障がい者施設での殺人事件

 陰鬱な事件が起きた。知的障がい者らの福祉を支える拠点施設津久井やまゆり園で19人が殺害された事件である。これが千葉にある施設であれば、学生の施設実習でつい最近巡回していたかもしれないなと思うと、本当にやりきれない。知的障がい者の施設に実習に行った学生とは、常々障がい者の個性を味わう楽しさについて共有しているのに。植松聖の価値観の歪み、見え方の特異性がこの事件に関係していることは間違いない。でも、ただのサイコパスの仕業と片付けるには、あまりにも社会的裾野が広いと感じる事件である。
 単刀直入にいえば、福祉施設に働きに入った植松聖は自らを家族と近しい人に肯定されないままに、人生を終えることになったのだと思う。26歳にして重大な犯罪に至ったわけで、精神的な病にかかったとたといわれるにせよ、責任は取らされるであろう。あまりにも計画的な犯罪であり、実行できる力量のある学歴も備えて、小学校教師の中流家庭の息子として育った人間として。じつは、過去このような無差別(大量)殺人を起こしてきた人々のプロファイルに、すんなりとつながってしまう。オウム真理教の人々、しかり。ばっさりいうと差別的中流家庭に育つ怖さを見せつけられた。そして、これは日本によくある家庭なのだ。
 Twitterなどの情報を総合してみたとき、彼は大学で数多の友人も得る生活を経験できている普通の人だ。残念なことに、小学校教員としての就職ができなかったようで、それが最初の挫折であろう。トラック運転手や介護職員という、社会ではとても必要とされている重要な職業なのに、周囲に価値を認められにくい職を転々とし、そこさえも退職せざるをえなかったという状況の後の殺人は、日本における職業差別という背景を抜きにしては語ることができない。社会階層の問題を象徴する犯罪だと私は思う。
 学生たちを見ていてときおり感じるのは、自分に対する肯定感のなさ。もちろんこれは、日本の学生の大半が持っていないものなので、特に多いわけではない。けれども、福祉職につくことでその自己意識を回復したいという人には私は福祉職はすすめない。背景には家族や親戚からなげかけられる差別意識が横たわっている場合がある。自分がダメだといつも言われている人が福祉施設に行くと、自分にかけられる言葉を障がい者に対して投げかけてしまうことがある。弱者はさらに弱者にむけて自分をさらけ出してしまう瞬間があるからだ。自分の身を守るために。その連鎖が日本社会全体を覆う悲しい現実である。
 自己を回復し抜け出せるように日々熱意とエネルギーを傾けていても、やはり親や親族(時に教師!)からのマイナスエネルギー供給のもとで、回復は難しいと思うことも多い。植松聖の親が立派な自宅から退居してしまい、彼の精神のバランスは回復不能で着地先を探してさまよっていたのではないか。衆議院議長への手紙通りに彼は実行した。誰かに止めてほしかっただろう。そのチャンスは入院先であったかもしれない。けれども、そこにはもっと重篤な人々が多数いて、彼に居場所がなかった可能性もある。彼が見ている事実も一部は真実だ。障がい者が家族にいることを認めようとしない人や、顔も見せない人は少なからずいるからだ。でも、毎日通って交流し続けている家族たちにとって殺人は幸せな日常の破壊である。植松聖は多くの家族の人生を踏みにじってしまった。蔑みを与える社会の象徴として、彼は存在してしまったと私は重く受け止める。人を蔑むことの延長には残酷な犯罪しかないことを、世界は次々と経験しているのではないか。

