位で表現されているけれども、その換算についてはこのサイトで置き換えるとわかる(http://www.aomori-hb.jp/ahb2_08_h07_term.html)。あらためて考えると、シーベルトで規制するより正確にはグレイでやらないとほんとうはまずい。おなじグレイでも、人の体への影響を考えるとき、アルファ線だと20倍になるんだし、臓器ごとに受けやすさが変わるから。
とある身近な東京大学卒の高齢男性は、幸いこのブログを読むこともないだろう。インターネットという情報源を全く使わないからである。そういう世界に生きている人と、中川恵一氏はじつに相性がいいということもよくわかり、デジタルディバイドの深刻さと妙なねじれを感じるできごとだった。

常勤と非常勤のあいだ

すっかりごぶさたしてしまいました。この4月より(久方ぶりに)常勤の職につくことになり、単身で関東圏に舞い戻っております。多くの方々に、まだ何もお知らせしていなくてすいません。連絡先に変わりはないため通知は出しませんがお許しを。これで家族全員ひとりずつ、ばらけました。相変わらずお騒がせ家族です。
ところで、ようやく連休に一息入れられたので、記憶の薄れないうちに、書いておきたかったのです。常勤と非常勤のあいだにある、「世間」の断層を。ここしばらくたくさんのおめでとうを言われました。その言葉はとてもありがたく、素直に受け止めてはいます。自分が相手の立場でも同じような声かけをするかもしれませんし、喜んでくれる周りの方々には心から感謝しています。常勤職につくことを就職とするなら、確かに就職とはむしろ周りの人のためにするものなのだ、と思ったりもしています。それに将来の制度がどうなるのかはともかく、共済年金に入れるのはありがたいことです。国民年金だけでは老後は食べていかれませんから。
それでもやはり、「おめでとう」という言葉にどこかにひっかかりを感じているのも事実です。私自身は非常勤講師でいることを不完全な状態とも不幸とも思っていませんでした。乙武さんが言ったような、障碍は不幸ではないが不便ではある、といった感覚でしょうか。1つ例をあげましょう。試験の答案を回収したとき、オフィスのない非常勤講師はその答案を持参して自宅で採点をします。数百枚の答案は持ち帰るには重いので宅急便で送ることもよくありますが、大概は着払いなど自前で払います。常勤であれば、そもそも試験答案を持ち帰らなくても研究室に持参して手が空いたときに採点できますし、自宅に送るにも公費(研究費)で可能でしょう。情けなさを感じるのはそんな時でした。
ただ、大学で常勤職員のポジションがない、ということに対し大学業界内での受け止め方には、自分とかなりの温度差があると常々感じておりました。やはり「就職」へのこの社会の価値づけは大きいのでしょう。入学することが節目になっている社会の延長に、入社があるのですから。そして、組織の中にいると日々内向きになってしまう環境があります。大学教員としての常勤職は初めてであっても、私にとって仕事はずっとつづけてきたものです。その意味からいうと、仕事の外的環境に変化があったとしても、内的状態にさほど大きい変化はありません。変わらないのに変わったのは「待遇」と「世間の目」でしょう。この落差をどう埋めていくべきであるのか、私なりに納得できる対処方法をぼちぼち思案中です。

