衆院選への違和感とつまびらかになった事実

 週末はまた台風が来るそうだ。先週は大雨強風の中投票に出かけていたことを思い出した。なぜかずっと昔のことのような気がする。あれだけの天気のなか投票率が上がらないのはしかたがない。都会の人とは感覚が違う田舎住みからすると、行くだけでも結構な気合がいるものなので。自分の地区は自民党圧勝が予想されているところである。ここがニッポンど真ん中の感覚なので、結果に違和感はないな。

 では、何が違和感だったのか。
 例えば立憲民主党がいうところからの、草の根からの民意、なる表現。
 「上から」にたいして「下から」の、という表現があるけども、「下から」の自民党支持が膨大にありそうな選挙区にいると、なんだかね。民意は自民党になっているのだとしたら、どうする?それが民主主義であるように形式的には見える。アメリカでいくらトランプ氏の当選に、高学歴、中流層、マスメディア、女性、が違和感を表明しても、「国民」が選んだといえば神聖となる。私は日本の市民の民意とやらにそもそも違和感がある。結局、民意のぶつかり合いなんですよ。

 自民党は税金を取れるところからお金をくすねて票につながるように効率よく配分する能力にたけている党である。だからいま利益を得るために人は必死に自民党/公明党に入れる。それが組織票ってもんでしょう。その選択が近い将来の全体社会としてよいかどうかは、考えられないのだ。国際比較調査をすると、自国内の問題の解決策を見出す上で基準とするのはという質問に、「現代世代」と答えた割合が日本で特に多い。したがって、選挙結果は社会調査の結果からも整合性がある。

 つまり将来のことを考えて投票する人がもともと少ないなら、将来を語る政党は残念ながら必ず失速を運命づけられる。イデオロギー的立場は違うにせよ「日本未来の党」「希望の党」。かつて「日本未来の党」は元環境社会学会会長の嘉田由紀子氏が顔だった(今回も立候補して惜しくも落選)。いずれも女性が代表となり将来を見据えようと鼓舞した政党である。そこに共感しない人が多い。女性の政治家は産む性として子ども世代を意識するからだろうか。将来を語ってしまい結果的に痛い目に合っている。

 そして衆議院議員の女性割合は1割にとどまり世界193カ国中160カ国レベルに低いままだ。私は小池百合子氏のイデオロギーには同調できないが、「鉄の天井」があったのは事実だと推察できる。はっきりしたことを主張したら、女性は煙たがられる。日本社会は女性が国政の中心に打って出ようとすることをまだ許容しないし、誰もそれを支えないという事実がつまびらかになった。オヤジたちはいつだって自分達が仕切ってきた過去を美化するし、未来を見据えたりなどしない。オンナは過去に責任を負うような地位についたことはそもそもないのだから、もうお気楽でいこうぜ。責任の所在はオトコらにある。

 将来を見据えて政治を語ることが票につながらないとしたら、それは人々の見立てを反映している。いまとりあえず物質的に満足しているとか、毎日を生きることで精一杯だったり、半歩先のことしか考えられない余裕のなさ。グローバル化を語る人は将来自分と子どもがよいポジションにつくための手段を意識しているにすぎず、世界と日本を本気で憂いているわけでもない。かつて子育てに追われていたことを思い出すと私もその気分はわかる。けれど、それではジリ貧になる。

 どん詰まりまで、行くところまでいってぶちあたる。これがニッポン市民社会だ、と私の師匠が25年前に書いていた。いま、その悲哀をかみしめている。




「なんで保育士の給料は低いのか」に答えてみる

 ホリエモンが「なんで保育士の給料は低いのか」に対して「誰でもできる仕事だからです」とツイートして話題を作った件。元保育養成系の教員としては、放置するには聞きづてならないやりとりを目にしたので、書いてみようと思います。

 彼の「誰でもできる仕事だからです」という答えは、事実として誤認です。大学や短大、専門学校で膨大なカリキュラムを修めて、実習には2週間ずつ3回以上行き、資格とるのは相当に大変な部類のお仕事です。コンビニ店員も大変なお仕事ですけども、少なくとも資格を取るに至るまでのプロセス的として違いすぎます。それから、家で1人や2人の自分の子どもを育てるのと、保育士のように多数の子どもに目配りしながら、他人の子を安全に継続的に質を確保しながら預かり、マネジメントをする労働の中身は全く違います。「子ども育てたことある」とか言う人、そこは一緒にしないで。保育資格を取らずに卒業して会社に就職して勤める方がラクして儲かるかもしれない。給料優先と考えだすと資格取るのもバカらしくなって途中でやめる学生も確かにいます。これだけ資格を持っている人がいても保育士不足が続いている事情はそんなところでしょう。

 ではなぜそんなに大変な思いをして資格を取ってまで保育士になろうとする人がいるのか?「人間とかかわるやりがいのある仕事だから」だと思います。ありがたくも参入する人がいてくれるのです。「ほどほどにお金もらってやりがいのある仕事をできる」ということになります。そういう職はほかにもいろいろあります。芸能系のお仕事、メディア/アニメ界隈、アーティスト、ミュージシャン、ダンサー、作家、そして私のような研究者とかもそんな部類に入ります。Jリーガーだってそんなもんかも。スポーツやってる人にもお金もらえない人は大勢いますよね。
 じつは保育士志望の学生は、そういう一芸に秀でている人もたくさんいます。食えなくてもいい仕事の保険として保育士資格取得をめざしたり。そんな芸のある素敵な先生に教えてもらえる子どもは幸せだと、私は思います。「合理的な愚か者」(アルマティア・セン)と言ってもいい。そこにつけ込んで安く使い倒す経営者もたくさんいます。「逃げ恥」でいうところの、やりがいの搾取、ですね。理解のない保護者もいる。世間の理解は足りない、大変ではあるけども大事にされる職の1つではないでしょうか。まあ、ホリエモンさんは、そんな仕事に手を出すこともないでしょうが。

