「データ」と「エビデンス」は真実を意味しない

このところ気になること。新型コロナウィルスの蔓延をきっかけに、「データ」とか「エビデンス」といった言葉がメディアに飛び交う傾向が加速している。アングロサクソン型(英米系といってもいい)の事実検証のシステムが、中途半端に政治に入り込んできた。完全に間違えている。たぶん、以前よりも政策判断を間違えるかもしれないと危惧する。

 

本来「データ」がそろわない段階で、政策はいろいろと判断しなくてはいけない。英米に備わっている他の制度は日本に浸透していないので、「データ」とか「エビデンス」という言葉だけ取り込むとヤバイことになるだろう。まず、日本ではデータが誰でもすぐ使えるようにオープンになっていないので、都合のいい解釈が中央から出されるだけで、検証することもできないし、そんな組織で研究時間のとれる人も少ない。政府から中立でかつスピーディな情報共有システムにアクセスできる人が少ないのに、どう「エビデンス」を繰り出せるのか。

 

そもそも「データ」があることは即座に真実を意味しない。データ分析の基本のキを学んでいればそれはわかるはずだ。少なくとも私はそう教え、伝えている。残念ながら政治家もマスメディアの記者は理解していないようにみえる。だから、「データ=真実」だったり、「エビデンスがない=真実でない」かのように語ってしまう。データに見られる事実と真に起きている現実の間には常に乖離がある。思い出してほしい。裁判では証拠が曖昧でも、状況証拠により有罪が言い渡されることはありうる。真実がどこにあるのか、それほど簡単にわからないと推理小説を読んだことがある人は誰もが知っているだろう。

 

科学には論理的な推論により、「データ」に依存せずに理論的に予測する学問もある。因果関係がデータで事後にしかわからないのであれば、ことが甚大になる前に何かを止めたり判断することはできない。本当の知とは占いよりは高い確率で未来を正確に予測し、未然によくない事態をとめることではないのか。断片的な情報を手掛かりに判断するのが政策に関わる人の役割だろう。


左派が「エビデンス」や「文書」や「記録」にこだわって政権を追い詰めていることが裏目に出ている面もある。例えばGo to トラベルと新型コロナウィルスとの関連を指摘した研究について「いわゆる査読が行われる前のもの」だと加藤官房長官が言う。学術的研究の議論を逆手に取っている。左派の土俵をうまく使って返している。中枢に残るのはいつも黒いものを灰色、と言いくるめるのが得意な人たちのようだ。


 この政権はデジタル(監視のシステムとしての)に関心が向いている。「データ」だけがあって、教養が軽視されるとき、物事の判断に決定的に何かが欠けるだろう。思想と切り離された研究者のみを集めようとして学術会議のメンバーをセレクトした政権の特徴がそこかしこに見える。政権から発せられる言葉の奇妙さを、もっと違う方面からメディアは指摘してほしい。要するに、人の話を聞いて誠実に受け答えをし、熟慮し配慮する側が負けつづけるという現実から、どう逃れることが可能なのか皆で知恵をしぼるしかない。トランプ政権は倒れたのだから、そろそろ日本にも共倒れ現象が起きる?と期待したい。


それでも私が学術界の端くれにとどまる理由

 私は最近出版した著書で、学問からはみ出してエッセイを書いた人間だ。学術界の小さな村にあたる学会活動にもそれほどに熱心 であったとはいえない。そんな一人にとって村を代表する学者たちが集まる国会のような学術会議は、正直にいって遠い存在で、保守的で常識的な研究をしている自分とは無縁の存在だと感じていた。そんな私でも、今回6人が任命されなかったという事実に衝撃を受けている。火の粉が身近に迫っているとひしひしと感じる。

 作家のハンスト、映画監督の声明、学術界の外からも危険を察知したカナリアたちの声が響く。何が起きようとしているのか恐れを抱いている人たちが援軍を送ってくれている。末端の学問に使える私ができることは何か、と考えた時文章を書かずに寝られなくなった。

 今回の事実をめぐる発言はリトマス試験紙のように、その人を赤か青かに分けた。「あなたとは意見が違うけど尊重し話し合う」という青い人と「あなたとは意見が違うから話し合う必要はない」という赤い人。アメリカの政治状況とも似通う。大学人にも弁護士にも、高学歴の人にも赤い人がうようよ出てきた。これだ、まさに私が最近の著書であぶりだしたかった差異。時の首相は間違いなく赤い。このまま赤が勝てば日本の近未来は燃え尽きる。