しつけと虐待は紙一重?:北海道の男子置き去り事件

 少しニュースから離れていた間に発見されて大騒ぎになっていた男の子。そうとうにタフな子どもだな、親も育てるの大変だろうな、と想像する。それで、警察は結局児童相談所に通告したけれども、まあ、法律にもとづくと形的にはそうしないと、発見した人の責任が問われるから。今回は親と子双方の発言などをつけあわせてもそう矛盾がないから、「しつけのつもりだった」という、よくあるいいわけがきっと認められるのだろう。
 これでまた、「しつけと虐待の境界がわからない」という学生がよくする質問への答えが難しくなった。深刻な虐待を繰り返す親たちと、今回のような「魔が射した」かのような行動をする親はいったいどこが違うのか。それとも、さして変わらないのか。
 この男子のお父さんは、優しくどこにでもいそうな現代パパにみえる。そして、だからこそ、7歳になった子どもは相当な「悪ガキ」ぶりを発揮していたのかもしれない。車への石投げは確かにやめさせるべき行為だろう。かといって置き去りしていいわけはないが。
 この父子は結局子ども同士のように「ケンカ」していたようにみえる。そして、こういう失敗は私もしたことあるなあ、と思い出した。育児マンガ定番の「親のブチキレ」ってヤツ。だめなんですよ、これをやっては。それに、結局効果がない。でも、親も人間だからついつい、子どもの挑発に乗ってしまうこともある。
 7歳にもなると、ちょっとやそっとの「脅迫」ではなめられる。また、口先だけの「脅迫」を繰り返した結果、「置いていくぞ」と言っても「どうせそんなことしないだろー」と高をくくられると、父の「沽券」にかかわるから、エスカレートしていく。だから、こんな危険な置き去りという手に出てしまったのだろうが、そういうやりとりを続けているのはよろしくない。実際、意外にも7から8歳くらいは虐待発生のピーク年齢でもある。やはり、しつけから虐待へと移行する可能性がある時期なのだから、見過ごすことはできない行為である。
 これを機に親の方に対処の技術を身につけてもらう必要がある。すでに子どもに親がなめられてる様子は「お父さんを許す」といういいかたからも、明らかに伝わってくる。子どもの成長という面で気になる点が散見される。もう少し幼い頃に力関係のバランスをとれていたら、こうはならずにすんだだろうに。
 優しい父のもと、のびのびといえば聞こえはいいが傍若無人に振る舞う子どもはたしかにいる。厳格な父のもと、びくびくしながら人目を気にして大人しく育つ子どもよりはいいようにみえるかもしれない。しかし、どちらの親子関係にも危うさが潜んでいる。「優しさ」というよりも「甘さ」の積み重ねが招いた結果を「激しい懲罰」でリセットしようとする子育ては、日本式育児の特徴だ。やはりそうならないような積み重ね育児を、普段から地道にするしかないという教訓をまた1つ得た。
 

学問、マスメディア、そして制度へ

 新学期がはじまってはや一ヶ月。毎日講義に追われつつも、やりがいを感じる瞬間がある。かれこれ20年になろうかという講義歴を振り返るとき、自分がずっと前に大学で語ってきたことがやがてマスメディアでとりあげられる問題となり、そして制度化していくという経験をするときがその1つである。あたりまえだが、学問とは常に世間に先行するものだから、そうなるのは当然ともいえる。
 そのなかには、あまりうれしくないが触れてきた事象もある。例えば私は東日本大震災以前から原子力発電の危険性については講義で明言しており、その理由に日本が地震国であるという事情もあげていた。悲しいがこれは福島第一原発の事故となって具現化してしまった。
 一方、セクシュアリティの多様化やジェンダーの問題については、語ってきたことのよい実りを感じられる。誰でもこの分野の研究者が触れていたこととは思うけれども、昨今の若い学生たちの柔軟な受け止め方には目を見張るほどの明るい変化の兆しを感じる。誰もが同姓婚に対して違和感を抱かず、友人にはカミングアウトしている人も数多い。この問題は渋谷区のパートナーシップ条例という形で、制度へと一部結実しているが、そのずっと前に学問があり、ついでドラマなどのマスメディアでの文化が花開いていき、ようやく制度としても日の目を見つつある。もちろん、IS(インターセックス)など性分化の曖昧さにかんする領域はまださほど知られていない。でも、これもすでにドラマ化の時代を経ているので、進展中だと思う。このドラマは、日本人にとどまらず留学生が見ているということも知った。そこにグローバルな価値の共有も広がっている。
 大学の教員としての特権は、こうやって10年、20年後に向けて世界の若い人々に語れる機会を持てることにあるのかもしれない。そのためには、常に自らが先端に触れていること。すなわち研究をしつづけていられることが大事だと信ずる。多くの大学で教員の研究に対して、必要性が軽んじられすぎていると思う。本当は高等学校までの全ての教員にも研究へのアクセスが広がって欲しいところだが、検定教科書と入試に縛られる日本の教育のシステム上難しいのが現状だ。つまり、これが大学教員でいることの、唯一といっていいほどのやりがいにつながっている。自分を鼓舞しつつ前を向いてハードな学期を乗り切りたい。
 いつかつながっていくかもしれない、よりよい社会構築の可能性に向けて。
 