 より実際的な話をするなら、政府の決めた単価にしばられるので給料はなかなか上がりません。税金を使うので合意のとれた範囲でしか賃金が支払われない。でも、イギリスのカリスマベビーシッターとなると、驚くほど高い賃金で雇われることもあるといいます。保育も市場化した世界ではたまにそういう現象も起きていますけれど、構造上CEOたちの年収を超えるような事には、たぶんならないでしょう。福祉のお仕事は市場で交換価値を生む儲かる仕事になるのは本質的に難しいから。ソフトウェアや広告に課金する仕組みを売ったり、工場で量産したモノを売っったり、投資で一瞬で大金を手にしたり、環境を汚染しつつあがりをかすめ取ったりする職業とは違います。そういうところばかりで大金が動く世界の仕組みが、私はおかしいと思います。

 人手のかかる仕事はラクして儲けることはできません。農林水産業とか教育とかもいまのところそうなっています。誰かが儲かる時には、環境や子どもなど何かが犠牲になっているはずです。もっといえばほとんどの家事はいまでも無償で行われています。こういう仕事を全部なくそうとするとしたら、それは「人間」であることをやめる時かもしれない。IT化のその果てのAIを考えているヒトは子育てもロボットで、と言うでしょうけれど、それは私たちが考える「人間」の終わりとともにやってくるはずです。

 ところで、ホリエモンはなぜわざわざこの保育士の賃金問題にツイートしたのか。その謎解きの方が私の興味を惹きました。彼は金や地位や権力になびかない人々を嫌ってきました。なのに実は気になりつつある?幸せそうにみえるから。ほっとけばいいのについ書いてしまう心理とは。自分は仕事優先だった親に温かく育てられた経験がないことを誇りにしているホリエモン。子育てなんて、保育なんてどうだって、オレみたいに立派になれるんだよ、と言いたいのでしょうか。親たちに「立派に育ててやった」と言われるのが嫌なんでしょう。でも、幼い頃あなたの周りに親や祖父母やいろんな人がいて「金にならない子育て」をしてくれたから、いま偶然にも金を儲けるあなたがいる。その金を、親じゃなくてもいいから誰かに回してくださいよ。そうやって人類が続いてきたんですから。

 親への私怨を公共のツイートで流して保育を志す若者を貶めるのは、悪趣味です。












おクジラさま:捕鯨をめぐるニッポンのいまが見える

 環境社会学系の講義で捕鯨はとてもよいトピックだ。日本人は捕鯨となると恐ろしく一枚岩になるので、ニッポン論として取り上げる価値が高い。朝日から産経までマスメディア論調に差がなく日本の食文化論が展開されて、伝統的和食を大事にする環境NPOもクジラ食を擁護する。右も左もなく日本人が一丸となる話題なのだ。アカデミー賞受賞のThe Cove の後、太地(たいじ)の捕鯨をめぐるドキュメンタリー映画。

 和歌山県の太地は何回か訪れたことがある。リアス式海岸のために美しく深い湾(cove)にめぐまれた紀伊半島の南端にある小さな街。その海の美しさを映像で思い出し、魅入ってしまう。400年も前からクジラ/イルカの追い込み漁をして捕獲し、食材にしてきた歴史を持っていて、クジラを街のシンボルにしておりあちこちに絵や彫刻が飾られる。いってみれば愛でる方でも食べる方でもクジラ/イルカに依存した街である。ちなみに、クジラとイルカの区別は大きさのみ。実際に追い込み漁で捕獲しているのは小さいクジラ、つまりイルカなのだ。

 そこにあざとさも隠れている。イルカ漁というと「かわいそう〜」と日本人も思う人が多いだろう。子どもたちはイルカを可愛がるのに慣れており、イルカを食べるものとはあまり考えないからだ。クジラといえば給食でも出てくるし食べてもいいと思う人も多いかも。街はその2つのイメージを使い分けてきたが、Youtubeで世界に発信され、イルカを殺している街と認識されてしまい来訪者が引きもきらず、小さい町役場には大量に「イルカを殺さないで」とつたない日本語で書かれた手紙が届く。

 太地は世界の水族館にイルカを供給してきた。反捕鯨の運動家の働きかけもあり、2015年に日本動物園水族館協会は世界協会に加盟し続けるのか、太地の追い込み漁(倫理的でない方法)で捕獲されるイルカを認めるのか選択を迫られた。協会は倫理規定を順守するため加盟を続ける道を選び、太地の水族館は日本の協会を脱退した。いまイルカショーは動物愛護の精神には反する流れのなかにある。それでも人気はひきもきらず世界水族館協会に所属していないロシア、中国、トルコといった国の水族館などに高値で売れていく。といっても毎日売れ続けるほどでもないだろう。残った個体を肉として市場におろしても、食肉としての人気は低くて赤字になる値段となる。これでは将来の産業として持続していけるのか若者は心配になるだろう。

 健康の面からいうとクジラ/イルカ肉の水銀含有量は高い。街の人々の平均値は日本人平均の4倍だという。特に妊婦には要注意な食材だ。クジラをいつも食べている人の水銀値はもっと高くなりそうで心配になる。給食にクジラを出す前に水銀含有量を調べてくれと訴えた議員は、インタビューで「なぜ食べないのか?」と聞かれて「不味いから」と答えていたが、率直な話だろう。いまや安くて美味しい魚や肉がどこでも流通している時代。自給するためにイルカを捕獲していた時代とは食の環境が変わってしまった。地産地消を大事にする環境保護活動の掛け声に限界があるように、イルカを食べようと言っても、地元の人の嗜好が変わってしまったのだ。

