憂愁の8月:なでしこにもう素直に喜べない

しばらく書けなかった。時間がなかったけれどそれだけじゃない、気が重いからだと思う。この社会の先行きを深刻に案じている。震災直後からずっと関東大震災後のような嫌な社会の流れが再び発生してしまうのではないか、という不安を抱えてきた。なでしこの優勝で、その流れを払拭できるのではないかと期待をしていたけれど、逆だったかもしれない。特に反韓流デモの発生には衝撃を受けている。NHKの「なでしこ」予選にむけてのはしゃぎぶりにも、ついていけないものを感じる。
7月の終わりからしばらく学会のために、イギリスにでかけた。帰りにちょっと息抜きができたし、国外にいる間は夢もみずにぐっすり眠れた。それなのに、もどってくるとしょっちゅう、すっきりしない夢をみる。震災前もずっとそうだった。
言葉狩りの足音が聞こえる。もうすでに削除やアクセス不能のウェブもあるのではないか。マスメディアの自主規制だけではない。善良な市民の熱い思いが息苦しさを増幅させている。被災地域の人々の感情を少しでもさかなでする可能性があると判断される発言は、自主規制の対象となるし、少しでも発せられたら血祭りにあげられている。
被災者が「風評」で苦しんでいるという構図をつくり、生産者を守り安全にこだわりすぎる消費者を排除する。得をするのは賠償責任を持つ、国と東京電力だ。「当分住めない」とか「脱原発を」と素直に発言してしまい思う通りにならない首相は引き下ろされ、最も自分たちに都合がいい首相にクビをすげ替えてしまう。官僚たちは本気で権力保持のための最後の闘争をしかけている。政府のいうことは、もはや6割近くが信用していないというのに。革命の経験のない市民は、彼らに足下を見られている。
鬱屈を外国に向けたときだけ、日本人は互いに非難し合う必要がなくなる。フジテレビへの抗議デモは、やり場がみあたらない鬱憤をぶつけるサイテーの方法だ。なぜこうなってしまうのか。国民がみなお互いを思いやらなくてはいけない、と暗黙の了解をだれも破ることができないからだ。残念ながら、なでしこの優勝は「日本社会が1つになって、いまこそがんばろう」という機運を極限まで強めてしまった。将来振り返った時、ここに「よい」ターニングポイントがあったといわれるように、自分ができることを考えたい。