保育所保育指針の改悪を危惧する

 私は現在保育士と幼稚園教諭の養成をする大学の教員である。そのため、「保育所保育指針」の改定内容は注視していた。家庭教育どうこうどころでなかった。指針は保育士養成の厳しい枠組みを決める憲法と言える重要なもので、私も保育内容「人間関係」の授業で現にテキストの内容を教えている。戦後長らく日本の素晴らしい理想的な保育内容を現実に支えてきた文書がこれだ。まさかこんな指針がでてくることになるとは虚をつかれたような思いでショックが癒えない。大幅改定されたら10年は変わらない。さっそくパブリックコメントを書いた。3/15まで。読者のみなさんもぜひ!(https://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=495160408
 はっきりと言おう。ここには「日本の宝」といわれた乳幼児保育の終焉ともいえるほど重大な改悪が含まれている。素晴らしい改定箇所もある。だからといってひっそりと日本会議の推奨する国家主義教育が盛り込まれてしまっていいはずがない。たかが幼児教育?そんなことはない。頭の柔らかい子どもたちには、国家などという未来永劫続くかどうかわからない枠組みを押し付けて欲しくない。「国旗と国歌に親しむ」ことを幼児に求めるなど、常軌を逸した文言が散見される。これまでの指針にはそんな具体的な指示が含まれていなかった。憲法と法律の違いともいえる。「国旗と国歌に親しむ」が具体的行動の強制でなくて、じゃあなんなのか。
 「保育所保育指針」は全世界共通のHuman being :人間的なるものを目指すものであるべきだ。グローバルな時代、多様なバックグラウンドを持っている子どもたちが保育所にも来ている。マイノリティの子どもが「自分は違う国の人間だ」と意識させられる瞬間を、乳幼児を保育する環境で作ってはいけない。人種や国家の壁を取り払う場所が保育所でなければならない。日本人の両親だってアメリカで生まれた子であれば、将来アメリカ国籍を取得する可能性だってある。そんな柔軟な思考の場を、乳幼児期に育んだ上で、どこかの国家に帰依したい人がいればそこまでは否定しない。将来の国境を超えた人々の平和な交流の礎は、日本という国家の押し売りからは生まれない。
 安倍首相とその妻が「素晴らしいしつけをする」と絶賛する森友学園の経営する塚本幼稚園では、教育勅語が暗誦されているという。確かに三つ子の魂100までは嘘じゃない。母はいまでも教育勅語を覚えているという。古い規範の幼児への書き込みをすれば社会の秩序が蘇るという夢物語を信じる人がいる。しかし、未来に開けた人間社会の理想はそこに書き込まれているだろうか。それに教育勅語は日本を戦争へと導き他国の人々を含めて多数の死と不幸をもたらした歴史的事実を背負っている文言だ。真実を直視してほしい。(真実という言葉自体死に瀕しているけれども。)技術環境が変化するなかで、人間の夫婦や親子の関係性が変わらないことなど不可能であると私は確信する。
 もっと穏やかに語りつづけたい私であったが、強い主張をしなくてはいけない時代がとうとうやってきた。自分の庭についに土足で憲兵が乗り込んできて美しい花を踏み荒らしているように、痛みを感じている。悲しみがとまらない。

 


「家庭教育支援法」はファシズムを強化する

 国会で日本の歴史を変える法案がつぎつぎに審議されようとしているのに、世間はトランプ報道一辺倒。議論がマスメディアで、表でガチに戦わされている米国には、どんなに内容に問題があろうとまずは敬意を表する。

 その陰にかくれて、日本の政治では深刻な法改悪の積み重ねが着々と進もうとしている。憲法の集団的自衛権すら読み替えられてしまったが、さらに危険な二つの法案が出てきている。「共謀罪」はともかく、「家庭教育支援法」と聞いて目くじらをたてる人は少ないだろう。私はずっとこの領域で仕事をしてきたものであるので、急ぎ書いておきたい。この法案はとても危険であり、将来に禍根を残すので明確に反対する。リテラの記事(http://lite-ra.com/2017/01/post-2886.html)の主張に解説されているとおりの動きだと思う。