 現代ではペットとして可愛がる動物を、同時に食べるのを喜ぶ人はそういない。そろそろ街はイルカを愛でる方に集中して稼ぐ道を考えたらどうだろう。太地は世界有数のイルカ/クジラウォッチングが可能な稀有な場所である。美しい海とイルカと会える観光地となる未来の方が、明るいように感じたのは私だけだろうか。

ミサイルの飛来、台風、そして総選挙

 また自民党の支持率が回復しているらしい。先行きどうなるか雲行きも怪しいから、いまのうちに解散して総選挙をしておけば安泰、という発想なのだろう。戦争危機を煽れば右翼は焼け太りもできるしね。うまいな。さすがに「ナチスから手口を学んだらいい」、という人を副総理に抱く党のやることはちがう。産経は金子勝氏のツイートを取り上げて非国民扱い(どれだけ〜)。そしてみんな翻弄されていく。着々と追い詰められていく小さな国のおバカな振る舞いの後ろにある、世襲で羽振りがよく腹黒い人々の計画に。

 頭上を飛び越えるミサイル。まあ予定通りだし自分がいる県は大丈夫だったわ、と。さして緊張もせずにJアラートを確認して再び眠りにつく。少し前には確か衛星の打ち上げだと言っていた時代があったな。いまでは懐かしい。気付いたときにはJアラートという呼び名の空襲警報が鳴り響く朝を迎える生活になっていた。北朝鮮のミサイル実験と台風とどちらがトップニュースか?どちらかといえば、台風だ。北朝鮮のミサイルが世界の新聞のトップニュースを飾っているかたわらで、日本では台風の脅威の方がさしせまっている。事実、亡くなる方がいたのは台風の襲来のほうだ。

 といっても、台風のために仕事が休みになったりする人はめったにいない。岸和田だんじり祭は予定どおり敢行され、ケガ人が出た。台風なんて怖がっているようじゃ、祭などできないのだ。運動会で人間ピラミッドも頑張るように伝統的祭なんだからビビっちゃいけないらしい。すべてが通常営業の中、不運な人は出張して飛行機が動かず、新幹線が予定外に止まったりする。といっても、たまに架線が風でひっかかるトラブルがなければ、新幹線は過密ダイヤのまま運行され、3連休で予約された宿は満室だったり。すごいな、日本。こうやって通常営業のまま世界大戦に入っていったんだろう。いま歴史は言葉がひびくだけでなく身体に染み込んでくる。

 北朝鮮にもいる市井の人々はきょうも米国を憎む教育を受けて軍事訓練をする。合理的に考えてありえない米国への挑戦状。おお、パールハーバーに一億総動員そのもの。いたいたしいパレードを見るたびに、運動会のマスゲームがフラッシュバックする。すべては日本の過去と重ね合わせてみると「戦争など起きない」という確証が得られない。かの米国がいだくのはトランプである。常人には理解できない思考回路を持つ人が北朝鮮、米国、そして日本のトップにおさまっている時代に、正気で生きることは可能か。

 トップの決断に対して一般市民ができることが少ないのは北朝鮮だろうと、米国だろうと、そして日本だろうと同じだ。民主主義という回路があろうと、全体主義という閉塞があろうと、結実する社会のかたちにはそう差がないとしたら、個人である私になにができるのか。

 そう、書くことしかできないのである。システムに服従せずに、ただそこに立ち続けることしか。料亭料理をさらりと出し続けるいきつけの割烹のおっちゃん。いつものように美味しかった、セグロイワシの唐揚げ。客に偉ぶりもしないけど諂(へつらう)こともない。この人はきっと最後まで一緒に立ちつづけてくれるはずだ。


ロンドン南部をうろついてブリクストンにハマった

 今夜でイギリス滞在も最終日となり、ついに日本食恋しさにYo Sushiに入ってしまった。イギリス最大規模の日本食チェーンです。駅ナカにあるので怖いもの見たさもあり、ついに。店内に日本人とおぼしき人は私しかいいないのですが、「いっただきま〜す!」とか「かんぱ〜い』とか日本語アナウンスが突然入ると、ビクッとする。なんだこりゃ。味はやっぱし×××.....。

アフリカ柄を着た日Black Culture Museumで
干されたうなぎみたいな魚もいる
美しく整備されたカントリーの住宅地から、特に選んだわけでなく決めていた宿泊先がBrixton。そこで私はこの街に恋してしまったようです。私が興奮して喜んでいたら、ホストにあなたはこの街にfall in loveと言われたので、表現頂戴しました。ミックスカルチャーのごたごたしたところ。育ちが名古屋(東西の混じるところ。ビレッジヴァンガード発祥、結果B級グルメ発達)で、学生時代は下北沢にいたしどうしても純度の高い綺麗なところには居心地の悪さを感じてしまうらしい。だいたいマーケットがあるところに出没してしまう。Brixtonには何でもありますよ。しかも滞在先は子どものいるレズビアンカップルでした。イギリスの最も保守的な家族から、最もリベラルな家族に移動したことになるのかな。どちらも個性あるホスピタリティの方々。

各国の旗がひらめくMarket Village
Brixtonを離れたあとはWaterlooに移動。どちらも、Lambeth地区にあります。ロンドン南部というと、日本人の治安情報ブログなどではあまりよろしくないとかかれていたりもするのですけれども。ここしばらくは調査地も含めてずっとテムズ川の南あたりをうろついています。