 

映画雑感「COWSPIRACY: サステイナビリティ(持続可能性)の秘密」

 レオナルド・デカプリオがアカデミー賞の主演男優賞を受賞したそうだ。ちょうど、Netflixで彼がプロデュースした映画、COWSPIRACY(http://www.cowspiracy.com)を見たばかりだったので、スピーチの内容をチェックしてみて驚いた。ああ、彼は相当に本気で世界の環境を考えて行動に移しているのだな、と。特にお気に入り俳優でもないから、なんで彼がCOWSPIRACY?と不思議だった謎が解けた。
 このCOWSPIRACYは副題に「サスティナビリティ」とあるように、主に気候変動の問題と牛を中心にした畜産業の隠された関係にせまるドキュメンタリー映画だった。環境NPOにも容赦ないところがすごい。子どもたち2人に、ぜひ見たほうがいいと推奨されたからには見ようかな、というほど知識がないままに視聴した。いつのまに子どもたちはこんなに硬派になったのか。うん、しごくまっとうな内容だった。確かにこれを見ると、ヴィーガン(厳格に動物性食品を排除する生き方を貫く人々)になりたくなるな。
 私は最近食に関する本「平成の家族と食」(晶文社)を出版したばかりだ。そこでは少ししか「エコ」について触れることはできなかったが、かれこれ10年ほど環境とライフスタイルに関する授業の中で、サスティナブルな食についても一回分語ることにしていた。現在では「サスティナブル社会論」という講義がそれにあたる。この映画で指摘があるとおり、畜産業は気候変動問題にとても大きい影響があることも触れている。ただし、それはもう、30年くらい前から、気候変動を研究している人の多くは知っていたことなので、私自身にとっては新鮮なテーマではない。こうやって映画になるところまで受容の裾野が広がってきたことは、素直にうれしいのだけれども。
 でも、本当は食と環境の関連性に想像が及んだこの地点から、ようやく始まるのだと思う。私自身は、生き方として菜食主義宣言をすることはとりあえずしていない。食べ物は、地球のことというよりも自分(と家族)の経済や身体をよく考えることと切り離せないと思い選択しつづけてきた。サスティナブルな食にもいろんな水準がある。肉を食べるなら牛よりは豚、豚よりは鳥の方が、安価でサスティナブル。食卓にビーフをあまり出さなかったので、子どもには文句を言われていた気もするが、つまりはそういうこと。家で食に関する知識を説明して交渉するのもなにか違うと思っていたし。さりげなく、安価で安全でサスティナブルな食をできる範囲でめざしていたつもり。魚であれば食物連鎖の上位のものより下位のものを食べた方がいい。もう一つ重要なのはフードマイレージで、日本はこれがとても高いという特徴がある。その面からは、実は輸入肉の方がよい面もあるのだ(肉にしてから運んだ方がいい)。ほかは同じ種類の生鮮食品ならできるだけ近くのものを選ぶにこしたことはない。
 私が好んで近隣でとれる片口イワシを食べているのは、まとめてつくるオールサーディンが、おいしいからでもあり、安いからでもあり(ひとやま100円!)、そしてマグロやカジキなど食物連鎖上位の魚より「水銀」の含有量が少ないという点では安全でもある。現時点では放射性物質は含まれていないことも調べている。そして、サスティナブルだから。家から漁船が出ているのが見えると、「あ、今日はイワシあるわ」と魚屋に行くというすごい生活ができている。でも、カツオやサンマは好きだから旬の時期には食べる。マグロはグリーンピースのキャンペーンに衝撃を受けてますます食べなくなってきた(http://www.greenpeace.org/japan/ja/campaign/ocean/seafood/TunaRep/)。今年の授業で紹介したら学生たちも、とても印象に残ったらしい。みんな「考えたこともなかったし、全く知らなかった」と異口同音に驚く。それにしても食にはいろんな価値が絡んでくる。この映画の残念なところは、価値づけの多様性をわかりやすくするために切り捨てたこと。
 これまで日本では、研究業界でもマスメディア業界でも、環境とライフスタイルに関する情報は求められてこなかった。中央政府を発信源として展開された環境とライフスタイルキャンペーンの中で、牛を食べるのをやめよう、と言われるはずもない。自動車のアイドリングストップをしようというけれども、自動車を買うのをやめよう、といわないのと同じで、あらゆる産業界から文句のでないフィルターがかかっている情報しかなかなか世には出回らないのが常だ。
 しかし、2008年にイギリスに数ヶ月滞在していた時に、その違いを思い知った。本屋に行くと、Ethical Living(倫理的な暮らしかた)関連の本が目立つところに山積みになっていたし、新聞やフリーペーパーMETROでは毎日のように、サスティナブルな暮らし方に関する記事がのる。日本に戻ってきたら、よほど求めないとそういう情報に接することができない。
 だから、COWSPIRACYが手軽にNetflixで見られるようになったことは、素晴らしい。なぜか、Netflixは他にもオルタナティブな食に関する映像がとても充実しているような気がする。こういうのを見てしまうと、日本のテレビ番組にますます興ざめする。
 どういう生き方をしたいのか?食べ物一つをとっても実に悩ましい。でも、食が人生の様々な選択の中で、とても大きな領域を占めているということは間違いない。私ももう一度ちゃんと選び直していこう、情報を集めて還元していこう、と背中を押してもらえた。