 誰でも自分の意見が正しいと信じたい。たいがいは権力を持つ方が意見を押し付ける。親は子に、夫は妻に、教師は生徒に、上司は部下に、先輩は後輩に。日本人の多くは嫌というほどにその経験をして大人になる。だから、権力を握ったら意見を押し付けて当たり前と信じている。結果的に、真の議論はなくなり正しさは権力争いと同義になる。そうじゃない対等な関係だってありうることが想像できないのだ。学術は、対等な関係があって成り立つものだ。若輩であろうと、学問的に正しければ平等に主張してよいし、認めてもらえる。民主的で心地よい貴重な人間の関係性が、なんとか育まれている場所なのだ。私がこの業界に流れ着いてそこにとどまる理由である。

 残念ながら、家庭や高等学校までの「教育」は「学問」とはいえず、不連続になっている。これが日本のリベラル弱体化の原因ともいえる。あえてそうしてきたのが政府与党である。日本社会で孤立した大学という業界は目の敵となる運命のもと、奮闘している。

 任命の拒否の理由を「説明して」という穏やかな態度はいかにも「青」の人たちらしい。「赤」の粗雑な言葉をメディアの方がたはこれ以上垂れ流さないでほしい。粗雑な言葉の連鎖はメディアをいつか呪縛する。親父が「だれのおかげで飯を食えると思っているんだ」と妻をあしげにするように。「政府の金を使うなら、オレに逆らうな」という論法と行為が同型だと気づいてほしい。日本社会は足蹴にしている学者たちに、実は深く依存しているのに、そのことを忘れている。全ての行為が私企業のように利益を優先させるものになるなら、未来の社会は直ちに痩せ細る。これは学問の自由などという狭小な問題ではなく、日本の存続に関わる土台を蹴飛ばしていいのか、という問題だ。

 こともあろうに、「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」という本で、黒歴史のプロセスを丹念にマイルドに著した加藤陽子氏を任命しないなどという愚挙に出た政権は、自らその轍を踏もうとしている。きっと、本は読まない人たちなのだろう。こんな中立的なベストセラー本の著者を排除してどうすんの?「ふつうの人」が政権の異常さに気づいてしまうよ。

 政府への批判は、社会をよくするために絶対に必要な行為である。私は「大丈夫」と政権擁護し続ける人たちを愛国者と信じない。批判を受け入れない社会は進歩することも変化することもできない。厳しい意見は社会を愛するがゆえ。正直いって自分のことを時々「愛国」者だなと思う。だって、丁寧に調べつくして考えて異論を述べるのは大変なエネルギーがいること。なんでお金もらわずにわざわざこんなに面倒なことやってるのか。内閣調査室からの指示にしたがって、世論をスピンするためにお小遣い稼ぎしたほうが楽なんじゃないのか。絶対にしないけど。

 大事なのは違う意見が同じ制度の中で取り入れられて少しずつ刷新されること。それが民主制にあって全体主義ではない変化である。自分が議論で負けてしまう時、素直に負けを認められる常識が民主主義の根幹になければ、怨嗟の渦巻く権力争いは永遠に終わらない。

 オリンピック選手を選ぶのは各スポーツ協会である。その団体が推薦してきた代表を、ド素人の首相がオリンピック代表からはずしたら、誰でもおかしいと思うだろう。学術会議に起きたのはそういう類のことだ。その道の玄人である学会から選ばれた人は、ほかの誰かが選び直すことなど絶対に不可能だ。推薦されたら任命すべきなのは当然である。

 こんなに末端の物書きである私でも、SNSや書き込みを通じて不穏な事象を多々経験している。徹底したメディア管理の時代をつくった1人が現首相となった。もっとひどくなると思った矢先にこれだ。でも、どれほど脅かされても、真実に仕える人々は黙ることはしない。歴史に身を挺する覚悟があるとはそういうことだから。そして、歴史は裏切らない。いつか正義に対して女神は微笑んでくれる季節が訪れる。その重みを知っている人たちが学術界の末端にまで連なっていると、現政権を担う人々は覚悟せよ。

 








新型コロナウィルス:拡散するデータのもやもや感

 3月初めにブログを書いてから、4ヶ月もたってしまった。
 オンラインの授業で「データ分析入門」を教えていたりするので、数値やデータが飛び交うのを横目にみて、もやもやが堆積している。このデータはいったい何なんだ?

