下水汚泥を焼却するとセシウムが拡散する

ここしばらく引っかかっていた問題が1つ解けた。今日のNHKで報道された下水汚泥の焼却施設の放射能汚染が重要なヒントとなった。しかし、テレビでいわれなかったところに、ほんとうの懸念がある。汚泥を燃やし続けているということの怖さである。NHKはあえて指摘しなかったのか。
最新鋭の下水汚泥焼却施設では850℃という高い温度で脱水された汚泥を燃やす。セシウムの沸点は690℃なので一度気体になってしまう。そのあとに、排気ガスからセシウムを取り除く工程が入っているかどうかは、公開されているプラント工程表ではわからなかった。だが、セシウムは通常想定されていない物質だから、100%補足されているとは思えない。一連の報道は焼却灰の放射性物質のことばかりを気にしているけれど、燃やされて出て行ってしまっているほうも、心配してほしい。このような施設は、都内各所にある(http://www.gesui.metro.tokyo.jp/gijyutou/jg22/jigyougaiyou22/kubumap.pdf)江東区の東部スラッジプラントは大きくて、ここに運び込まれている汚泥もあるようだ。
ちなみに、セシウム汚染が話題となった足柄茶産地のごく近くにも、焼却施設がある。ホットスポットが明らかになった東京都の東部や千葉などの汚染も、汚泥の焼却施設と関連があるかもしれない。雨が空気中のちりやほこりを集め、下水道を通ってせっかくまとまった(つまりエントロピーが下がった)状態が作り出されたのに、またそれを拡散してしまっている。頼むから燃やさない、リサイクルしないでガラス固化したりして埋めてほしい。
危ない物質は散らばったり拡散させてはいけないという環境汚染予防の原点に戻らないと。残念なことに、リサイクルはやりの時代は毒物を循環させやすくした。結局こういう物質を集めてしまうのは生物。お茶が新芽に取り込み、食物連鎖を経て人の体にも移行する。その結果体に響くことになる。このままではセシウムはぐるぐる循環を続けてしまう。東京都は、お上に基準などの要望を出してる場合じゃない。自分で判断してほしい。責任をとるリーダーの"ふり"をするのだけがうまい知事と副知事にはどうもすぐには期待できない、となると緊急に自衛が必要な地区がいくつもある。

震災の余韻に読んだ本:「失敗の本質」&「三陸海岸大津波」

震災後しばらくは物を読む気がどうにもおきなかった。圧倒的な現実を前にすると言葉がいつもにまして空虚に飛びかう状況に耐えられない。かといっても、自分もこうやって言葉を紡いでいるわけで。手に取る気がわいた本が数冊。最初がなぜかポールオースターの小説で、次に月並みながら「失敗の本質」と「三陸海岸大津波」。どちらも、書かれていることとほぼ同じ内容がリアルタイムに目の前で繰り返されるので、つい付箋を張ってしまいながら読んだ。最後に深いため息をつく。あー、これが文明開化以来築いてきた私たちの社会の姿なのだ。
「三陸海岸大津波」は作家により調べられたドキュメンタリー(風)読み物である。丹念に拾われた物語は、最後に2つの大津波を生き延びた老人の、楽観的な言葉で締めくくられていた。明治、昭和前半に受けた甚大な津波被害に対して、人々は十分な防護を固めている。防災無線は発達したし、巨大な防潮堤も整った。訓練や知識も行き届いている。したがって、次に津波が来ても人々はめったに死なないだろう、と。彼は「科学」を期待できるものと感じていたという点で、戦後日本人を確かに象徴している。
悲観的な予測で締めくくられた物語を人は好まないことはわかる。けれど、作者が本文で繰り返し示唆している事実と、最後の締めくくりはどこかズレていた。作者は50mの津波が来る可能性を認識していたのに、聞き取りをした人々に寄り添うあまり、厳しい目線で締めくくることはできなかった。作家がそうあることは、罪ではない。
しかし、日本軍の敗戦に至るまでに繰り返された「失敗」の数々には明白な罪が見つかる。判断を要所要所で誤ることでたくさんの人命が失われた。正確な状況判断をしたと思われる人が発言しても、その意見はとおらなかったし逆に地位を追われたりしたことも悲しみを誘う。予測能力はなくても根性論で情にほだされる声の大きい人の意見が通りつづけた結果、日本は過酷な敗戦を迎えた。失敗しても、「熱意がある」人たちの責任が問われることもない。情報を集めることと、いまでいう後方支援(生活や食料など確保する兵站)に、日本は問題を抱えつづけていた。世界の日本人ジョークでも、最弱の軍隊は「日本人の参謀」とあるように、兵隊(いまも福島の現場で「戦う」人々)がいくら優秀でも、戦いには勝てない。著者たちは、米国のように失敗を生かす「科学」をちゃんと打ち立てれば大丈夫と考えている節がある。
結局、この震災による津波被害と原発事故とは、敗戦後に日本の問題を「科学」が足りなかったせいだと捉えた戦後の知識人に厳しい結論をつきつけた。相変わらずその延長線上で物事を捉えようとする人たちが多いことにうんざりだ。
ところで、水産庁は最近ひっそりとホームページでの問題表現(4/1付けブログにあり)を書き換えたようである。責任はこうやって曖昧になっていく。いくら「科学」的であろうとしても、情報やデータを使いこなすことがヘタクソで、現実に応用できないならば、いっそ「呪術」と「言い伝え」の世界にもどってはどうか。井戸の底を覗いて水がなくなっていることを確認し、高台に即刻避難したおばあさんの知恵は、工学者の津波予測よりも、ましだったのかもしれないのだから。