映画「パラサイト:半地下の家族」と「ジョーカー」の揺さぶる世界の狂気

 映画館で早めに見ておきたいという気分のほうが、新型肺炎への恐怖よりもまさって、ギリギリまで悩んだけれど、「パラサイト」を見に行ったのが1月のことだ。けれど隣席に座った人がマスクをしながら咳をし始めたので、文字どおり体が固まった。2週間たったので大丈夫そうだ。いまだったら、もう行かない。ジョーカーは上映期間に見逃してしまったので、自宅プロジェクターでミニシアター上映。2020年アカデミー賞で、「パラサイト」はオスカーを、「ジョーカー」はホアキンが主演男優賞を手にした。「パラサイト」はカンヌも制したから、文字どおり世界の映画界を席捲している。

 正直に感想をいえばどちらも好きとも言えず、感銘を受ける映像でもなかった。どうしてなのかここで考えてみる。プロットやストーリーはいかにも階層のことを気にかける社会学者冥利に尽きるのでは?でも、そんな野暮なことは論文に任せておけばいいのに。この映画には刺激と面白さはあっても、新しさをまるで感じない。映画にはその先をいってもらいたいのに、周回遅れに学問を剽窃している。
 「パラサイト」は誰に受けるのかといえば、半地下に住んでいない家族だろう。どちらかといえば、夫を殺された家族が所属するような上流階級には入れなかったかもしれないけれども、半地下に落ちないように、必死に地上に踏みとどまろうとしている中流階級の人々。つまり、私たちのような人。階層の上位にいる人々を悪い人とは描かないように注意深く避けている。勧善懲悪でもないから、嫌味なく楽しめるファンタジーのような娯楽映画に仕上がっている。もしも、ほんとうに上流階級の悪口をいったら、大作を制作するためのお金も出してもらえないし、アカデミーやオスカーには選ばれないだろう。セレブリティーの慈善活動に対して、タキシードとドレスの人々が、英語圏でない映画に初めて拍手喝采を贈るにはちょうどいい映画だったのだ。ハラハラドキドキ。登場人物と一体化してしまうので、エンターティメントとしては、とても面白いのだから文句はない。
 「ジョーカー」はもう少し人間の恐ろしいところをあえて描いている。だから、オスカーは逃したのだと思う。手法としては煙にまく、というやり方で。本質は女嫌い(ミソジニー)の映画だったから、余計に怖いのだが。自分を守らなかった母、虐待をした事実を隠して介護するよい息子にさせられていた、と気づいた時に始まる男の狂気。優しさという行為を信じる可能性を、完全に裏切ることへのためらいのなさ。それが笑いと暴力なのだとするなら、「ジョーカー」は確かに「パラサイト」よりは、見たくないものを見ようする。しかし、憐憫への拒否が暴力への連帯であるとするなら、それは誰にとっての救いにもならず絶望しか先には見えない。

 この2つの映画の受賞は、「上級国民」が自分たちが恐怖に苛まれている、という感情を吐露するところまで追い詰められたという現実をあらわにした。多くの凄惨な殺人が続き血が流される。いまとなっては、是枝の「万引き家族」がいかに穏やかなファンタジーであったのか、と懐かしくなる。もう、下にいる人々は黙っていないだろう、と身近な暴力を恐れてみんな戦々恐々なのだな。
 じゃあ、恐怖に怯えた人はどうするか?エスタブリッシュメントのコミュニティはさらにゲートを閉めて、区切り、分断して悪いものが入り込まないようにするのではないか。映像の世界で弱い仲間と連帯をしているフリをしながら、現実世界では決して交わらないように、よい地域に引っ越したり、幼い頃から受験をさせて、子どもと家族を守ろうとするのではないか。映画の中の半地下に住む家族の父親が家長として、正しい振る舞いとして殺人を犯したように、たとえ自分のビジネスで地球の裏側で人が亡くなろうと、目の前の家族を守るために、親族の力を結集して策を練る。その精神を下敷きに正義を語る映画を皆で愛でている、つまりは自己弁護にすぎない。
 かつてゴダールが「気狂いピエロ」を描けたのは、一瞬鑑賞をするものが「狂気の世界」に近しさを覚えたとしても、すぐに「普通の世界」に戻れるという安心感があったからだ。「ジョーカー」は普通で真っ当な世界など、もうどこにもないという現実をつきつける。「気狂いごっこ」はもうできない世界で、真っ当であることとはなんなのか根底から揺さぶられる時代が訪れた。