テロより怖いジェノサイドと共謀罪

 マンチェスターでまた悲惨な自爆テロがあった。もう驚かなくなっている自分が悲しいけれど、ぞわっと広がる恐怖は、この本で癒す。恐怖には恐怖を持ってくる。世界はそれでもよくなっているんだと信じられるから。加藤直樹「九月、東京の路上で:1923年関東大震災ジェノサイドの残響」丹念で生々しい記述が続く。
 関東大震災で壊滅した東京で、日本人はやりきれなさに感情の行き場を失い、朝鮮人、中国人であるというただそれだけの理由でつぎつぎと虐殺をした。具体的な地名と証言が淡々と積み上げられていく。日頃から東京東部あたりをうろうろしている私にとっては、「すぐその辺」で何十人もまとめて殺されているリアルを感じる。震災だけでもうたくさんなのに、人はなぜジェノサイドに走ってしまったのだろう。一緒に働いていた同僚たちなのに助け合えず、同じ人間と見ることができなかった。そのあとの空襲でも亡くなった人の数は半端ない。ピッカピカのビルが立ち並ぶ東京は、いまもさまよえる魂だらけであろう。気が滅入る。
 ジェノサイドを行った自警団は猟銃があれば取り出し、先祖伝来の日本刀を持ち、竹槍やとび口、薪割りなど身近な凶器を持ち練り歩いた。集団で朝鮮人を探し出し、匿っている日本人がいると脅して差し出させ虐殺した。「なにもしていない」と逃げている人を、よってたかって殺して池や川に捨てたり、河原に埋めたりしている。妊婦だろうと子どもだろうと構っていない。なんたるおぞましさだ。それで何一つ罪にも問われず、普通の高齢者となって年金生活をしている人がいるはずだ。巷にあふれるヘイトスピーチだけでなく、中国韓国を嫌悪したり見下す発言のオンパレードは、ジェノサイドを反省することなどなく戦後をフツーに生きた市民がつくる日常である。
 その亡霊がむくむくと甦ろうとしている。SNSがあろうとなかろうと、人は噂に弱い。一番怖いのは普通の善良なはずの市民と、そして噂を否定せずに加担してしまった内務省と警察だ。権力と市民が手を携えて、何をしようとしているのか。その権力側に国会は(ということは市民は)「共謀罪」を罰する法案を与えようとしている。マジョリティの普通の市民と警察が手を組んで排除しようとしているのは誰か。マイノリティであり、噂におどらされなかった異なる見解を持つ市民である。これがテロそのものよりも危険極まりないものでなくて、なんだというのか。

クローズアップ現代+「食卓"簡単”進化論」データ裏話

クローズアップ現代+の企画内容についてやりとりをしていた経緯から、思いがけず自ら解説することになってしまいました(http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3972/index.html)。3つのグラフが予定されていましたがたまたま1つしか映らないなか、数分の説明で適切に言葉を選ぶことの難しさを痛感しています。せっかくですので、背景とともに少し補足します。紹介されているデータ元は、小論としてヴェスタという雑誌にのせたものです。(htp://www.syokubunka.or.jp/publish/vesta/detail/post-45.html)。なお、論文としてはこちらが初出です。「無償労働の時間配分と社会福祉政策 ――日本、イギリス、オランダの3カ国比較から」http://kakeiken.org/journal/jjrhe/75/075_10.pdf)。家計経済研究所による研究助成をいただいて作成されたものであることを記して感謝いたします。

 下記グラフをみてわかるとおり、日本女性は炊事にヨーロッパの平均的な国々よりかなり長時間割いています。ミクロデータを入手して比較分析できたのはイギリスとオランダですが、他の先進国とさほど変わらないこともわかっています。一方、子どもの世話については、それほど時間を使っているとはいえないようでした。ちなみに、生活時間の国際比較では、平日と休日を足した平均の1日あたりの分で表記するのが通例です。

  炊事時間の3カ国比較(17歳以下の子どもと固定的パートナーのいる男女)2001年


出典:品田知美,2009,食文化誌ヴェスタNo.75,()味の素食の文化センター


子どもの世話にかける時間の3カ国比較(3-9歳の子どもと固定的パートナーのいる男女)2001年


出典:品田知美,2009,食文化誌ヴェスタNo.75,()味の素食の文化センター


 もう一つ番組中で解説した中食意識の変化に関するデータは、私が作成していませんので著作権の関係から転載できないことをお許しください。詳しくは晶文社「平成の家族と食」(http://www.shobunsha.co.jp/?p=3732)の基礎編で畠山氏による「手抜き化は進展しているか」に詳しいので、そちらをご参照ください。
 
 家族の日常生活を時間という観点を中心に研究してきた私の本流ともいえるお話を、テレビで解説する機会をいただいたことはありがたく思います。2015年末に出版された「平成の家族と食」(晶文社)を目にとめていただいたからなのですが、もともとこの本の企画の背景に「なんで日本女性はこんなに炊事に時間を使ってるのだろう?」という疑問があったのです。その謎はまだ完全に解けているわけではないのですけれども、今回のクロ現+のもうちょっと合理化していいんじゃない?という提案には全面的賛同します。

 ところで、番組中で言う機会を逸した重要な論点が1つ。
 食卓が簡単へと進化し時間も少し減っている一方で、育児はそうでもなく時間が増えていることがわかっています。もともと、上記のように日本女性は子どもとかかわる時間が少ないなか、炊事に時間を使っているのですが、近年は育児を増やして炊事を減らしているという傾向があります(近日学会で発表を予定)。ちなみに、小学生がいる男性は、平均4分とかのまま。台所界隈には相変わらず入っていません。