KK先生へ:寒中お見舞い申し上げます

 今年はついに年賀状を出せずじまいでした。いただいた皆様に返信しておらず申し訳ありません。これまでごく少数の方々には住所でしかやりとりができないので、はがきを送り続けて参りました。でも、そのお一人である大切な小学校時代の恩師がときおりこのブログをのぞいて下さっているということで、ちょっと安心感を持ってしまいました。
 というわけで、この場を借りて私信をしたためることをお許し願います。

 先生、お元気でいらっしゃいますか。昨年度は人生でもっとも仕事に傾注した一年だった気がしています。そのせいか充電が切れたかのように、年末年始にはすっかり休憩してしまって年賀状を書くパワーがついに残っていなかったのかもしれません。
 昨年は下の子どもも大学を卒業して独り立ちの道を歩み始めたこともあって、自分の人生を振り返ることも多い一年でした。私がいま大学という場で研究とともに学生を教える仕事をしながら、いつも思い出すのは、小学生時代に幸せな学校生活を体験できたことです。ボーッとして忘れ物も多かった私のことを、怒るでもなくダメだしすることもなく、楽しんで見てくれていた先生のおかげで、いまがあります。どちらかというと私も学生の個性をとことん楽しむ教員でありたいと思うのは、その経験と積み重ねてきた知識があるからかもしれません。
 学校での勉強風景は何一つ記憶に残っていないのに、クラスでの出し物で「ももたろう」をやり、きびだんごにかわるお菓子をどれにするか悩んだこと、(時には先生のバイクで一緒に)教室で飼っていたカイコのために桑の葉を探し回ったこと、などの特別活動は、鮮明に覚えています。それに、先生が主宰されていた郷土史クラブで拓本を取りに近隣を歩いたりもしていましたね。
 今思えば、かけがえのない経験が単なる「勉強」という枠組みを超えた「学問」への一歩を私にくれていたのでしょう。そんな環境がなければ、私は学校という制度の中で、退屈して精神的には死んでいたのではないかとも思うのです。
 当時から書き始めた日記は、断続的に学生時代が終わるまで続いていて、その中で養っていった練習は、いまも仕事になっている「書く」という行為へともつながっていったに違いありません。先生との出会いが小学校のうちになかったらと思うと、ぞっとすることもあります。昨今は学生たちがあまり幸福そうでない小学生時代を過ごしているようで、気がかりが募ることばかり。教育に対して、窮屈なしばりが増え続けていていまの時代にはこんな体験はかなわないのかもしれませんね。

 子ども時代の全てが幸せだったわけではありませんけれども、先生のクラスで学んだ時期にはとても楽しい思い出が山積みです。いまでも人に教える立場のはしくれにいるのは、間違いなく先生のおかげでしょう。あたらめて感謝いたします。これからも自分らしい原点に立ち返って仕事をしていくためにも、大切に思い返していくつもりです。

 では、今年が皆様にとって幸い多き一年となりますように。