 いろんな問題はあるのかもしれないけどこの街もそうだし、この国には前を向いて進むバイタリティがある。テロとか火災とか突然起きるリスクを、「心配しててもしょうがない」と力強く語る人が多い。ルーツの多様性がある社会を、難しいけどもなんとかやっていこう、という一人一人の努力が続いている。不正には抗議をし、表現する。
 駅の本屋には心理学より社会学がたくさんならぶ。もちろん、階級や民族やジェンダーの越境が熱心に語られている。ちょっぴりそんなところがうらやましい。
 でも、ああ、そろそろまともな日本食にありつきたい。スパイシーシーフードウドンとか意味不明なメニューじゃなくて、たぬきうどん、とか!ではさよなら、ロンドン。

ダヴェントリー:小さな街のブリティッシュマインド

 ロンドン:ユーストン駅から電車で1時間と15分ほどでlong buckbyという小さな無人駅に着く。休日は停まらない電車も多いようだ。まるで北海道を旅しているような錯覚に陥るほど広々かつ青々とした自然の空間を車で10分ほど走り抜けると、美しく計画的に整えられた街並みが広がっていたら、そこがDaventryであった。ここは古い歴史ある街で、いまは農村ともいえず都市郊外ともいえないイギリスの小都市である。
中心市街に向かう道には店はない
滞在を決めた理由は都心からの距離感が私の住む地域と同じくらいで比較したかったから。今回の研究では家族生活を都市の位置や街づくりとともに考えているので、頑張って足を伸ばして滞在してみた。
 ここで海外からの観光客はまずみかけません。日本のガイドブックには出てないし、私が歩いているだけで目立ちます。本当に白人ばかり。ホストのおじさまははっきりいいます。「ロンドンはイギリスじゃない、ここを見ずしてイギリスは語れない、こういうところにたくさんイギリス人が住んでるんだ。」半分同意。
 
火曜と金曜は市がたつ
あいにくのお天気のなか街の中心地めざして歩く。今日は市の立つ日。雨だけどやってるかな、と心配だったけれども大丈夫でした。お客さんは多いとは言えないけれども。あまりの安さについ果物と野菜を買ってしまいました。オレンジひとやまで軽く一ダースくらいで1ポンド。イギリスは果物天国。「甘いよー」といってたけどほんとだった。
 人口数万人の交通不便な街がシャッター街にならずに生き生きとしている状態を目の当たりにして脱帽。車社会になったからしかたがない、って言い訳できないんだな。単純ですが、出店は規制が強く中心市街に集中しているからだと思う。といっても、大きいスーパーが近郊に作られて昔より中心市街は衰退しているそうだ。中心市街地以外の道にはいっさい自動販売機もなければコンビニもない。店がまとまっているから、人が必ず集まる仕組みになっている。ちょっと近くのコンビニ行くわ、ってわけにもいかない不便さを我慢しても、美しくまとまった街づくりを優先させている。
 付近には新しい住区の建設も進んでおりこの街は拡大中なのだ。すぐ近くにすばらしい自然公園がある。古い運河や散歩を楽しめる場所に囲まれているまさに田園都市。そのうえ全国有数の企業がいくつも近くにあり失業率は最低ランクだ。おじさまが、ロンドンには絶対住みたくないと力説するのも当然に聞こえる。こういう生活を愛するマインドの人がいるかぎり、この街は守られつづけるんだろう。

で、私の注目しているのは子育て環境なのでした。ここでも子どもたちはおおぜい育っている。田舎といえば高齢化、という日本とは全く異質で子どもをよくみかける。
美容院に保育案内
子育て環境も整っているようにみえますね。保育室と提携している美容院。広々と芝生の青い幼稚園(夏季休業中)。こじんまりとした保育園、少し足を延ばすと天気にかかわらず遊べるプレイパーク。バウチャーの使えるプレスクール....。なんでもありますよ。
 日本で同じような都心からの距離のあたりに、忽然とこういう生活環境があるだろうか。どうにも想像ができない。
日本だと、農村地帯では親族の助け合いが基本だということになってしまい、子育てを支援する施設が不足している場合が多い。だから外から親族のいない子連れが移住するハードルは結構高い。
ここにないのはなんだろう?
まだ思いつけないまま、ああ、明日はまたロンドンに舞い戻ります。
幼稚園兼子どもの遊び施設


 

 