 少なくとも社会調査では「ゴミ」みたいなデータはいくら精緻に分析しても「ゴミ」しか生まれないと考えられている、と思う。そういう常識を語る人は見当たらない。医学データだからだろうか。シミュレーションするにも、元データがまともでないとどうにもならないのに、誰も気にならないのか?

 非常事態でも常に土日と休日の件数が減るのは公務員や医者の休日がしっかり守られているから。災害時、夜も昼もなく復旧に奔走する人たちとは身分が違うらしい。日常と非日常のクラクラする混在。なぜメディアは指摘せず人々は怒らないのか、謎すぎる。

 オープンデータと仰々しい「東京都_新型コロナウイルス陽性患者発表詳細」からわかるのは、発表日、年齢、性別のみ。区によってはもう少し情報を出しているが、「区で検査した人」で都とは整合がとれないとかで、データの体をなしていない。こんなに狭い日本で、データの定義と発表のしかたをめぐって、自治体の異なる発表が乱立する。みんな移動しているんだし、居住地は感染した場所などなにも語ってくれないのに。新型コロナウィルスのことを考えるための基礎データはないな、とつくづく思う。

 本日、東京はあっという間に過去最高の陽性(患)者が観測されていて、それは夜の街の人だったり、若い人だという。シンプルに考えてみれば、そういう人がいま検査で対象になりやすい。現場に出て厳しい環境で仕事をさせられている人、バイトや派遣、学生なら飲食でアルバイトもしている。オフィスにこもっていたり、リモートワークできず外回りしている若い人は数多いので、当然でもある。

 新型コロナに感染したと報道される人の職業には明らかに特徴がある。有名人のように隠れられない人たち、教員や保育士、介護士、医療関係者など人と接してケアする仕事など。モラル的に少しでも違和感を感じたら医者に行き「ご職業は?」と聞かれて、pcr検査に回される率が高い人たちだ。心配なさそうな職業の人は、「まあ、とりあえず検査しなくてもいいだろう」となるだろうし、本人も検査を望まないので、陽性であっても見つかる確率は低くなる。そこが次なる隠れた感染源にもなる。

 4月までの国の方針では、よほどの熱意とともに保健所に掛け合うか、重症にならないとpcr検査に回らなかったけれども、ランダムにサンプリングしてpcr検査をして調べてみたら、きっと若い人の割合はもっと高かっただろう。夜の街はひっそりと営業を続けてウィルスを培養していたとはいっても、それくらいの闇は日本中のどこにでもある。

 感染していることが見つかったらなじられる恐怖にさらされ、なるべく見つかりたくないという個人の願望と、感染が広まる現実を見たくない社会は、共にあうんの呼吸で、叩いてもさしつかえなさそうなスケープゴードが選ばれた。ホストクラブ、キャバクラ、パチンコ、ビーチ、ライブハウス。真面目なサラリーマンの乗り物である混雑した公共交通での感染、は決してクラスターになることはない。

 闇が深ければcovid-19は明るみに出てバスターされずに生き延びられる。地方で排除され、都会の闇に潜んで隠れなくては生存できない人がたくさん吹き溜まっている東京から、人はどこにも行くあてなどない。「帰ってくるな」といわれる地方には、もう頼まれても帰らなくなる。かくして東京に人は集まり続けて密集する。

 人は見たいものしか見ない。その教えを頭に刻み込んで、できる限りまともなデータを取り知恵を共有しないのなら、間違った解釈がなされて広められる。そのとき、covid-19は誰彼となく刃を向ける。

 ファクターXのおかげで死はそれほど身近にならずにすむと期待しよう。

 
 

新型コロナウィルスに揺さぶられる生存への価値

 きょうは国際女性デーであるらしい。ふう、それにしても新型コロナウィルス一色で私の頭のなかに、ミモザの色が入り込む余地はほんの少ししかない。この2つをつなげて考えてみたくなった。

