長すぎたパンデミックの終わりに

 きょう新型コロナが5類に移行した。遅きに失したとはいえ一つの区切りが訪れて気分は爽やかになりそうだ。長すぎる3年だった。私の中ではもう2年前には終わっているけど。中学生や高校生たちは、入学当初から全ての日々がマスクと黙食で塗り込められた青春の日々。どんな世代が生まれるのだろう。私なら学校からアウトしていたに違いない。

 振り返ると2020年当初はだれも気にしない時期に防御を固め、一人マスクしていた自分を思い出す。Covid-19の正体がまだわからず危険なウィルスだととても心配していた。どこにも出かけることのない時期、基礎的な情報をあらかた収集した。ウィルスの特性や生存条件を調べて有効な対策を直ちに取り入れた。それが研究者としての私の性である。確かに当初のウィルスは新型だから安心できなかった。親たちと会う時には細心の注意を払っていた。抗原検査キットを購入してチェックし、公共交通機関も使わず移動、換気、などなど。結局3年間の間に、「陽性反応」を経験することはないまま。

 しかし、当初からデータを追っているからこそ変異の状況や重症化、致死率などの変化の意味がわかった。そこで政府の対応はおかしい、という判断に至った。コロナは恐る必要はなく通常生活を送るほうがよいと思っていた。日本人にはワクチンはいらないどころか負の影響をもたらしたと思うし、マスクも害の方が大きい。この奇妙な3年の間に気づいたことを以下にまとめておこう。

・データは秘匿され都合よく加工され、かつ分析もされないまま政策が決まる

 専門家会合で議論がいくらなされようと、元になるデータが隠蔽されていては吟味も批判もできない。しかもたまにデータが出てきたかと思えば、データ分析入門レベルの誤謬を臆面なくやっている。例えば、ワクチン接種日付がわからない場合に「未接種」に入れた、など。社会調査の基礎を学んでいる人ですら知っているはずの「無回答」処理問題なのだが。この間、「データ分析入門」も教えていたから、日々驚きの連続。分析以前の問題。なんだこれ、科学はどこに消えた?

・健康リスクを総合的に計算したり、考えたりする人がいない

 理由はとにかく超過死亡が大きいのだから、総合的に失敗していることは確実だろう。Covid-19だけが人間に健康リスクを与えるわけではない。感染を抑制するために出歩かないことによる日照や運動不足、人と会わないことによる精神的な負荷、マスクをすることによる呼気の質の悪化。これらは「健康」の範囲にとどまるリスクである。これがことごとく無視された。いきなり「経済を回す」話には飛んでいたり。残念ながら知識があるはずの人たちもトータルの健康リスクは考えないらしく、とても残念だった。

・テレビや新聞は政府と独立な判断に基づいて発信することはない

 非常時になるとすべての媒体が政府の広報に成り下がるということがわかった。つまり戦時中の仮想体験ができた。さて、そのとき人はどうするか?教育歴と判断のしかたの間には関係がないと知った。政府とマスメディアの信頼度が日頃は高くない人びとも、新型コロナに関しては信頼しているという面も驚きだった。人文社会系の知識がある人々と大学関係者も同じ。左翼政党も一律な対応で、はずれた考えを持つ人は周縁化され、「陰謀論者」とか「非科学的」というラベリングがなされていく。ああ、これが「非国民」体験なのだと知る。幸い身近に似たような判断に違う経路から至る人が何人もいたので孤独ではなく助かった。

・日本のみならず世界同時に「外部」が消えるという恐怖体験をした

 これまでの私が知る世界は、日本で原発が壊れてニュースが隠蔽されても海外ニュースでは出てきてしまうから、隠蔽や秘匿はしにくいというものだったのだが、全世界で秘匿しようとする動きがあり、ときおり漏れ出てくる情報しかなくなった。この喪失体験が一番怖かった。その時何を根拠に理解をしようとしたのか。誠実と信じられる個人から発せられる断片的な情報を組み合わせ、身近に観察をしてSNSを頼りに手探りをしていくほかはない。

・医者は親切心はなく統計的な知識がなく頼りにもならない

 一時体調が改善しなかった時に医者にいって門前払いをくった。まるでハエのように追い払われた記憶は鮮明に残る。ワクチンを打ってくれと言ってきた医者の友人に、打たないほうがよいのではないかと返したら、返信がなくなり以後交流がない。逆に同じような考えの知人と友人とつながりが増えて人間関係の色合いは少し変わった。今後、そう簡単に医者にはいかなくなるだろう。自然療法や健康法を身につけ、幸いとても元気な日常を送っている。

 社会の見立てはかなり変わったと思う。社会学者としてもじつに重厚な3年間だった。