学会という社交の場を終えて

この週末は名古屋で学会があり、あっという間に過ぎてしまった。学術業界にいる人にとっては、学会とはお仕事に欠かせない会合である。だから社会学者を名乗る私にとって日本社会学会とは重要な場(であるハズ)だ。久しぶりに共著者に名を連ねて参加した。むかし指導教官に、日本社会学会会員であれば所属がなくても社会学者!、と聞いてなるほどと単純に納得して入会し、誰も知り合いのいなかった沖縄の学会に参加してから15年。今日までに、ほんとうにたくさんの知り合いが増えた。そして今回も新たな出会いがあった。
大学に社会学の先生がほとんどいない環境で院生をしていた私にとって、人との出会いはすべて「学会」という場を通じたものである。研究発表を数多くしたわけではないけれど、発表内容に関心を持ってくれた人と知り合いになったり、学会が公募する研究活動へ参加したり、純粋に学問を通じて接点が広がった。そうやって学会に育ててもらったのだと思う。
ところが、多数の院生仲間のいる大学の人は違うようだ。それぞれの出身の仲間を中心に同窓会を楽しんでいる。せっかくの学会なのになんだかもったいない気もする。所属の大学やゼミの先輩後輩などを超えた学問上の刺激を、どこまで学会という場が提供できているだろう。かくいう私も年々知り合いが増えて話す人が固定化していく気がする。少し反省である。
たまに行く海外の学会が純粋に楽しいと感じられるのは、知らない人と交流する機会が日本の学会より多いからだろうか。セッションを組織するリーダーが先導してどこかに出かけたり、1人で参加しても困らないようなシステムになっていることも多い。若い研究者の発表が中心というわけでもなく、年齢も所属も関係なく研究内容だけで丁々発止する緊張感も高い。学会がそこまで重要な場になっていない日本では、そもそも忙しい中堅の研究者の多くは参加すらしていない。
とはいっても、ふだん自宅と大学を往復し、あまり他の研究者と会わない生活をしている私にとって、この2日間に会えた人と話した時間は本当に貴重なものだった。ああ「社会学」を日々やってる?人がこれほどたくさん日本にいるんだな、としばらく自分に仲間がいることを思い出しながら、日々過ごすことができそうだ。