本を出版するということ

 数年ぶりに著書が出版された(「平成の家族と食」晶文社)。新しい本が出版されると新しい読者と出会うという楽しみがある。これまでも、心温まる出会いがたくさんあった。検索される方も多いと思い、あらためて自分がどうネットの中で参照されているのか確認して驚いた。今回の本につながる重要なきっかけとなった本(「家事と家族の日常生活:主婦はなぜ暇にならなかったのか」学文社)にAMAZONで平均点1(!)の評価がつけられていたからだ。少数の敵意を持つ人だけに書き込まれたらそういうこともあるとは知っていたが、まさか自分がそうなっているとは。。。あらためて本を書いて出版するとはどういうことなのか、振り返ってみたくなった。
 これまで多数の出版機会に恵まれてきたが、「家事と家族の日常生活」は、学会誌や新聞などで書評に好意的に取り上げてもらうことも多かった。学術界で厳しく反論されたことはない。どちらかといえば、私は自分の主張を計量データなどに基づいて論じるタイプであるし、さほどイヤな目に遭うこともなかろうと思っていたが、これからはそうでもなくなるのだろう。ネット以外のリアル(現実)の場の経験と、ネット言論はつくづく違うものだな、と感じたとともに、世間の不気味さを思い知らされた。
 最近学生たちのレポートなどから気になるのが、差別などの情報をネットからとらえると、ネット右翼やヘイトスピーチなどの情報が上位に上がってくるため、その情報を真っ先に参照してしまうことだ。上位の情報をそのまま、レポートにコピペしてくることがある。以前選択のしかたについて話したら「上位の情報が正しいと思っていた」という学生もいたので、よくあることなんだろう。実際には、日本語の検索で上位にあがってくる情報には怪しいものも多い。スマホなどネットを使うメインが若者で、仕事で忙しい中高年はネットの世界にあまり熱心に入ってもいない影響もあると思う。その危うさにみんな気づいていない。
 世界はすっかり分断され、気づかないうちに自分のイメージはネット言論に左右されることもある。ネットで跋扈している人々は誰なのか。匿名で身をかくしたままモノを言う人と、実名をさらけだして熟慮の上モノを書き、批判も賞賛も一生涯引き受けていかなくてはならない著者が対等であるのなら、世界はこのまま歪んでいくだろう。
 若い人々はますます本を読まなくなっている。だからといってネット情報の選別もできているようにはみえない。そのなかで本を出版しても言葉は届きにくくなる。それでも私たちのような学術研究者は、調べたこと考えたことを言葉にし、いつも間違っていないかと検証し、独善的にならないかと反省して書き続けるしかない。その積み上げられた最後の作品を手に取って理解してくれる方々はいまだ多数派である。読者がいるから本を書いて出版するという、大変にエネルギーのいる作業に取り組んでいるのだと思う。
 しかし、今回私は編者という立場でもあり、費やした研究時間とそれに対する見返りの関係も含めて、あらためて出版することの意味を考えざるを得なかった。お金になる言葉には時間や手間がかけられていないことも多い。むしろ時間をかけないお手軽な言葉に飛びつく人々が多いなかで、自分たちが払っている努力がお金、あるいは将来の職業として返ってくることがそれなりに保障されている社会になってもらわないと、後に続く若い人々はいなくなると危惧してしまう。
 全く別の世界のようだけれども、きょう女子サッカーの皇后杯を見ながら、彼女たちが費やしている時間、お金、エネルギーとそれに対する対価の落差について同じような面に気づいた。全国放映されてこれほどのニュースバリューを持ち、貴重な社会全体のコンテンツとなっているのに、行為の当事者であるプレーヤーの彼女たちに対して、まともに支払われることはない。世界との差は開き続けている。何か日本社会はおかしい気がする。
 そうだ、だから私は支払われない労働についてずっと考え続けてきたのだった。介護や保育など賃金が安くて人手不足が問題化しているが、その前に無償で引き受けている多数の人がいることを延々と考え続けてきた。めんどうなこと、お金にならないことをこの世でやっている人(多くは女性)がどれほどたくさんいることか。そして、そういう人ほど書き手にはならないし、ネットで暇つぶしする暇もない。社会はまさにそういう人々に支えられているのに。学術本を書くという作業も支払われにくい行為の1つといえるのかもしれない。時間をかけて考え抜いてたどりついた結論をなんの根拠もなく笑ったり軽んじる人々に対しては、私は最後まで戦いつづけていくだろう。