 一番それらしい論点は「学校休校と女性」。子育て中であったら、どれほどきつかっただろう、と想像しただけで冷や汗が出る。私の住む地域では、今年度は台風災害のため長期停電と断水で学校が休業していたから、今回の休校で「またか、もう勘弁して」と感じている母親たちが多いと思う。ついでに駆り出されるのは祖母たちだろう。方法と戦略が正しいかどうかは別として、女性たちは生存のために文字どおり走り回る。感染を予防するためにマスクや消毒薬を調達するだけでは済まずに、いまやトイレットペーパーの不足にすら悩まなくてはいけない。大量買いの高齢女性は非難されているけれど、もしかすると、多忙で買い出しに行けない子どもたち家族や近隣の知人の分も購入しているのかもしれない。

 文明が進んでも人が感染症に振り回される事実は意外で、対策もさして変わり映えがない。新しいウィルスの前に人は無力である。国立感染症研究センターのウェブサイトには100年前のスペインインフルエンザで起きたことが簡潔にまとめられていて、予測に役立つ材料の1つとなっている
http://idsc.nih.go.jp/disease/influenza/pandemic/QA02.html)どうやらオーストラリアや小さな西太平洋の小さな島は、例外的にウィルスの国内侵入を遅らせることに成功したらしい。新型コロナウィルスへの対応も素早く厳格で、これらの国々へはあっという間に日本からの渡航は禁止されている。もう、私たちは感染源とみなされているのだ。

 残念ながら、同じように島国でもあるはずの日本はスペインフルで約2300万人の患者と約38万人の死亡者を出している。当時の人口が5500万人程度なので感染が目に見えた人だけで約4割。もう罹る人がいなくなるまで蔓延したということだろう。致死率2-3%程度のウィルスは宿主を殺しすぎずに、広く拡散するやっかいなタイプで、まさに新型コロナウィルスの伝播を予想させる。スペインフル当時の対策は、「患者の隔離、接触者の行動制限、個人衛生、消毒と集会の延期といったありきたりの方法」しかなかったと書かれているが、いま現在世界で行われていることそのものではないか。点滴や人工呼吸器やいくつかの装置、対症療法の薬がいくつか加わっても、所詮人は免疫によって抗体ができ回復を待つしかない。100年間の人類の科学的進歩が死にいたる人をすこし減らせたとしても、感染が広がれば国内だけで数十万人の死亡者が出る、とんでもない水準の災厄となる。

 ウィルス感染のような事象が突然降ってきた折、日本人はどうやら最も対処に向かない政権を当ててしまったように思う。この政権は直ちに経済に直結しない学問をすべて役に立たないものとして敵対してきた。感染症対策への予算も減らされてきた。非常時に科学的根拠に基づいて適切な指揮をとれる人材を登用することは叶わないだろう。こういう時に頼りになる官僚制度も半ば破壊し尽くされた。徹底的に科学的な対処をせよ、と専門家集団と政治が見事な連携を見せる中国のようにはいかない。「男の聖域」である経済活動で人が密集する状況を減少させようとせず、手っ取り早く「女子どもの世界」である学校を思いつきで閉じたり、致死率が高い中高年を守るためといって若者に行動の制限を呼びかける。ジムに通い観光地に出歩いているのは時間とお金に余裕ある中高年ではないか。ウィルスは科学に疎く「経済優先」で場当たり的な内閣に助けられてやすやすと蔓延している。

 科学に特化しすぎる冷徹な官僚制はいつも正しいとは限らない。けれども、ウィルスとの戦い、といったシンプルな事象には官僚制は頼りになったかもしれない(https://jp.reuters.com/article/virus-hadas-breakingviews-idJPKBN20S0MM)。日本社会はここしばらく官僚制の弊害に気づき、皆でこの制度を嫌い打ち壊してきた。個人では対処しようもない事態のもとで、家族は命をともにする小集団となるだろう。その時、個人が銘々に好きなライフスタイルを選択するというきれいな約束は通用しない。相方の感染は自分の罹患へと直結するからだ。放射能が降ってきた時のようにはいかない。友人知人でも感染リスクへの考え方が異なる人間は会いにくくなる。その関係の集積の果てに、都市や社会における人々の断裂があらわとなる。性別の間に横たわる溝はその1つにすぎない。ウィルスは日頃分断されている生活空間の差を乗り越え、生存への価値をどう置くのか、選択を迷う暇を与えてはくれない。