Zone8のロンドン郊外を歩いて

 スペインで開かれた国際生活時間学会(IATUR)に参加したあと、ロンドンに渡り調査の旅をしています。毎日太陽がさんさんと輝く暑い街から飛行機でたった数時間。雨模様の寒い街に降り立つ。パイロットが何回も「頭痛のする天気!」って言ってた意味が確かにわかった。イギリス人があれほど夏に出かけたがるのは天気のせいでもあるらしい。みんな言う。金がなくても無理して行くしかないんだって。私的には涼しくてよく寝れるから問題ないんだけどな。
 Zone4界隈のAirbnbに泊まり歩いてZone8などの見知らぬ街に毎日インタビューにでかける、という濃い仕事の旅で、この街の見え方は徐々に変わりつつあります。東京でいうと三鷹の友人宅に泊まりながら飯能の知人を来訪するみたいな感じですかね。もう、行き方慎重に調べないとたどり着けないし大変ですけど、結構楽しんでます。これまでロンドンにはたぶん6回くらいは来てると思うけど大方の日本人と同じで、せいぜいがZone2(http://www.zestrip.net/blog/wp-content/uploads/2016/05/tube_map.gif)どまりでした。去年から予備調査でZone4のRichmondに来ているけれども、そこからさらに遠出して見えてくるのはロンドンの広大さと奥深さ。ロンドン郊外にはFamilyがひしめいてる。子連れで暮らしやすそうなエリアで、巨大なショッピングモールに格安な品揃え。観光客で埋まっているロンドンで子どもが育っているわけではないことを実感中。不思議にも日本人はおろか東アジアの人々には全く出会わないけれどほかの世界からの移民とおぼしき人々とは出会います。みなさんの親切に助けられて過ごしています。LondonにはUndergroundのTubeのほかに、Overground とかTrainとかがあります。ほとんどそれしか乗ってない。今日も当然のようにDelay(遅延)ですが、まあ、そんなもんでしょ。「45分待ちだって!」とかみんな叫びつつしかたがない、って待ってる。
 当たり前かもしれないけど、子連れ家族ってやってること似てる。別に金持ちでもなければ貧乏すぎもしない人がたくさんいて毎日普通に暮らしてる。そういうことって、ニュースにもならないし意外性もないしだからメディア受けもしないんだけど、情報があまりに足りないと思うから比較研究したいと思いました。やはりみんな人間らしく生活を楽しんでるな、と。ある意味安心する。でも日本人が仕事に追われてることはこちらでも有名なようで、「BBCのテレビでやってたのを見たよ」、と近隣コインランドリー店のインド系イギリス人店員さんに言われて、しばし話し込み考えさせられました。そんなに有名なのか、日本人ワーカホリック。まあ、それは真実だよ、と伝えましたけども。さきほどもAirbnb宅の訪問客とそんな話が出て、固定化した日本人イメージに対し自分の話をし柔軟化したかもしれないな。ここはジャマイカ系家族。なぜかここの息子に「おやすみなさい」と日本語で言われた。
 そこまで夜遅くまで働いていないもん、皆さん。そのうえで週末は遊んでますよ、しっかりと。スーパーだって、店だって、そんなに遅くまで開いていない。日曜だと朝遅くてさらに夕方早めに閉まる。要するに、時間を短くしてギュッと人集めしてる。なんであんなに長い事開いてんのかな、日本の店は。街も賑わってるところが多くてシャッター通りってこともない。(たまに閑散とした駅に降り立つとヒヤッとはしてますが。)
 できる限りウロウロして、たくさんの人としゃべってロンドンの家族生活に少しでも近づけたらいいなと思っています。明日からは少し足を伸ばして田舎に行って、また戻ってきます。そうそう、とっても大事な告知をしそびれていました。晶文社スクラップブックで連載「母と息子のニッポン論」(http://s-scrap.com/category/shinadatomomi)連載開始しました。もうすぐ第2回も掲載予定です。4回目はイギリス滞在編を予定しています。合間を縫って執筆頑張らねば、、、。

テロより怖いジェノサイドと共謀罪

 マンチェスターでまた悲惨な自爆テロがあった。もう驚かなくなっている自分が悲しいけれど、ぞわっと広がる恐怖は、この本で癒す。恐怖には恐怖を持ってくる。世界はそれでもよくなっているんだと信じられるから。加藤直樹「九月、東京の路上で:1923年関東大震災ジェノサイドの残響」丹念で生々しい記述が続く。
 関東大震災で壊滅した東京で、日本人はやりきれなさに感情の行き場を失い、朝鮮人、中国人であるというただそれだけの理由でつぎつぎと虐殺をした。具体的な地名と証言が淡々と積み上げられていく。日頃から東京東部あたりをうろうろしている私にとっては、「すぐその辺」で何十人もまとめて殺されているリアルを感じる。震災だけでもうたくさんなのに、人はなぜジェノサイドに走ってしまったのだろう。一緒に働いていた同僚たちなのに助け合えず、同じ人間と見ることができなかった。そのあとの空襲でも亡くなった人の数は半端ない。ピッカピカのビルが立ち並ぶ東京は、いまもさまよえる魂だらけであろう。気が滅入る。
 ジェノサイドを行った自警団は猟銃があれば取り出し、先祖伝来の日本刀を持ち、竹槍やとび口、薪割りなど身近な凶器を持ち練り歩いた。集団で朝鮮人を探し出し、匿っている日本人がいると脅して差し出させ虐殺した。「なにもしていない」と逃げている人を、よってたかって殺して池や川に捨てたり、河原に埋めたりしている。妊婦だろうと子どもだろうと構っていない。なんたるおぞましさだ。それで何一つ罪にも問われず、普通の高齢者となって年金生活をしている人がいるはずだ。巷にあふれるヘイトスピーチだけでなく、中国韓国を嫌悪したり見下す発言のオンパレードは、ジェノサイドを反省することなどなく戦後をフツーに生きた市民がつくる日常である。
 その亡霊がむくむくと甦ろうとしている。SNSがあろうとなかろうと、人は噂に弱い。一番怖いのは普通の善良なはずの市民と、そして噂を否定せずに加担してしまった内務省と警察だ。権力と市民が手を携えて、何をしようとしているのか。その権力側に国会は(ということは市民は)「共謀罪」を罰する法案を与えようとしている。マジョリティの普通の市民と警察が手を組んで排除しようとしているのは誰か。マイノリティであり、噂におどらされなかった異なる見解を持つ市民である。これがテロそのものよりも危険極まりないものでなくて、なんだというのか。

クローズアップ現代+「食卓"簡単”進化論」データ裏話

クローズアップ現代+の企画内容についてやりとりをしていた経緯から、思いがけず自ら解説することになってしまいました(http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3972/index.html)。3つのグラフが予定されていましたがたまたま1つしか映らないなか、数分の説明で適切に言葉を選ぶことの難しさを痛感しています。せっかくですので、背景とともに少し補足します。紹介されているデータ元は、小論としてヴェスタという雑誌にのせたものです。(htp://www.syokubunka.or.jp/publish/vesta/detail/post-45.html)。なお、論文としてはこちらが初出です。「無償労働の時間配分と社会福祉政策 ――日本、イギリス、オランダの3カ国比較から」http://kakeiken.org/journal/jjrhe/75/075_10.pdf)。家計経済研究所による研究助成をいただいて作成されたものであることを記して感謝いたします。

