選挙雑感:共産党、躍進と騒いでいる場合か

 出口調査の結果が映るのをみながら、あー、とため息をついていた。
 あらゆる議席に候補を立てる共産党。「自民党」「民主党」(その他諸派)「共産党」と3人の得票率が次々と繰り出される。「共産党」以外の野党がかなり頑張って一本化しているから、そのお邪魔ぶりが半端なく目立った。小選挙区は1人しか当選できないという制度上の限界を、捨て身戦法で突破しようとする。共産党のこの戦法が続く限り、当分のあいだ自民党は安泰だ。そう、小沢一郎が語っていることは正しかった。確かに野党勢力の当選を「邪魔」している。野党の票を単純に足すと、小選挙区の勢力図はガラりとかわり、かなり拮抗したはずである。今回の与党が信任されたといっても、薄氷ものだったといえる。
 しかし、共産党が、自民党を助ける公明党のように野党を利する行動をせずに突っ走る限り、民意はまさに死に票として捨てられていき、与党の票が膨れ上がる現象が続く。それを躍進として、何がうれしいのですか?もしも掲げている政治の目的を達成するために最適な方法を探っているのであれば、こんな手法は取らないはず。失望しました。もし組織内部でまともに議論がなされるようなら、二度と同じ轍を踏まないでいただきたい。この結果として原発やエネルギーの政策が旧来型へと回帰していくのは避けられない。結果的に与党が大勝してしまえば、それを助けることになる。この一本調子は正義ですか?
 まだ、日本人は収奪され続けていることに気づかない。振り込め詐欺にあれだけ引っかかっているのだから、騙されてもしかたがない。ただし、「国家はなぜ衰退するか」にも書いてあるとおり、特定の社会で一部の人々が多数の人々から収奪をし続けると、やがて全体社会まるごとの衰退が始まる。収奪し続けることは結局できないのだ。現代日本社会に奪い取る先が少なくなってからは、未来の人々からも収奪をしている。背筋の寒くなるほど積上った国の借金と少子化はそのことを示している。「次世代」とら「未来」とか名前のつく政党はどうやらすぐに消える運命にあるようだ。人々が将来に明るい希望を持ち得ていない時、未来を語る名前は空々しく聞こえてしまうのかもしれない。
 逆説的ではあるけれども、これでとどまりようもなく行くとこまで行くだろうから、クラッシュとガラガラポン、は案外と早まったのかもしれない。幕末インフレ→ええじゃないか的動乱→維新、の再現?は近づいた。

 

読後感想「シンルグマザーの貧困」(水無田気流)

 いただいた本について、私信でコメントするのももったいないかな、と折角ですのでブログで書くことにしました。著者の水無田さんは、朝日新聞やNHKなどマスメディアに登場されている貴重な女性の論客,詩人/社会学者です。詩人ならではの言葉選びの感性の鋭さ、また学問領域への目配りの広さに、いつも脱帽させられています。今回の著作もその力業には鬼気せまるほどの迫力を感じさせられました。短い仕事時間の中で、集中してここまで仕上げられている、というあたり、私の仕事時間密度を振り返って反省しました。
 シングルマザーの貧困問題、というものが一般に流布する際にはとかく、「福祉の対象」として世界最悪の貧困率、といった側面のみが全面に出やすいところ、余すところなくシングルマザーの現実を描いていただいた、という点で価値のある一冊となったのではないかと思います。学生たちにも一読をすすめたい本ですね。インタビューのケースは、6人。それぞれをモチーフとして各章を編成する、という構成はとても洗練されていますので、読みやすく、腑に落ちるものです。時間制約もあったと思いますがおそらく、もうすこし違う事例、特に経済的に厳しい事例に出会えていたら中身も違ってきたのではないかとも思いますが。とはいえ、平均的には意外とこんなところだろうと、私も常日頃の情報からは感じているので、さほどの違和感はありません。
 けれど、これを「聞き取り調査」(p.6)と言ってしまわれると違和感が生じます。調査というには数が少なすぎますし、どうやって選んだのか、など手続きの問題は避けて通れません。この著書は、学術研究とジャーナリズムの間をつなぐところで書かれているという点で稀少ですし、そこに存在意義があるのだと思うので、わざわざそう言わなくていいのに。
 また。数字のとらえ方について残念だと感じた箇所は、例えば、私の専門とする生活時間領域で「日本人は有償労働時間も、家事育児の無償労働時間も、諸外国に比べると長いのが特徴」(p.142)とありますが、これは事実とは異なります。有償労働時間は長いのですが無償労働時間は短いので。「近代家族のゆらぎと新しい家族のかたち」(第3章家族の生活時間とワークライフバランス)にもOECD at a glance 2011データを引用しています。有配偶女性が家事育児を熱心にやっているから誤解されがちですけれど、私が比較したデータですと子どものいる女性だけ比較してもイギリス、オランダ女性と差がなかった。それで男性がやらない分トータルは多くない。うーん、水無田さんもそこは誤解しているのか、とちょっとがっくり。私が渾身の力を込めてここ20年やってきたことは全く世間で理解されていなんだということを、再認識させられました。
 結論に述べられている「シングルマザーの貧困は、日本社会の問題の集積点である」という認識には全く同感しております。ただ、働いている時間が長いのに収入が少ない人は男性も含め他にも多いし、さらに安倍自民党政権下で増加しているはずなので、個人的にはこの「非正規」と「正規」の賃金格差問題も対策提案に強調して加えてもらいたかったところです。また、議論などさせていただく機会を楽しみに。
 