映画「パラサイト:半地下の家族」と「ジョーカー」の揺さぶる世界の狂気

 映画館で早めに見ておきたいという気分のほうが、新型肺炎への恐怖よりもまさって、ギリギリまで悩んだけれど、「パラサイト」を見に行ったのが1月のことだ。けれど隣席に座った人がマスクをしながら咳をし始めたので、文字どおり体が固まった。2週間たったので大丈夫そうだ。いまだったら、もう行かない。ジョーカーは上映期間に見逃してしまったので、自宅プロジェクターでミニシアター上映。2020年アカデミー賞で、「パラサイト」はオスカーを、「ジョーカー」はホアキンが主演男優賞を手にした。「パラサイト」はカンヌも制したから、文字どおり世界の映画界を席捲している。

 正直に感想をいえばどちらも好きとも言えず、感銘を受ける映像でもなかった。どうしてなのかここで考えてみる。プロットやストーリーはいかにも階層のことを気にかける社会学者冥利に尽きるのでは?でも、そんな野暮なことは論文に任せておけばいいのに。この映画には刺激と面白さはあっても、新しさをまるで感じない。映画にはその先をいってもらいたいのに、周回遅れに学問を剽窃している。
 「パラサイト」は誰に受けるのかといえば、半地下に住んでいない家族だろう。どちらかといえば、夫を殺された家族が所属するような上流階級には入れなかったかもしれないけれども、半地下に落ちないように、必死に地上に踏みとどまろうとしている中流階級の人々。つまり、私たちのような人。階層の上位にいる人々を悪い人とは描かないように注意深く避けている。勧善懲悪でもないから、嫌味なく楽しめるファンタジーのような娯楽映画に仕上がっている。もしも、ほんとうに上流階級の悪口をいったら、大作を制作するためのお金も出してもらえないし、アカデミーやオスカーには選ばれないだろう。セレブリティーの慈善活動に対して、タキシードとドレスの人々が、英語圏でない映画に初めて拍手喝采を贈るにはちょうどいい映画だったのだ。ハラハラドキドキ。登場人物と一体化してしまうので、エンターティメントとしては、とても面白いのだから文句はない。
 「ジョーカー」はもう少し人間の恐ろしいところをあえて描いている。だから、オスカーは逃したのだと思う。手法としては煙にまく、というやり方で。本質は女嫌い(ミソジニー)の映画だったから、余計に怖いのだが。自分を守らなかった母、虐待をした事実を隠して介護するよい息子にさせられていた、と気づいた時に始まる男の狂気。優しさという行為を信じる可能性を、完全に裏切ることへのためらいのなさ。それが笑いと暴力なのだとするなら、「ジョーカー」は確かに「パラサイト」よりは、見たくないものを見ようする。しかし、憐憫への拒否が暴力への連帯であるとするなら、それは誰にとっての救いにもならず絶望しか先には見えない。

 この2つの映画の受賞は、「上級国民」が自分たちが恐怖に苛まれている、という感情を吐露するところまで追い詰められたという現実をあらわにした。多くの凄惨な殺人が続き血が流される。いまとなっては、是枝の「万引き家族」がいかに穏やかなファンタジーであったのか、と懐かしくなる。もう、下にいる人々は黙っていないだろう、と身近な暴力を恐れてみんな戦々恐々なのだな。
 じゃあ、恐怖に怯えた人はどうするか?エスタブリッシュメントのコミュニティはさらにゲートを閉めて、区切り、分断して悪いものが入り込まないようにするのではないか。映像の世界で弱い仲間と連帯をしているフリをしながら、現実世界では決して交わらないように、よい地域に引っ越したり、幼い頃から受験をさせて、子どもと家族を守ろうとするのではないか。映画の中の半地下に住む家族の父親が家長として、正しい振る舞いとして殺人を犯したように、たとえ自分のビジネスで地球の裏側で人が亡くなろうと、目の前の家族を守るために、親族の力を結集して策を練る。その精神を下敷きに正義を語る映画を皆で愛でている、つまりは自己弁護にすぎない。
 かつてゴダールが「気狂いピエロ」を描けたのは、一瞬鑑賞をするものが「狂気の世界」に近しさを覚えたとしても、すぐに「普通の世界」に戻れるという安心感があったからだ。「ジョーカー」は普通で真っ当な世界など、もうどこにもないという現実をつきつける。「気狂いごっこ」はもうできない世界で、真っ当であることとはなんなのか根底から揺さぶられる時代が訪れた。