石炭火力発電所の計画を中止する理由への違和感

 昨年秋から遅ればせながら千葉県民として「蘇我石炭火力発電所計画を考える会」に加わって、実際のアクションをしていました。ここまでの活動は幸い果実をもたらしてくれて、12月末に蘇我の計画が中止になり、1月末には袖ヶ浦も中止。相次いで計画していた企業が「事業性が見込めない」という理由で天然ガス火力発電所を検討するという横並びのプレスリリースを出しています。
 それにしても、この間の活動を通してかいま見える企業と自治体の当事者たちからは、環境社会学の古典的知見をフルコースで思い出すほど似ている体質を感じてしまいました。ああ、何も変わっていないんだな、と。(正直にいえば学術的知見を有効活用して実践に応用。先人に感謝。)

 「事業性が見込めない」とした理由には様々な理由が含まれているでしょう。環境対策費用がかさむ、というなかには市民運動対策や訴訟リスク、投資家の圧力などあらゆる要素が入っているわけです。彼らは詳しく内訳は言いませんけどね。でも、中止発表の翌日に九州電力の社長が「今回の判断は、石炭火力を否定するものではない」(産経ニュース2019.2.1)と語っているように、長崎県松浦市では計画が続いています。これでは水俣におけるチッソと変わりません。うるさい市民が多くない首都圏から遠く離れた人目につきにくい地域でなら、石炭火力はOKというわけです。原子力発電も全てそうで、需要は東京にあるのです。だからどうも素直に喜べません。

 ちなみに、千葉県は東京近くではありますが電力輸出県ですので、この計画はすでに東京で煌々と明るい不夜城の街を照らすための計画であって、湾岸のタワマンは大量に建ってもその横に石炭火力は計画せずに、やや離れた千葉に持ってこようという見下された計画だったけれども、そう甘くなかったということでしょう。
 
 でも、もっと遠くならいいのか。「事業性」とは石炭採掘の現地住民や運んで加工している人の健康が損なわれたり、近隣住民の大気が汚れたり、地球の二酸化炭素が増えて気候が変わったりすることを、見て見ぬ振りをすることで「見込み」が立てられるものなのですか。それが市場原理や資本主義の原則に則っていて正しいと主張されるなら、この制度はもう破綻しています。その金銭的なカウントが企業会計に入らないなら、入れるように仕組みをかえないと永遠にこのシステムがとまりません。税金の仕組みを変えたり、方法がいくら提案されていても、政治が変わらない限り実現されません。儲けを分配するお仲間にみんな入ろうとしている。

 その発想の根底にあるのは、「水俣が映す世界」(日本評論社)で原田正純氏が書いているように、一言でいえば「人を人と思わない人間差別」であり、遠くにいて困っている誰かを自分たちと同じ人間だと考える想像力の欠如だと、あらためて確信させられています。