悲しい帰結となったSTAP細胞はなぜこれほど話題となったのか

 1人の重要な科学者の命が絶たれるという、これほど悲しい帰結が待っているとは。日本中の人々が、まるでにわか科学者であるかのように話題にしたSTAP細胞。科学における失態にとどまらず、メディアにジェットコースターのように持ち上げられ、叩かれて悲惨な現実がついに呼び込まれた。
 じつはこの問題、1番最初から、全く関心が持てない、つまらない、なぜみんなが騒ぐのかよくわからない話題であった。だから、ニュースも追っていなかったし、皆が話題にしてもあまり熱心に参加もできなかった。ところが、さすがにこういう結末になると、自分が避けてきた意味も含めて、振り返らざるをえなくなった。
 私は小保方氏と同じ早稲田大学工学部出身の理系女子、である。いまは社会学をやっているが、学部時代に理系女子がどう扱われるか、身をもって知っているので、最初にテレビに登場したときに、「ああ、男性に使われてる女(ひと)」か「ちょっと頭イカれてる常識のない女(ひと)」、だろうと思った。基本的には彼女から、「自然体」な様子を感じることができなかったからだ。
 それが全てで、あとは見ての通りの流れで、結局は笹井氏の問題であったはずで、確かに遺書にあるように「彼女のせいじゃない」んだろう。周りに利用されている状況にすら気づけないという意味で、そうとうおツムが弱い猪突猛進な女(ひと)だろう。逆に、世間のおじさんたちには「小保方さんをいじめるな」的目線があると聞く。それは要するに「女の子にそんな難しい仕事させるなんて、上司が悪い」って馬鹿にしてるってことの裏返し。あの年で一人前でなくてどうするの。あほらしい。
 女子が工学部に行くことに対する世間のハードル、そして卒業するハードル、研究を続けるハードルは信じられないほどに、いまだに高い。それを乗り越えられる人は、よほど強靭であるか、鈍感であるか、いずれかであることが多い。フツーの人にはできない芸当なのだ。ようするに、過酷な女性差別の国を生きのびて自律した研究者になることは並大抵にはいかない。
 不思議なことに、私の身近な研究者たちがあらゆる視点から白熱して「不正」について問題を語りたがった。基本的に小保方氏個人を断罪をする。切り貼りやコピー&ペーストが許されないのは常識であるが、彼/彼女は、今回の件で学術界全体が低く見られることに神経を尖らせているような気がする。プライドを傷つけられる、という感じだろう。そこで、「自分はそういう輩とは一線を画している」と主張したい。でないと、自分が取得した博士に傷がつくし、論文を出していても価値が低く感じさせられる。対世間への学術界の防御反応とでもいうような舌戦が繰り広げられていたように思う。
 ネイチャーに論文出ると偉い、博士持ってたら偉い、よい職についていたらエライ。学術界の人々は熾烈につばぜりあいをしている。私はその競り合いの構図からずいぶん前に降りてしまっていた。だって、学問や研究の価値がわかるのは、結構後になるのも普通だし、現世でめぐまれるかどうかもわかんないし、人に認められるかどうかもかなりの偶然にすぎない、でしょ。どのみちそう考えていたから、今回の事件がそれほど「大きな出来事」とも思えなかった。馬鹿なことする人もたまにはいるよな、っていうふうに。
 短期的にわかりやすい成果が出せるのなら、学術研究などいらない。マスメディアは気が向いた時にだけ、勝手な切り口で学術研究に関心を示す習慣をやめてほしい。お受験したあとしっかり遊んで学部を卒業した文系男子の記者さんにとって、理系女子は常にこわごわ取り扱うものなのは体感しているので身にしみています。理系女子が珍獣でなければ、ニュースバリューはもともと低かったはず。理研の戦略にそう簡単に乗らないで自制してもらいたかった。だいたい「ノーベル賞」とかも騒ぎ過ぎ。(社会学者にはどうせノーベル賞ないんだよ)。
 科学の中身を議論することをせずに、いつも形式的なところだけで話を見る。上から目線で研究者たちを、「使えない奴ら」と一刀両断したり、「使ってあげる」と都合がよくつまみ食いするのをやめて、修士や博士でも取って学んで欲しい。きっと別の視界が開けますから。ふだん学術研究とはとても自分から遠い世界のものと考えて、過大な期待を抱くか逆に蔑視している世間の人々と、メディア関係者の共依存がもたらした今回の災厄。学術研究が日本社会にすっきりと「埋め込まれる」日はいつか来るのだろうか。
 