 下記グラフをみてわかるとおり、日本女性は炊事にヨーロッパの平均的な国々よりかなり長時間割いています。ミクロデータを入手して比較分析できたのはイギリスとオランダですが、他の先進国とさほど変わらないこともわかっています。一方、子どもの世話については、それほど時間を使っているとはいえないようでした。ちなみに、生活時間の国際比較では、平日と休日を足した平均の1日あたりの分で表記するのが通例です。

  炊事時間の3カ国比較(17歳以下の子どもと固定的パートナーのいる男女)2001年


出典:品田知美,2009,食文化誌ヴェスタNo.75,()味の素食の文化センター


子どもの世話にかける時間の3カ国比較(3-9歳の子どもと固定的パートナーのいる男女)2001年


出典:品田知美,2009,食文化誌ヴェスタNo.75,()味の素食の文化センター


 もう一つ番組中で解説した中食意識の変化に関するデータは、私が作成していませんので著作権の関係から転載できないことをお許しください。詳しくは晶文社「平成の家族と食」(http://www.shobunsha.co.jp/?p=3732)の基礎編で畠山氏による「手抜き化は進展しているか」に詳しいので、そちらをご参照ください。
 
 家族の日常生活を時間という観点を中心に研究してきた私の本流ともいえるお話を、テレビで解説する機会をいただいたことはありがたく思います。2015年末に出版された「平成の家族と食」(晶文社)を目にとめていただいたからなのですが、もともとこの本の企画の背景に「なんで日本女性はこんなに炊事に時間を使ってるのだろう?」という疑問があったのです。その謎はまだ完全に解けているわけではないのですけれども、今回のクロ現+のもうちょっと合理化していいんじゃない?という提案には全面的賛同します。

 ところで、番組中で言う機会を逸した重要な論点が1つ。
 食卓が簡単へと進化し時間も少し減っている一方で、育児はそうでもなく時間が増えていることがわかっています。もともと、上記のように日本女性は子どもとかかわる時間が少ないなか、炊事に時間を使っているのですが、近年は育児を増やして炊事を減らしているという傾向があります(近日学会で発表を予定)。ちなみに、小学生がいる男性は、平均4分とかのまま。台所界隈には相変わらず入っていません。

 保育園にこれだけ子どもをいかせるようになっていても、なお育児が増えているのは、なぜだろう?そして、相変わらずカジメン、イクメンはそれほどいないのも残念です。

 というわけで、母親が暇になっているという様子はみえないままでした。

GWに見た映画:わたしは、ダニエル・ブレイク

 ゴールデンウィークはもう1つの家にいて、模様替えと片付けに明け暮れていました。自宅をオフィスにして仕事をする生活になるので、居場所をつくらないとなんともならないです。頑張った〜!🍷その合間に出かけた唯一のレジャー、映画「わたしは、ダニエル・ブレイク」。映画好きの母に強く推奨されたおかげで、腰の重い私も最後の上映期間に滑り込むことができました。そりゃまあ、素晴らしい映画でした。おなじくケン・ローチの「天使の分け前」も大好きでしたし。福祉、とか貧困、とか多少なりとも気にかけている人なら必見映画でしょうし礼賛でしょう、完全に。あのフランスのカンヌでパルムドール受賞ですから。

 でも、というか、だから、なのか私にはどこかムズムズとした違和感が拭えないまま帰路についたのでした。なんでしょうかね、この美しい理念がバッチリと伝わってくる完璧な映画に対して。文句をつけようがないとはこのことなのでしょうに。こういうときこそ書かずにはいられない。

 私は10年ほど前に人生最大のエアポケットに落ち込み、傷心のままニューカッスルに10週間ほど滞在経験があります。労働者階級の象徴たるニューカッスルが舞台の映画。ひしひしと、街角のイメージがよみがえりました。シーズン前なので試合には行けなかったのですが、毎日アパートの窓からサッカースタジアムを見ながら暮らしていました。隣町のサンダーランドは電車でわずか数十分の距離にあるライバルチーム。ダービーマッチは大変なことになる。こんな近くに2つもあるなんて、さすがプレミアリーグ。それに私の生涯愛するミュージシャンStingも、ニューカッスルのはずれの小さい町で生まれ育っています。

 映画の前置きが長すぎましたね。要するに土地勘がありつつ見た映画、といいたいだけ。ついでにいうと、2012年、まさに保守党が福祉予算をカットしつつあった時、私は福祉と文化の研修授業として学生をイギリスに引率し、当時激変しつつあった福祉政策についてのレクチャーで危惧されていたこと。そのとおりの事態がシンプルに映画になっていた感じでした。
 ただ、「カフカのように不条理な官僚システム」(ビッグイシューVol.307)の最前線で演じている公的機関のスタッフたちが、あまりにも杓子定規に描かれていると感じたのは、なぜかな。つい先ごろまで在籍していた大学の卒業生たちが、ソーシャルワーカーや公務員になり、福祉の最前線でどれだけの苦労を背負いながら日々暮らしているのかを、聞いていたからかもしれない。イギリスで起きていることとしてではなく、日本でも確実に起きていることなのです。どうも、「イギリスってひどい状況よね」的に見る人がいるようですが、日本の現実も相当な酷さですから。もっというと、血の通っていない官僚制はどちらかといえば、お隣の国フランスで酷そうです。こういう映画を作る監督がいるイギリスという社会が、この映画を賞賛するフランスと比べて本当にひどい状況なのかどうか、現実と映像は意外に入れ替わっていたりするかもしれないのです。
 予算がない、人員配置がない、そういう現場で誠心誠意働こうとしたらどうなるのでしょう。あの映画で心ない人として描かれたスタッフに、疲れている(元)学生たちが重なって見えてしまいました。その時、人はどうしたらよいのでしょうか。すっきりした回答が私にはまだよく見えていません。ケン・ローチには、そこをもっと丁寧に描いてほしかった。