富士山の様子が気になっています

  週刊誌やスポーツ新聞、などあらゆるウラ系マスメディアが富士山噴火するのではと騒いでいますが、とても様子が心配。誰か専門家が状況をしっかりと説明してほしいものです。実は、東京–名古屋を往復していて、なぜか今年は美しい冬の富士山をみられたためしがないのが気になっていました。まず、雪が少ない。こんなに寒いのに、いや寒いから雪が少ないのか?自分がそう思っていたので、地元で雪の少なさが話題になっているというネット記事には、私も同意してしまいます。それから、雲でガスっているってことが多い。つまり、雪がとけて水蒸気が発生しているようにも見える。普通、この季節は冷え込んでいてすっきりみえるはずなのに。もっとも厳寒期に「農鳥」のお印が表れることはままあるようですね。
でも、いまのところ富士山の山肌の温度が上がってる→つまりはマグマが上昇しつつある、っていう解釈を否定できないのですよ。富士さんの「熱」ってちゃんと測ってないのかな。しかし、たとえ測っていても、変化をちゃんと検出できるようにやっているかどうかわからないし。学者たちの測るデータってどうも信用おけない。(まじめにやっているのはわかるけれど、「データ」処理って難しいことがわよくわかるだけに。。。)それに、山裾のあたりで地下水の温度が上がってるっていう人もいるみたい。そういうの、どこまで把握できてるかなあ。もう1つはやはり、貞観地震とほぼ同じ規模の地震が東日本大震災に来たので、それと連動した富士山の貞観大噴火がたった数年のタイムラグであったという歴史的事実を考えるなら、むしろ起きて当たり前。その場合、火山灰中心の宝永噴火と違い、溶岩流出系になると考える方が自然。東京にはその方がありがたいと思うけど、近隣はむしろ危険度が高い。
昔三島市に住んでいた時に、自宅の目の前に大場川の大滝があってそこまで溶岩が流れていた痕跡があったことを思い出します。つまり、相当広範囲が危険にさらされるはず。近くの住民の方の避難準備は大丈夫なのでしょうか。また悲劇を繰り返さないためにも、早めに備えて欲しいと思うのです。私自身も少し飲み水や食べ物の備蓄をし、物資が不足してもなんとかやっていけるよう整えました。何事も起こらずに暖かい春が訪れることを祈りつつ。

福島原発の危機はつづいている

しばらくこのテーマでブログ書いていなかった。(ツイッターでは少々触れてたけれど)正月を子どもたちとだらだらすごしているうちに、また嫌な感じの事態が起きていたようだ。昨日東京にいたとき地下鉄に乗ろうとした瞬間に地震速報が出てしばらくとまり、ドキッとしたばかり。これだけ度重なる福島の震度4では、あちらこちらガタがきていそうで、再び不安になっている。原データ含め検証して、だいたい納得感を得たので、まとめておきたい。
まず、年頭の地震後に、4号機の冷却系統に亀裂が発見された。ここまでは東電も認めている。水位が低下したとはいっていないが、おそらくいったん低下したのだろう。(小さい爆発など含む可能性のある)温度上昇にともない発生したセシウムが、ある程度放出されたことは確実だろう。風向きとか舞い上がりだけで落ちてくるというたぐいの微小な変化ではない放射性降下物量の変化が観測されているからだ。わりと引用されているのが、文部省の福島市で観測されたモニタリング。(http://radioactivity.mext.go.jp/ja/1285/2012/01/1285_011318.pdf)。秋頃にはNDだったことも多いのに、12月終わり頃から上昇して、2日ごろピークとなり、その後毎日一定程度出続けている。もう1つ福島原発第一の敷地内にある管理棟での降下物のデータがあった。12月から1月初旬にかけてのセシウムは、10月あたりと一桁違う、つまり10倍。この事実が生じた理由を東京電力や官庁はなにも説明していない。わかりにくいデータの山に、分け入るのは誰の仕事だろうか。
http://www.tepco.co.jp/cc/press/betu11_j/images/111117h.pdf
http://www.tepco.co.jp/nu/fukushima-np/f1/images/fallout_120112-j.pdf
取水口付近など、海水系の値には余り変化がないので、4号機がらみである可能性がより高いといえる。1-3号機に問題が生じる際には、どちらかというと取水口付近の海水データに出てくる。4号機プールはすかすかの開放系なのですぐ空気中に出てしまう。周辺で放射線量の大きな変化が観測されないのは、すでにあまりにも高い放射線量となっている状態のため、さらに多少降ったところで数値にすぐは反映しないということ。
でも、これは低線量のところに飛んだら大問題のはず。除染作業というものが賽の河原の石積み作業と化してしまうのだから。年明けの風向きは北西からの時間帯が多かったおかげで、ほとんどは海に落ちている。それでもこれだけ降下物が観測されているのだから、ぞっとする。残念ながら原発事故は収束などしていない。その事実に向き合うことからしか、何も始めようがないはずだ。