 

「家事ハラスメント」論争?

 めずらしくこの件で雑誌から取材依頼があった。私が依頼された内容でコメントするにふさわしい人間とは思えなかったのでお断りした。とはいえ、そのためこの話題について考える機会ができたので、久しぶりにブログに書いてみたくなった。日頃都会におらず、マスメディアもあまり接触しない人間には、話題とさえ感じられなかったのも事実なのだけど。「家事と家族の日常生活」書いてる以上、避けてはいられない。
 まず、どういう文脈にせよ「家事ハラスメント」を最初に名付けた竹信三恵子氏の用いた意味と全くちがう意味で使われた広告が派手になされたことで注目が集まり、この本が広く知られることになるのは、よいことだ。
 それにしてもこの論争、何かを思い出させるなあ、と帰り道にふと浮かんだのは主婦論争。これまでのところ、あまり研究者や学者の参入が目立っていないが、おそらくやや混戦しつつ続くことになる予感がする。
 では、ここに時代の変化、あるいは論争の進化は読み取れるのだろうか?私はあると感じている。だいぶ昔に書いた雑誌論文(<労働>の贈与/unpaid work概念の成立)の中で、主婦論争のすれ違いについて論じたことがある。主婦論争では家事と主婦の価値が混同されていったことに最大の不幸があったと私は考えている。家事にはそれなりの価値があっても別に専業主婦を擁護する必要はないはずだ。けれども70年代までの感覚では、素朴に家事=主婦であったため、双方を切り離した議論が十分なされていなかったのである。今回の論争では、家事≠主婦となっている。そこに確かに変化がみられる。
 ところが、「家事ハラ広告」のもとになった旭化成共働き研究所の報告書を見ても、「家事は主婦のすること」というおおまかな原則はいまだ健在であった。それで随所に「夫が家事を手伝う」という表現があらわれることに、違和感を持つとコメントする人が多い。そこに時代の風を感じる。ちなみに、共働き研究所の調査自体は、対象の選び方や比較のしかた、まとめ方などあまりに粗雑な印象を受け、内容を精査して分析する気には全くならない。もっとまともなデータは学術界にいろいろある。
 家事のやり方の適切さが夫婦で話題になることは、そんなに悪くない。よく生きるために必要な家事の価値は、ちょっぴりかもしれないが、上昇したと信じよう。

