現代日本社会の生と死をめぐる一考察

ようやく秋学期が終わりに近づいてきた。大学で試験に出している課題に学生さんたちが真剣に考察を加えてくれている感じが伝わってきて、今年の採点業務は結構楽しい。私も急になにかしら書いてみたくなった。
現代日本社会に発生している大問題として、出生率の低さと自殺率の高さがあることは、誰もが知る事実だ。この2つは、違う社会の側面のようにみえて、合わせ鏡のように私たちの姿を映し出している。
現代において子どもを産み育てるという行為は、他者に奉仕する人生を送るということを意味する。多くの人はお金や時間を惜しげもなく注いで子を育てる。しかし、その子どもは自分ではなくむしろ他者を支える役割を期待される。返礼を期待しても、返ってくるものがあるかどうかは育ててみないとわからない。子育てはいま、見返りを期待しない贈与として存在しているのだ。
自殺は、他者から心ならずもなにかを受け取ることができなかった人、あるいは受け取ることを拒否した人が最後に行為に至ってしまう場合が多い。借金や病気を苦にし、人に与えられず受け取るばかりでいる状況に、他人は実に冷たい。自分が何かを返せないことに苦しみを持ってしまうと、人は自らの生命を絶つ。だが、受け取りつづけることや人から奪うことに罪悪感のない人は、もともと死など選ばない。
この2つの現象は、私たちがひたすらに自己を守り抜こうとし、他人から何か奪われないように必死である状況を映し出している。若くして誰からも助けを得られず餓死した人がいた。周囲の人々はずっと助け舟をだしていても、ついには身を守るためにも援助を拒否していった。それほどに人々からは余裕がなくなり、職や地位や財産を保つためにいまや命がけなのだ。身近な周囲の人々を責めることはできない。
この厳しい万人が戦っている原初状態のような社会では、「よき人」であることは時に文字通り死をもたらす。イス取りゲームのように、最後に座れなかった人が簡単にホームレスになることさえある。この社会でいま必要なのは、「奪い続けている人」や「与えようとしない人々」から、正義の名のもとにきっちりと幾多のものを奪い返して分配することだ。いまさら革命ともいかない。民主党政権は、そのことを託されて成立したのではなかったのか。官僚の手のひらで踊り、中途半端なことをするのはやめてほしい。「よき人」でいつづけようとしても、皆すでに疲れてきている。伊達直人になってささやかな援助をすることで満足していてはいけないと思う。(ただし、「持っている人」はそれすらもしないだろう。だからこそ、彼らは勝ちぬいたのである。)あざとく奪い続ける人々はたくさんいる。メディアにかかわる人々や多くの知識人は自らが「奪い続けている人」であることも多く、あてにならない。自らのごまかしのためにタイガーマスクを持ち上げるメディアにはうんざりする。ささやかな善意を贈る人は、もともとそれほどに「持っている人」ではないことが多い。ボランティアやNPOにかかわる人は、自らも裕福とは限らない。意外かもしれないが、むしろ貧しく苦労をしている人どうしが助け合ってきたのが日本社会なのである。私もあらためて社会調査を通してその事実に気づいていった。みな苦しさをしっているからこそ、なけなしのお金や時間や知恵をしぼって助け合っている。でも、そこでなんとかやっていける時代はもう終わったのではないか。
現代日本社会の決定的な問題は、お金や時間や知識などを持っている人の多くが、それを他者のために十分使おうとせず、自分の子どもや孫、あるいは閉じられた集団など限定された身内にだけ与え続けていることだ。その延長に生じるのは社会全体の弱体化でしかない。それでは、決して未来が開けないことを若い人々はシビアに観察している。そこに少しの安堵と希望を感じる。