 あの美しくもキッパリした映画を、手放しで素晴らしいと言える人がうらやましいと思う反面、その人々は途中のぐちゃぐちゃとした現実を知らないのだろうと、残念になります。それが一番悲しく感じてしまったところでした。

 

子育て時代の懐かしい風景

 新生活を始めてからこんなにすぐに月末を迎えるとは思いませんでした。たいした義務もないはずなのになぜだか忙しい。そんな合間にぽっかりと空いた時間ができてしまい、20年前に子育てをしていた街を歩き回ることに。
 私にとって、たぶん、最も感傷的になる場所はここなのでしょう。東京都区部なのに驚くほどに変化に取り残されたかのような風景。小さい石段のある公園を1人で歩いてみると、いまも親子連れが遊んでいます。
 
 ここでは平日の午後でも遊んでいる子どもや歩いている親子をよく見かけます。当たり前のようで、地方や大都市圏の少し郊外でさえ、そう簡単に路上で親子と出会えません。
少子化の時代、地方ではごく近所に子どもがいないこともあってか、子どもたちは放課後に自由に行き来することは難しくなっています。遠方に自動車で送り迎えしてもらいながら路地裏や近所の公園に行くことなどそぐわないのでしょう。

 私のように子ども時代をほっつきあるいて過ごした経験のある人間は、今でもそういう子どもがいるのをみて、なんだかほっとします。その点では都会で子育てできたことは意外に幸せだったのかもしれないと思います。自然があるのに身近で自然を堪能できない農村の子どもと、わずかな自然しかないのに近隣で歩き回れる子ども。

 どちらがいいともいえません。けれど子どもは親を選べないように、生まれ育つ場所も選べません。懐かしい風景を確かめながら、確かに子育てを共にした仲間がいたことを思い出して、つい旧交を暖めてしまいました。

 

新生活をはじめました

 この3月末をもちまして、常勤先の大学を退職しました。
 5年間、保育士・幼稚園教諭養成コースの教員として忙しくも充実したやりがいある日々を過ごして参りました。得難い経験もたくさん積むことができました。教職員の皆さんや学生さんとお別れするのはほんとうに寂しかったのですが、やはり齢50を過ぎてこれからできることが限られているなか、残りの人生で自分ができること、やりたいことの優先順位を考えて思うところがありました。今年度は充電期間としながら執筆や研究につかう時間を増やしていく所存です。今後ともよろしくお願いします。

 退職後すこしのんびりしていたら私の所属先がわからずに行方不明となってしまっていて、各方面にご迷惑をおかけしていたようです。現在は大学で非常勤講師をしておりますが、連絡を取っていただける場合にはこのブログの連絡フォームをお使いください。

 つい最近、私の祖母は今年の4月4日で102歳の誕生日を迎えました。ここしばらく4月初旬は忙しく、誕生日のお祝いにかけつけることなど叶わなかったのですが退職したので、今年はついに、行けたのです。「もみちゃん、顔が細くなったねえ」と懐かしい声で話してくれて、とても幸せな時間を過ごせました。(そんなに丸かったか、私の顔)叔父や叔母たち、そして母とともにいっぱい声をあげて笑いあいました。その生命力に感嘆しています。

 これからはブログも充実していきたいと思います。まずは簡単なご挨拶にて。

保育所保育指針の改悪を危惧する

 私は現在保育士と幼稚園教諭の養成をする大学の教員である。そのため、「保育所保育指針」の改定内容は注視していた。家庭教育どうこうどころでなかった。指針は保育士養成の厳しい枠組みを決める憲法と言える重要なもので、私も保育内容「人間関係」の授業で現にテキストの内容を教えている。戦後長らく日本の素晴らしい理想的な保育内容を現実に支えてきた文書がこれだ。まさかこんな指針がでてくることになるとは虚をつかれたような思いでショックが癒えない。大幅改定されたら10年は変わらない。さっそくパブリックコメントを書いた。3/15まで。読者のみなさんもぜひ!(https://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=495160408
 はっきりと言おう。ここには「日本の宝」といわれた乳幼児保育の終焉ともいえるほど重大な改悪が含まれている。素晴らしい改定箇所もある。だからといってひっそりと日本会議の推奨する国家主義教育が盛り込まれてしまっていいはずがない。たかが幼児教育?そんなことはない。頭の柔らかい子どもたちには、国家などという未来永劫続くかどうかわからない枠組みを押し付けて欲しくない。「国旗と国歌に親しむ」ことを幼児に求めるなど、常軌を逸した文言が散見される。これまでの指針にはそんな具体的な指示が含まれていなかった。憲法と法律の違いともいえる。「国旗と国歌に親しむ」が具体的行動の強制でなくて、じゃあなんなのか。
 「保育所保育指針」は全世界共通のHuman being :人間的なるものを目指すものであるべきだ。グローバルな時代、多様なバックグラウンドを持っている子どもたちが保育所にも来ている。マイノリティの子どもが「自分は違う国の人間だ」と意識させられる瞬間を、乳幼児を保育する環境で作ってはいけない。人種や国家の壁を取り払う場所が保育所でなければならない。日本人の両親だってアメリカで生まれた子であれば、将来アメリカ国籍を取得する可能性だってある。そんな柔軟な思考の場を、乳幼児期に育んだ上で、どこかの国家に帰依したい人がいればそこまでは否定しない。将来の国境を超えた人々の平和な交流の礎は、日本という国家の押し売りからは生まれない。
 安倍首相とその妻が「素晴らしいしつけをする」と絶賛する森友学園の経営する塚本幼稚園では、教育勅語が暗誦されているという。確かに三つ子の魂100までは嘘じゃない。母はいまでも教育勅語を覚えているという。古い規範の幼児への書き込みをすれば社会の秩序が蘇るという夢物語を信じる人がいる。しかし、未来に開けた人間社会の理想はそこに書き込まれているだろうか。それに教育勅語は日本を戦争へと導き他国の人々を含めて多数の死と不幸をもたらした歴史的事実を背負っている文言だ。真実を直視してほしい。(真実という言葉自体死に瀕しているけれども。)技術環境が変化するなかで、人間の夫婦や親子の関係性が変わらないことなど不可能であると私は確信する。
 もっと穏やかに語りつづけたい私であったが、強い主張をしなくてはいけない時代がとうとうやってきた。自分の庭についに土足で憲兵が乗り込んできて美しい花を踏み荒らしているように、痛みを感じている。悲しみがとまらない。