読後感想:「独裁者のためのハンドブック」

 たまにしか歩かない地下鉄の通路に、1つ残っていたR25をめずらしく手に取った。そこで紹介されていた本だった。まさに偶然出会った書籍。私は普段から、いろんな人や情報に「犬も歩けば棒に当たる」的な出会いをしているような気もするが。たまたまコラムニストが「からくり民主主義」の著者だったので、つい思いつきで注文したのだけれど、期待はさほどせずにぱらぱらと読み始めた。
 ところが、久々に自分の世界の見え方に、かなり影響を及ぼした本となったのである。最近、亜紀書房って面白い本を次々出してくる。体裁がめちゃくちゃポップなのに、実は中身ががっちり硬派な本。この「独裁者のためのハンドブック」は、まさにそのタイプ。ニューヨーク大学の教授で政治学者たち。BbM2S2「権力支持基盤理論」を構想してきているようで、学術論文ではどうやら数式やら統計データで分析してきたらしい。どおりで確固として揺らがない、一本筋の通った話になっているわけだ。事例に落として読みやすく書いてくれている本となっている。
 一言でいえば社会の権力構造を、独裁から民主社会まで一つのシンプルな理論で説明してしまおう、という恐るべき話。あらゆるリーダーは、近い方から「盟友集団」「実質的な有権者集団」「名目的な有権者集団」の3つの集団に目を向けているのだ、という。この理論を持ってすれば、「独裁」に立ち向かうヒントが見つけられるというふれこみなのだけれど、そこはどうも物足りないオチ。まあ、「そこはこの理論使ってみんなで考えて」、ってことか。
 私がぐさっときたのは、独裁者は初等教育には金をかけるが、高等教育は潜在的な脅威となるから、教育の機会を制限するというくだりだ。日本社会は初等教育はよいが高等教育はぱっとしないと言われることがある。実際、大学にいるのに、教員も学生もろくにものを考える暇が与えられない。これはつまり、日本のリーダーたちが、近い「盟友集団」のみを見て政治をする独裁系に近いことを示す証左になっているかもしれない。もっとも著者たちは、ノーテンキに日本社会をとても民主的な国、と見なしているので、そんな記述はみあたらない。それでも、移民に対する制約を課しつづけ、市民権を与えない社会の例としては日本があがっていた。この種の政策は「少数が多数を支配する体制を維持するには都合がいい」ということである。
 彼らの理論を使っていまの日本政治をみると、貧しいものから広く集めて金持ちのお友達に渡すことが政権の維持を死守するための方策となっている構図が理解しやすい。金の不足は、近い「盟友集団」に対する縁の切れ目となってしまうからだ。株価あがり、円が安くなると「盟友(お友達)集団」は儲かるだろう。多くの人にとってよい方策がなにかは、あまり権力者は考えない、というところがポイントである。独裁制であればあるほど、みのりのない戦争をする、とも書いてある。
 まあ、それでも世界に目を向けるなら、「これくらいならまだいいほうか」と思えてしまうトンデモな権力者の事例が次々出てくる。著者たちが思っているよりも日本社会がトンデモに近づいていないことを祈りつつ。。。

