母と見た「レオニー」

「映画でも見ない?」と誘われた時にはよく知らず、乗り気でなかった「レオニー」。イサム・ノグチの母親の人生を描いたストーリーである。私は普段、母とは映画の趣味が違うので一緒に見に行くことはめったにない。ところが、ちょうど映画をみたいこの時期、これしかないことがわかり期待して一緒に出かけた。
松井久子監督が出資者を広く募り、長年かけて構想を暖め、渾身の力を込めてつくった作品である。賛同者には著名人が名を連ねている。確かによくできた映画だった。印象に残るセリフも多い。字幕翻訳者をみたら戸田奈津子さんで、母が「ああ、なっちゃんだったのか」とつぶやいた。彼女たちは古い友達なのだ。だから余計に、この映画がどこか少し物足りないのを2人して残念がっていた。
それでも、ジェンダーに関心がある向きには、必見の映画となることは間違いない。興行的なことを考えるなら、レオニーでなくイサム・ノグチの名前をタイトルに潜ませるだろう。あえて、レオニーという女性に光を当てた心意気ある映画なのである。第二次世界大戦の前、米国でも女性はまだ家に入り主婦となることが当たり前とされていた時代、自由と自立を求めて奔放に生きた米国女性がレオニーだ。詩人で日本人の父ノグチに編集者、いや共著者として雇われ重要な仕事をしながらも、陰でありつづけたまま一生を終えた。才能を男にうまく使われてしまった歴史上数多いる女性の1人であろう。
しかし、結局レオニーは息子が著名な芸術家となることで存在を知られた(教育的な)母として描かれている。女性は"息子"の母となることでようやく認められるのか。そうであって欲しくはない。娘との葛藤はほんの1シーンでしか語られていない。そこにも、偽善やごまかしが潜んでいる。つまり、娘よりも息子に懸けるありがちな母親なのである。娘は女性で自分同様社会的地位を得にくいものだという無意識がそのような非対称を生むのかもしれない。
本人の人生が“息子の母"としての存在を上回ることはないのか。そうでなかったとしたら、“息子の母"で居続けようとする甘さに、もっと厳しい目を向けてほしい。そう描くことも可能だったはずだ。脈々と続くこの社会の根深い病理に、結局この映画は切り込むことを避けている。描き手と賛同者たちからなる「自立する」女性たちが、結局その構造の外に出られずに病理を再生産をしつづける当事者であることを、「レオニー」はあからさまにしてしまった。

午後の読書:アレックスと私

一息入れてふらっと入った近所の本屋でみつけた本。一気読みしてしまった。
「思考して話すヨウム(オウム)」と女性研究者ペパーバーグが過ごした日々の出来事が書かれている。いろいろな意味で泣かされるストーリーだった。parrot にはめっぽう弱いので。
ペットを飼ったことがある人なら誰でも、高いコミュニケーションの力を彼/彼女が持っていることは知っているだろう。でも、その表現を人間の言葉でできるように訓練するのは大変なことだ。幸いオウムたちには、人の声を真似できる能力が備わっている。You cube でもアレックスをみたが、素朴だけれど確かに相互の会話が成り立っていた。けれども、インコやオウムの飼育経験がある人なら、むしろ訓練すればできるようになって当然と思う行動が多いのではないだろうか。
私の飼っていた小型インコのセキセイでさえ、かなり高度な頭の使い方をしていた。人を見分ける、ということは当然形の識別ができるということだから、そこに言葉を与えてやるのはそう難しくないと思う。彼女は確かに「ペキちゃん」とは自分のことだとわかっていた。その上で、「ペキちゃんかわいい」としゃべっていたように、私には聞こえた。スズメがきたら、スズメ語?で呼びかけ、人間がきたら日本語を使い、気に入った音楽が聞こえて来たら合わせて歌い、リズムをとっていた。ダンスは以前にいたコザクラインコのネボちゃんの方がうまかったけど。より頭がいい大型のオオムなら、当然思考ももっと高度なはずだ。
本を読んであらためて気になったのは、こういう飼い主たちが共有しているもろもろを科学的な学術論文の形式に整えて認めてもらうことの難しさである。そして、そういうことを研究しているヘンな女性研究者がまともな職を得ることの難しさ、もにじみ出ていた。科学的な客観性とはどう担保できるのか、あらためて考え込んでしまう。このあたりの悩ましさは、声をはっきりもたない乳幼児の研究でも起きていることだろうし、科学で説明しきれていない数多の現象を、どう人は認知できるのかという根源的な問題をつきつけられているように思う。
学術の世界は、すべてを明らかにすることもできないし、そこで認められた事実だけが真実とはいえない。謙虚でありつつも、より真実に近づく努力を続けるしかないのだろうか。