盆栽はどうも苦手です


 ガーデニングの季節がやってきました。ただ、なかなか春がちゃんと始まらないので、植物がとまどっている感じ。週末に少し時間を使うだけで楽しめるコンテナ園芸は、私にとって最高の気分転換です。忙しい新学期こそ自宅から離れなくてもいい趣味なので、しばし没頭しておりました。
引っ越してから和な植物に目覚めたとはいえ、結局盆栽からは手を引きました。はやりの採花盆栽でさえ、だめでしたね。私には楽しめないみたいです。本日づけの中日新聞日曜版に「盆栽入門」特集があり、そこにこの上なく明快に盆栽の特徴が述べられていたので、あらためてその理由に気づきました。一部引用させてもらいます。
「実は、盆栽にはただの鉢植えとは決定的に異なる特徴がある。盆栽を作る人は、何十年後かに完成した時には、この樹木はこんな形になっていてほしいと考えて、毎日毎日、植物という生き物を守り育てる。その一方で、植物が勝手な形に成長しないように人工的な技術を駆使して、自由に大きく伸びるのを抑え続けているのである。」(盆栽って何?:大熊敏之,2010.4.18中日新聞日曜版)
盆栽は、針金を使って形を整えたり頻繁に剪定をしなくてはなりません。時として使用する器具類は、まるで拷問道具のようにも見えます。入手したときに植物についていた針金は、結局すべて外してしまいました。痛そうな気がしてはめておけない性分なのです。これでは盆栽にはならず、まさに「ただの鉢植え」です。
さらにいただけないところがあります。盆栽は、一鉢に一種の樹草木が普通で、決まった方向から樹形を眺めて楽しむのが基本。様々な樹草木を合わせて植え、鉢の組み合わせ方の妙を楽しむコンテナ園芸とは、かなり発想が違います。下町の鉢植え園芸を眺めると楽しいけれど、並べかたへの無配慮はどうにもしがたい。これは日本人のコンテナ園芸の基本が、一鉢ごとの盆栽だからでしょう。
さきほどの引用文で植物や樹木を「子ども」に変えてみてください。日本人が伝統的に「育てる」という時にイメージを見事に表現しているではありませんか。まさに植物も人も形を「しつける」のです。これでは、フィギアスケートにはよくても、サッカーには向かない教育になるのは避けられません。日本で多様な人を組み合わせる組織のつくりかたの下手さを、盆栽をみてはつい思い出してしまうのも苦手な理由。一度地に植えた盆栽の樹木は、自由に伸びて二度ともとに戻らないと、アメリカに渡った日本女性を例える話もありましたし(菊と刀)。
その上、ちょうど起きたばかりの事件が頭の中で盆栽とシンクロしてしまいました。引きこもりの息子による家族刺殺事件です。引きこもりは、盆栽型家庭教育と深くかかわっていると私は常々考えています。(ちなみに、著作の中ではさすがに盆栽を教育には結びつけて書けませんでしたが)。「こんな風に育ってほしい」と親は誰もが願うでしょうけれど、「勝手に成長しないように自由に大きく伸びるのを抑え続ける」と、そのつけは意外に大きいかもしれません。