職場に潜む「狂気」のリアル

 最近、研究費を本に使うことができる身分になったけれども、これは自費でいそぎ買いたくなった本。吉田典史「悶える職場」。ダイアモンド・オンラインのコラムが面白かったので。ほとんどインタビューまんま、のドキュメンタリー。たしかに筆者のいうとおり、「低い目線で」とらえることには成功している。ただし、「俯瞰の目線」をあえて排除しすぎているからか、育児休暇問題などに対しては、あまり本質にせまっていると思えなかった。
 職場にいる社員は、なぜ悶えているのか。1番ありがちなケースとは、上司との確執や対立などをきっかけにはじまる、いじめ、なのである。それから、優秀であるあまり上司から嫉妬され、潰されることも少なくない、という(p.221)。もう一つ悶える根深い理由は、そのような状況が発生すると、同僚に同情する人はいても、手を差し伸べる人はほとんどいないことだという。(p.223)この考察は、インタビューから引き出される内容にもとづいて、核心をついていると思う。
 ふと、最近とても似た話をどこかで読んだことを思い出した。近隣の公民館併設図書館で手にとったアメリー・ノートンの「畏れ慄いて」に書かれている内容と、そっくりなのである。彼女はベルギー人の売れっ子作家で、日本に滞在し会社で勤務した経験がある。その自伝的小説は、日本のベルギー大使館に勤めていた父親の退任を待って出版されたという。実際、出版後に騒動がもちあがったようで、もと彼女がいた老舗企業が会見を開いて「当社ではこんなことはない」と言ったとか、言わないとか。悲しいことに、小説に対してユーモア返しもできないほど、余裕がないという事実を企業自ら晒してしまった。
 ***近い上司との確執→いじめ→同僚は見てみぬふり***
この歪んだ関係性の定形パターンがそっくりで、日本人ジャーナリストの「低い目線」と、ベルギー人小説家の現場体験が、期せずしてたった1月の間に、私の貧しい読書量のなかで邂逅してしまったではないか。それはもう、リアルであると受け止めるしかない。近代的な組織であるはずだと期待したい会社組織、あるいは公的な空間とは、なぜかドロドロとした感情の渦巻く場のようだ。感情は私的な空間で、という近代化論とは馴染まない話である。
 ところで、上司と確執が起きる理由の1つが嫉妬である。妬み嫉みが渦巻く会社で、能力とはどういう扱いを受けることになるのか推して知るべし。これでは、日本であらゆる組織のパフォーマンスが向上するのは難しいだろう。ああ、また似た話を思い出してしまった。教員と学生の関係にもよくあるではないか。スポーツチームの監督と選手、家族における親と子ども、あらゆる人間の関係のなかに、このシンプルな歪んだ関係性の定形パターンは発生する。
 私は、麗しい言葉で表現された組織の理念や制度をほとんど信じることができない。制度が完璧であろうと、構成員の関係性が歪んでいれば終わりなのである。この歪んだ関係性の連鎖から抜け出すためには、個人が相当の慎重さを持って、人生の各場面を再構築していかなければならないはずである。少なくとも自分は身近なところに、このような「狂気」を発生させずにすませたいと思っている。
 
 
 

ネットでベビーシッターを探さなかったとしても

 母親がインターネットで探したベビーシッターに長時間預けていて、2歳児が亡くなった事件と、その後の報道には、心揺さぶられている。なぜだろうか、考えてみたい。
 1番かわいそうなのはもちろん子どもである。でも、母親も、そしてシッターをしていた男性にもどこかで同情してしまうのだ。私が子どもを亡くす当事者にならなかったのは単に運がよかっただけであるし、これからだって、自分や保育者として送り出している学生たちが当事者にならずにすむという保障などない。幼い子どもを育てるということは、それだけで命を預かる重い仕事なのである。当事者にならないためには、とても簡単で、子どもを育てなければよく、預かりもせず、かかわらないこと。現代人、とくに「中高年男性」はそうやって、ある意味では3Kともいえる「汚れ仕事」の大半を母親たちに押し付けてきたではないか。
 子どもたちは、たとえ家庭にいたとしても、数多くが不慮の事故で亡くなっている。(http://www.caa.go.jp/kodomo/project/pdf/130509_project.pdf)死亡する数百人は記事になることもないし、誰も逮捕などされてはいない。夫や祖父母などに預けられているケースも多い。母親がみていたとしても100%安全でもない。もちろん保育所でも事故で亡くなる子どもはいる。この事件で友人、知人、たくさんのネットワークの中で子育てをしようよ、という流れに棹さされれば、ますます母親は肩身が狭くなるであろう。このベビーシッター男性の力量は未熟であったのかもしれないが、少なくとも新米ママよりも経験を積んでいる。故意に虐待をした可能性もあるけれど、「ネットでベビーシッター」の危険性問題に集中しすぎないでほしいものである。
 もう20年も前、ネットがないころに子育てをしていた私は、子どもを預け合う会「あんふぁんて」に入っていた。会が仲介するにせよ、見ず知らずの人と預け合うことが前提である。たとえ保育園に入っていても、その時間枠に入らないときに保育を誰かに頼まずに、仕事や学業など続けられないからだ。でも、情報交換のための媒体が紙の時代では、速報性がないのですぐに預け合うことは難しかった。いまなら、ネットに置き換わるはずで、利用者となった可能性もおおいにある。結局、実質的に頼りにしたのは、友だちだったり、親族だったり。もちろん夫も。いちばんひやっとした瞬間は、慣れているはずの夫が面倒を見ていて、夜自宅に帰ってきた時だった。まだ0歳だった子どもより酔っぱらった夫は先に寝込んでいたのである。夜更かしの子どもが、起きてハイハイしていた。今回の男性が、「クスリを飲んで寝てしまった」といっているのと、さほど変わらないではないか。自分だって疲れて先に寝込んでしまったこともある。「危ない」と感じた瞬間がない親などいるだろうか。綱渡りの日々を振り返ると、ゾッとする。
 仕事をしていようといまいと、子どもを育てる行為とは、命を育むという極めて重たい日々を長期にわたり続けるという経験にほかならない。精一杯やっているつもりでも、成就しない可能性があることを、経験のない人たちにもどこかで頭の隅に入れておいてほしい。そうでなくても、子育て行為に参入するハードルが上がり続けている状況のなかで、よい対処を考えなければ、この悪しき象徴的事件で亡くなった子どもは浮かばれない。一刻も早く、誰が行うにせよ、子どもを育てる時間に対して、まともな対価が払われるような仕組みをつくらなければ、同じような事件は今後も増えてしまうであろう。
 