 


「家庭教育支援法」はファシズムを強化する

 国会で日本の歴史を変える法案がつぎつぎに審議されようとしているのに、世間はトランプ報道一辺倒。議論がマスメディアで、表でガチに戦わされている米国には、どんなに内容に問題があろうとまずは敬意を表する。

 その陰にかくれて、日本の政治では深刻な法改悪の積み重ねが着々と進もうとしている。憲法の集団的自衛権すら読み替えられてしまったが、さらに危険な二つの法案が出てきている。「共謀罪」はともかく、「家庭教育支援法」と聞いて目くじらをたてる人は少ないだろう。私はずっとこの領域で仕事をしてきたものであるので、急ぎ書いておきたい。この法案はとても危険であり、将来に禍根を残すので明確に反対する。リテラの記事(http://lite-ra.com/2017/01/post-2886.html)の主張に解説されているとおりの動きだと思う。

 第一次安倍内閣のときに、家庭教育は初めて法的な根拠を持って政策的に支援されるべきものとなった。そこまでは、実際に様々な公的支出がなされていたものを追認する内容にとどまっていたが、すでに研究者に注視されていた。教育への国家介入は今に始まったことではないが、近年乳幼児教育の重要性という科学的な知見が増えていることから、幼い時にこそ介入しなければと考える勢力の主張はある意味で的を射ている。彼らは本気だ。

 子育てとは政治と哲学におけるイデオロギーが渦巻く最前線の営みだ。それは「[子育て法]革命」(中公新書)を上梓したときから私もずっと考えてきた。そのわりに天下国家を論じる人の多くが関心を払っていない。そこが子育てを顧みずにきた日本の知識人業界がもつ限界なのかもしれない。草の根運動はここでも健在なのである。

 2016年秋の時点での法案以後の版はまだ見つからなかった。誰がどこで作っているのだか非常に見えにくいし、伏せられているのではないか。(https://article24campaign.wordpress.com/2017/01/13/)この法案は「家庭教育支援基本方針」なるものをつくり、特定の理念を家族に持ち込もうとする。
 例えばこんな文面がある。

2 家庭教育支援基本方針においては、次に掲げる事項を定めるものとする。
一 家庭教育支援の意義及び基本的な方向に関する事項
二 家庭教育支援の内容に関する事項
三 その他家庭教育支援に関する重要事項

 おそらく、保育所保育指針のようなものの作成を考えているのだろうが、この方針作成にあたり「家庭教育の専門家」として極端に保守的な人を連れてくることもありうる。いまのところ、保育所保育指針の作成に携わっている専門家はもともと領域からいって右翼系思想の人が入り込みにくいし、厚生労働省の管轄下で現時点では中立的に守られているけれど、家庭教育支援の管轄はすでに文部科学省である。子育て支援の予算がこちらに握られることになるのだ。もしかすると、いま文部科学省が唐突に天下り問題でやり玉にあがっている裏には、これらイデオロギーのせめぎあいがあるかもしれないとすら思う。

 いまでさえ、「家庭教育支援」として行われている親学系のセミナーには眉唾の議論も多い。この分野の専門家が少なく領域が確立していないから、だれもが「専門家」と言ってしまえる面があるのだ。私自身も家族社会学者として時折「家庭教育」分野で講師として招かれてきたわけだけれども、どちらかといえば一般的な議論に対して根拠を示して疑問を投げかけて、何を選ぶのかは親たちが決めればいいというスタンスを堅持してきた。つまり、正しい子育てや家庭教育論を説教することは慎重に避ける。家庭とは多様であってほしいし、それがファシズムの最後の防波堤になると考えているからだ。

 家庭教育に熱心な論者は、時に宗教的な崇高さと熱意と思い込みで親のあるべき姿を語る。組織力が高いので、いまは担当者の裁量で呼ばれている私のようなマイナーで個別な専門家の語り手は少ない。すでに、「ジェンダー」とか「フェミニズム」系というだけで、排除されているとも耳に入ったことがある。家庭教育支援法案ができれば、方針に則った内容ものしか選ばれなくなるので、意図に沿わない論者を堂々と排除できる。私などが「家庭教育」の名の下に公に親たちに語る機会はもうなくなるにちがいない。これが末端までの教育観の斉一化をもたらしていくはずだし、親たちもまた「別の視点」を持つ機会は減ってしまうだろう。

 公的な空間と私的な空間が全域的に同じイデオロギーで埋め尽くされていた戦前、そこにはファシズムがあった。いまでも教育勅語がソラでいえる高齢者は多い。早期教育おそるべし。

 ただ、憲法24条への布石として改正に反対することに躊躇する。なぜかというと憲法24条は婚姻を「両性」と表記している。改正して同性婚を可能にすればよいと考えるから。憲法24条を「両性」または「同性」に変えようキャンペーンに逆転してやってみたらどうだろうか、と思案している。