大学というシステムが崩壊したとしても

 学校教育法の改正にともない、1人の大学教員の力の及ぶ範囲はますます限定されつつある。今春、学長の権限を強化する学則改正が数多の大学で行われたであろう。少し前の現代思想2014年10月号の特集「大学崩壊」は自ら当事者である大学教員が寄稿するものであるせいか、とても力のこもった記事が多く考えさせられ、もうじき新学期を迎える教員そして社会学者として、自分がどうありたいのか覚え書きをしたくなった。
 もう一つ、どうあるべきかというヒントをもらえたのが国際社会学会のニューズレター。よりいろんな人の目に触れやすいよう日本語版もある。http://isa-global-dialogue.net/wp-content/uploads/2015/03/v5i1-japanese.pdf この記事の、「パブリックソシオロジーへの2つの道」というエッセイのなかに、パブリック・ソシオロジストとプロフェッショナル・ソシオロジストを対比的に論じるくだりがある。なるほど私がいつも気にかかっていた問題が、こんな風に世界の社会学者と共有できる悩みであったとは。もっと早くこの言葉を知っていたらよかった。
 世界でそうであるように日本でもパブリック・ソシオロジストであると見なされることは学術界ではあまり高い評価へとつながらない。反転して十分な学術研究の蓄積がないままに、マスメディアで語り続けている若い“社会学者”も多い。重たい研究との格闘を早々とスルーして軽やかに世相を斬るという手法は、学問とはちがうものとして価値はあると思うが、同時に学問という価値全体を軽いものへと引きずり込んでいく。だからといって、彼らをバッシングしてもはじまらないだろう。彼らが闊歩する理由の一つは、プロフェッショナル・ソシオロジストがあまりにパブリックの前に出てこない、あるいは出やすい場所がない、引き出されないからでもあるのだから。
 パブリック・ソシオロジストはこの「軽やかな人たち」とは違うものである。私はどちらかといえば、プロフェッショナル・ソシオロジストに近い立ち位置でやってきたとはいえ、新書も書いているし、著作は一般向けを意識して書くことが多かった。マスメディアにも要請されれば出て行ったので「どちらともいえない」あるいは「どちらでもある」派であった。それでよかったのだと振り返った。
 とはいっても、日本の多くの私立大学教員とは圧倒的に研究者である前に教育者であるのが実情である。(もっとも現実はそのどちらにも力が十分にさけないほど過酷な状態ともいえる。)しかし、「研究とはなにか」を考えるなら社会学者にとって日常世界のほぼすべてがフィールドである以上、それほど教育と研究を分けきることもできない。生身の人々と対話することが学術の豊かさへと直結するという側面についても、ニラ・ユヴァル=ディヴィスは語っている。
 そんな折り、もう10年以上も前に出した本「<子育て法>革命」を読んだという子育て中の男性の方から、手紙で熱いメッセージをもらって心が明るくなった。これまでも、「とても役に立った」というメッセージをもらうたびに励まされてきたが、中公新書という媒体は子育て中の母親には直接届きにくいという限界がある。媒体をどうするか考えつつ、そろそろ続編を書きたくもなってきた。研究を重ねてきたことをパブリックへと還元していく方法を1人の社会学者として模索したい。大学が今後もそれを支えてくれる場であることを期待しつつ。
 

川崎の少年殺害事件:社会の澱に沈む加害者と被害者

 なんとも心が落ち込む事件であった。久々の休日、酔いに任せようやく書こうという気になっている。名古屋大女子学生の事件時にも何か気持ちが荒む事件であったけれども、今回の川崎での出来事は自分の専門領域:家族関係、労働問題–で普段から考えていることと直接リンクしてしまったからだ。彼らは「サイコパス」ではなく、いま日本のどこにでもいる不幸な子どもたちが出会ってしまった帰結ゆえの事例だ。断罪されている加害者とその家族も弱者、であることに社会は気づいてほしい。そこに今後日本がどうなっていくのかという未来がかかっている。
 加害者の家族のプロファイル。連れ子で再婚している家族(ステップファミリー)、お母さんは外国人(移民)。お父さんはトラック運転手、お母さんはスーパーでアルバイト。私が生活時間の分析をした結果では、この組み合わせは最も長時間労働であるにもかかわらず、最も低収入のカップルだ。ステップファミリーが周囲への理解が得られず苦労することは教科書どおり。そのうえ、お母さんは外国人。さらに、おそらくDVと虐待のある家族だ。つまり本来は支援されるべき対象である家族なのだ。ちょっとした周囲の支援があったら、こんな事件にならずにすんだかもしれないのに、全ての責任を家族に帰して断罪しようとしている人が多すぎる。虚勢をはっている弱者だからだろう。弱者らしくしおらしくしていないと誰も助けない。
 被害者の母親はひとり親で介護系職種。こちらも、長時間労働でかつ低賃金の典型的プロファイル。母親が自身で「息子が出て行くより早くに出勤して、夜遅くに帰ってくる」と慟哭とともに語っている。シングルマザーで同じようにこの状況に置かれている人が、心配して相談してくる状況があるというのも当たり前で、そんな人が大勢いるのがいまの日本社会だ。ひとり親世帯が長時間労働にもかかわらず収入が低く、先進国最悪の貧困率である状況の中、仕事を頑張って収入を増やそうとすれば母親が家にはいられない。長男である被害者はきょうだいの「子育て」を期待されている。子どもが子どもを育ていていた戦後しばらくの家族と同じなのだが、いまはそういう家族が少ないから彼も孤独だっただろう。どちらの家族の大人たちも、子どもたちの様子を見て見ぬふりをしつつ日々の生活に精一杯であったはずだ。
 そして、加害者はかつていじめの被害者である弱者であり、だからこそ、強者となることにしがみついていた。弱者たちに牙を剥かれないように、暴力で周りを制しながら小さな自分の城を築いていた。人気のある被害者は彼の存在を脅かしたのだろう。そして、そんな人間関係は日本社会のどこにでもある。支配をし権力を振りかざす人と、表立ってたてつくことをしない一見すると弱い被支配者。彼らは常に自分が支配する側にになる機会をうかがっている。彼/彼女らは強者になったとき、ここぞとばかりに権力を振りかざす。見ているだけでうんざりするほど繰り返される日常。実際にその関係に入り込むとじつに恐ろしいものだ。
 弱者が互いに抗争し暴力に至る。これは世界でよく起きている構図の殺人によくみられる典型事例である。そこに、真の支配者である強者の人々がどのような視線をむけるのか。断罪してしまうのなら、きっと日本国の中にIS的なるものが育つための滋養を与えることになる。加害者はすでにISの殺人を真似ているのだから。
 いつものお願いを繰り返そう。悲しみとともに被害者に花を手向けるならば、加害者のことも少しは憐れんでほしい。日頃から、余裕がある方は自分の親族以外の余裕がない人々に、時間も金銭も愛も分け与えてもらいたい。家族は互いに相手を尊重して自由:お金と時間とすべてをできるだけわかちあってほしい。他になにが予防に効果があるというのか。対症療法ではどうしようもないところに、時代は差し掛かりつつある。