 第一次安倍内閣のときに、家庭教育は初めて法的な根拠を持って政策的に支援されるべきものとなった。そこまでは、実際に様々な公的支出がなされていたものを追認する内容にとどまっていたが、すでに研究者に注視されていた。教育への国家介入は今に始まったことではないが、近年乳幼児教育の重要性という科学的な知見が増えていることから、幼い時にこそ介入しなければと考える勢力の主張はある意味で的を射ている。彼らは本気だ。

 子育てとは政治と哲学におけるイデオロギーが渦巻く最前線の営みだ。それは「[子育て法]革命」(中公新書)を上梓したときから私もずっと考えてきた。そのわりに天下国家を論じる人の多くが関心を払っていない。そこが子育てを顧みずにきた日本の知識人業界がもつ限界なのかもしれない。草の根運動はここでも健在なのである。

 2016年秋の時点での法案以後の版はまだ見つからなかった。誰がどこで作っているのだか非常に見えにくいし、伏せられているのではないか。(https://article24campaign.wordpress.com/2017/01/13/)この法案は「家庭教育支援基本方針」なるものをつくり、特定の理念を家族に持ち込もうとする。
 例えばこんな文面がある。

2 家庭教育支援基本方針においては、次に掲げる事項を定めるものとする。
一 家庭教育支援の意義及び基本的な方向に関する事項
二 家庭教育支援の内容に関する事項
三 その他家庭教育支援に関する重要事項

 おそらく、保育所保育指針のようなものの作成を考えているのだろうが、この方針作成にあたり「家庭教育の専門家」として極端に保守的な人を連れてくることもありうる。いまのところ、保育所保育指針の作成に携わっている専門家はもともと領域からいって右翼系思想の人が入り込みにくいし、厚生労働省の管轄下で現時点では中立的に守られているけれど、家庭教育支援の管轄はすでに文部科学省である。子育て支援の予算がこちらに握られることになるのだ。もしかすると、いま文部科学省が唐突に天下り問題でやり玉にあがっている裏には、これらイデオロギーのせめぎあいがあるかもしれないとすら思う。

 いまでさえ、「家庭教育支援」として行われている親学系のセミナーには眉唾の議論も多い。この分野の専門家が少なく領域が確立していないから、だれもが「専門家」と言ってしまえる面があるのだ。私自身も家族社会学者として時折「家庭教育」分野で講師として招かれてきたわけだけれども、どちらかといえば一般的な議論に対して根拠を示して疑問を投げかけて、何を選ぶのかは親たちが決めればいいというスタンスを堅持してきた。つまり、正しい子育てや家庭教育論を説教することは慎重に避ける。家庭とは多様であってほしいし、それがファシズムの最後の防波堤になると考えているからだ。

 家庭教育に熱心な論者は、時に宗教的な崇高さと熱意と思い込みで親のあるべき姿を語る。組織力が高いので、いまは担当者の裁量で呼ばれている私のようなマイナーで個別な専門家の語り手は少ない。すでに、「ジェンダー」とか「フェミニズム」系というだけで、排除されているとも耳に入ったことがある。家庭教育支援法案ができれば、方針に則った内容ものしか選ばれなくなるので、意図に沿わない論者を堂々と排除できる。私などが「家庭教育」の名の下に公に親たちに語る機会はもうなくなるにちがいない。これが末端までの教育観の斉一化をもたらしていくはずだし、親たちもまた「別の視点」を持つ機会は減ってしまうだろう。

 公的な空間と私的な空間が全域的に同じイデオロギーで埋め尽くされていた戦前、そこにはファシズムがあった。いまでも教育勅語がソラでいえる高齢者は多い。早期教育おそるべし。

 ただ、憲法24条への布石として改正に反対することに躊躇する。なぜかというと憲法24条は婚姻を「両性」と表記している。改正して同性婚を可能にすればよいと考えるから。憲法24条を「両性」または「同性」に変えようキャンペーンに逆転してやってみたらどうだろうか、と思案している。