 保育園にこれだけ子どもをいかせるようになっていても、なお育児が増えているのは、なぜだろう?そして、相変わらずカジメン、イクメンはそれほどいないのも残念です。

 というわけで、母親が暇になっているという様子はみえないままでした。

GWに見た映画:わたしは、ダニエル・ブレイク

 ゴールデンウィークはもう1つの家にいて、模様替えと片付けに明け暮れていました。自宅をオフィスにして仕事をする生活になるので、居場所をつくらないとなんともならないです。頑張った〜!🍷その合間に出かけた唯一のレジャー、映画「わたしは、ダニエル・ブレイク」。映画好きの母に強く推奨されたおかげで、腰の重い私も最後の上映期間に滑り込むことができました。そりゃまあ、素晴らしい映画でした。おなじくケン・ローチの「天使の分け前」も大好きでしたし。福祉、とか貧困、とか多少なりとも気にかけている人なら必見映画でしょうし礼賛でしょう、完全に。あのフランスのカンヌでパルムドール受賞ですから。

 でも、というか、だから、なのか私にはどこかムズムズとした違和感が拭えないまま帰路についたのでした。なんでしょうかね、この美しい理念がバッチリと伝わってくる完璧な映画に対して。文句をつけようがないとはこのことなのでしょうに。こういうときこそ書かずにはいられない。

 私は10年ほど前に人生最大のエアポケットに落ち込み、傷心のままニューカッスルに10週間ほど滞在経験があります。労働者階級の象徴たるニューカッスルが舞台の映画。ひしひしと、街角のイメージがよみがえりました。シーズン前なので試合には行けなかったのですが、毎日アパートの窓からサッカースタジアムを見ながら暮らしていました。隣町のサンダーランドは電車でわずか数十分の距離にあるライバルチーム。ダービーマッチは大変なことになる。こんな近くに2つもあるなんて、さすがプレミアリーグ。それに私の生涯愛するミュージシャンStingも、ニューカッスルのはずれの小さい町で生まれ育っています。

 映画の前置きが長すぎましたね。要するに土地勘がありつつ見た映画、といいたいだけ。ついでにいうと、2012年、まさに保守党が福祉予算をカットしつつあった時、私は福祉と文化の研修授業として学生をイギリスに引率し、当時激変しつつあった福祉政策についてのレクチャーで危惧されていたこと。そのとおりの事態がシンプルに映画になっていた感じでした。
 ただ、「カフカのように不条理な官僚システム」(ビッグイシューVol.307)の最前線で演じている公的機関のスタッフたちが、あまりにも杓子定規に描かれていると感じたのは、なぜかな。つい先ごろまで在籍していた大学の卒業生たちが、ソーシャルワーカーや公務員になり、福祉の最前線でどれだけの苦労を背負いながら日々暮らしているのかを、聞いていたからかもしれない。イギリスで起きていることとしてではなく、日本でも確実に起きていることなのです。どうも、「イギリスってひどい状況よね」的に見る人がいるようですが、日本の現実も相当な酷さですから。もっというと、血の通っていない官僚制はどちらかといえば、お隣の国フランスで酷そうです。こういう映画を作る監督がいるイギリスという社会が、この映画を賞賛するフランスと比べて本当にひどい状況なのかどうか、現実と映像は意外に入れ替わっていたりするかもしれないのです。
 予算がない、人員配置がない、そういう現場で誠心誠意働こうとしたらどうなるのでしょう。あの映画で心ない人として描かれたスタッフに、疲れている(元)学生たちが重なって見えてしまいました。その時、人はどうしたらよいのでしょうか。すっきりした回答が私にはまだよく見えていません。ケン・ローチには、そこをもっと丁寧に描いてほしかった。

 あの美しくもキッパリした映画を、手放しで素晴らしいと言える人がうらやましいと思う反面、その人々は途中のぐちゃぐちゃとした現実を知らないのだろうと、残念になります。それが一番悲しく感じてしまったところでした。

 

子育て時代の懐かしい風景

 新生活を始めてからこんなにすぐに月末を迎えるとは思いませんでした。たいした義務もないはずなのになぜだか忙しい。そんな合間にぽっかりと空いた時間ができてしまい、20年前に子育てをしていた街を歩き回ることに。
 私にとって、たぶん、最も感傷的になる場所はここなのでしょう。東京都区部なのに驚くほどに変化に取り残されたかのような風景。小さい石段のある公園を1人で歩いてみると、いまも親子連れが遊んでいます。
 
 ここでは平日の午後でも遊んでいる子どもや歩いている親子をよく見かけます。当たり前のようで、地方や大都市圏の少し郊外でさえ、そう簡単に路上で親子と出会えません。
少子化の時代、地方ではごく近所に子どもがいないこともあってか、子どもたちは放課後に自由に行き来することは難しくなっています。遠方に自動車で送り迎えしてもらいながら路地裏や近所の公園に行くことなどそぐわないのでしょう。

 私のように子ども時代をほっつきあるいて過ごした経験のある人間は、今でもそういう子どもがいるのをみて、なんだかほっとします。その点では都会で子育てできたことは意外に幸せだったのかもしれないと思います。自然があるのに身近で自然を堪能できない農村の子どもと、わずかな自然しかないのに近隣で歩き回れる子ども。

 どちらがいいともいえません。けれど子どもは親を選べないように、生まれ育つ場所も選べません。懐かしい風景を確かめながら、確かに子育てを共にした仲間がいたことを思い出して、つい旧交を暖めてしまいました。