夫婦別姓が容認されるとき(覚書)

  もうあれから6年たったのか。またも最高裁は夫婦別姓に対してそっけない対応をした。でも、世間の反応はむしろ違和感を示していた。そこにな世代と性別のはっきりしたズレがある。

 かれこれ四半世紀にもなる事実婚生活の当事者としては、正直いってどちらでもいいのだが、家族研究者としてはある意味予測どおりで妙な話、うれしい。そう簡単に認められないという意味で夫婦別姓問題は日本のキモだから、とずっと主張してきた身としては。

 夫婦別姓が容認されたときに社会は大きく動く。その予兆はすでに十分ある。女性たちはようやくひとりの人間として言葉を発し、それを届けられる地位に入り始めているから。1960年代生まれの私たちと今の若い世代は相当感覚が違っていて心強い。私の世代は知人も友人も研究者も職業を続けていたとしてもほぼみんな法律婚をする。事実婚で子の氏は一人ずつ、なんて自分しかいなかった。でも私にとってこれは大事な人生の選択だった。孤独だったけれども仲間は増えている感じがしている。

 日本人は家族という言葉を家(ie)に読み替えて近代化をなしとげてきた。Familyの翻訳語として家族に二重の意味をかぶせるありがちな明治以来のお作法。そのとき1つの家には姓を1つしかつけることはできない。結果として家族に同姓を強要し戸籍でくくることにこだわる。ちなみに阪井氏(事実婚と夫婦別姓の社会学)がいうようなリベラルな戸籍制度は矛盾に陥ると思う。個人と家族の優先順位が逆である以上、どこかで無理が生じるから。

 この家(ie)的な「家族が個人より先に存在」するという思念によれば、別姓は困難である。夫婦別姓とは「家族よりも先に個人が存在」し、集まった人々が集団をつくるという発想から出てくるものだから。選択制であっても「家族が個人より先に存在」すると思念する人からは許容できない制度となる。(*ただし、自分の生家というもう1つの家族が個人よりも先に存在する、と考えるグループも夫婦別姓派にいるので、話は少々ややこしくなる。)

 個人を単位とする社会、とか家族の個人化、とか家族の私事化という社会学の用語系が私にはどうも腑に落ちてこなかった。当たり前でしょ、とつい思ってしまいたくなるからだ。でも個人がいない家族のリアルを目の前で見せられ続けてきて、ようやく微妙なところを理解した。親たちの世代には理念を口で唱えていても、身体感覚として個人が家族より前に存在している女性はとても少ない。残念ながら運命といいつつ夫についていく女、がそこにいるだけ。

 結局、保守派が「家族が壊れる」と嘆くのは「家族が個人より先に存在」する状態が壊れること、平たく言えば女性が自立することへの恐れの単なる言い換えなのだ。個人がつくる家族という考え方の浸透は民主制の根幹となる理念がついに女性に到達したことをあらわしている。憲法の理念が血肉化するときに生じること、それが夫婦別姓の容認である。そんな恐ろしい理念だからこそ、日本会議系自民党議員は認められないのである。

 しかし、少し前のLGBT法案合意が決裂して流れてしまったり、夫婦別姓容認派と分裂したり、ついに保守派の多くも個人を基礎とした社会制度という概念があたりまえに入っている。ここに政治上の深い対立軸があることがあからさまになった。アメリカのように共和党だろうと民主党だろうとそこに誰も疑念を挟まないのと同じ状況がもう少しで日本にも到来しそうだ。「古き良き日本が壊れる」と必死に阻止しようとしても、その発想は次世代にはもう残存できない。グローバル化する世界と直接つながる世代にとって個人としての自分が存在することは疑いえない領域だ。

 日本で第二次世界大戦後に墨塗り教科書で学んだ字面の民主制と違う、自分という身体感覚をもった個人がついに大量出現し勢力を増大した時、夫婦別姓は当たり前のものとして容認される。後戻りできないトレンドが真に押し寄せたとき、歴史は誰にも止められない。