「小室直樹の世界」の世界

 小室ゼミの伝説はたくさん耳に入っているのだが、小室直樹の著作を持っていないし、ほとんど読んでもいなかった。編著者である橋爪大三郎氏は私の先生なのだから、孫弟子になるのにもかかわらずである。2011年当時私は世界文明センターのフェローで、小室博士は特任教授でもあったのに、会う機会がないうちにお亡くなりになってしまった。記念シンポジウムに出席したかったが、名古屋にいて東京にいく交通費の捻出が厳しかった。熱意が欠けていたことは率直に認めよう。それでもようやく記録を採録した本を出していただいてうれしい。すっかり没頭して読んだ。
 互いに丁々発止、けんか腰で議論する純粋な世界がそこにあった。久しぶりに学問したい、考えたい、ものを書きたいという衝動が高まった。最近、この感覚を持てる場所に出入りしていないのだと実感する。登場する人々の博識ぶりと、知性の鋭さには脱帽するしかない。日頃は限界ばかり感じている社会科学に対して、やっぱりすごいんじゃないか、と希望も沸いてくる。
 しかし、それにしても、である。ちょうど昨日みたばかりの映画「ハンナ・アーレント」の世界にはあったなにかがこの世界には、ぽっかりと抜けている。それがなにかを考えてみたい。まず、第1に違和感があったのは「小室直樹の世界」が国家を基盤とする強烈な思考枠組みの中で語られていたこと。その理由は明らかで、小室氏は「アメリカに勝てる強い日本にするにはどうあるべきか」と考え続けているからだ。有力な弟子のひとりである副島隆彦は、まさにその意思をついで「属国・日本論」などを書いている。国民国家の枠組みで、思考し続けていくことへの限界は語られていない。
 第2に、徹頭徹尾マスカリニティ(男性的)な世界であったこと。「女性がやっていること」は視野に入っていなかった。つまり、彼らは世界の半分を見ていない。ジェンダーやフェミニズム、家族論などは些末なことだろうか。「男子の本懐」に特化した話題でヒートアップしていく様はこの時代にあって奇妙である。ばかにしているとは思わないが、単純によくわからなかったのではないか。小室氏の生活に対する破滅的な態度、後年、奥さんに生活を立て直してもらった事実も、この領域への無関心と知識の欠落を端的に物語る。思考と生のありようを切り離せないと繰り返し論じるハンナ・アーレントの見ている射程は、一段深いところにあったように思う。
 つまるところ、私は「小室直樹の世界」の世界からぽっかりと抜け落ちていると感じたことを、彼らの生み出した思考法を学びつつ研究しているのかもしれない。その意味で残念だが「小室直樹の世界」を直接引き継いでいけることは少ない。けれども、繰り返し唱えられる「エートス論」とは、まさに人がどういう価値観を内面化しているのかを問題化しているはずだ。人間の社会化へと通ずる家族や子育ての領域が、価値観の醸成とどう結びついているのかを知ることなく、国家を論じることなどできないと私は考える。