悲しい帰結となったSTAP細胞はなぜこれほど話題となったのか

 1人の重要な科学者の命が絶たれるという、これほど悲しい帰結が待っているとは。日本中の人々が、まるでにわか科学者であるかのように話題にしたSTAP細胞。科学における失態にとどまらず、メディアにジェットコースターのように持ち上げられ、叩かれて悲惨な現実がついに呼び込まれた。
 じつはこの問題、1番最初から、全く関心が持てない、つまらない、なぜみんなが騒ぐのかよくわからない話題であった。だから、ニュースも追っていなかったし、皆が話題にしてもあまり熱心に参加もできなかった。ところが、さすがにこういう結末になると、自分が避けてきた意味も含めて、振り返らざるをえなくなった。
 私は小保方氏と同じ早稲田大学工学部出身の理系女子、である。いまは社会学をやっているが、学部時代に理系女子がどう扱われるか、身をもって知っているので、最初にテレビに登場したときに、「ああ、男性に使われてる女(ひと)」か「ちょっと頭イカれてる常識のない女(ひと)」、だろうと思った。基本的には彼女から、「自然体」な様子を感じることができなかったからだ。
 それが全てで、あとは見ての通りの流れで、結局は笹井氏の問題であったはずで、確かに遺書にあるように「彼女のせいじゃない」んだろう。周りに利用されている状況にすら気づけないという意味で、そうとうおツムが弱い猪突猛進な女(ひと)だろう。逆に、世間のおじさんたちには「小保方さんをいじめるな」的目線があると聞く。それは要するに「女の子にそんな難しい仕事させるなんて、上司が悪い」って馬鹿にしてるってことの裏返し。あの年で一人前でなくてどうするの。あほらしい。
 女子が工学部に行くことに対する世間のハードル、そして卒業するハードル、研究を続けるハードルは信じられないほどに、いまだに高い。それを乗り越えられる人は、よほど強靭であるか、鈍感であるか、いずれかであることが多い。フツーの人にはできない芸当なのだ。ようするに、過酷な女性差別の国を生きのびて自律した研究者になることは並大抵にはいかない。
 不思議なことに、私の身近な研究者たちがあらゆる視点から白熱して「不正」について問題を語りたがった。基本的に小保方氏個人を断罪をする。切り貼りやコピー&ペーストが許されないのは常識であるが、彼/彼女は、今回の件で学術界全体が低く見られることに神経を尖らせているような気がする。プライドを傷つけられる、という感じだろう。そこで、「自分はそういう輩とは一線を画している」と主張したい。でないと、自分が取得した博士に傷がつくし、論文を出していても価値が低く感じさせられる。対世間への学術界の防御反応とでもいうような舌戦が繰り広げられていたように思う。
 ネイチャーに論文出ると偉い、博士持ってたら偉い、よい職についていたらエライ。学術界の人々は熾烈につばぜりあいをしている。私はその競り合いの構図からずいぶん前に降りてしまっていた。だって、学問や研究の価値がわかるのは、結構後になるのも普通だし、現世でめぐまれるかどうかもわかんないし、人に認められるかどうかもかなりの偶然にすぎない、でしょ。どのみちそう考えていたから、今回の事件がそれほど「大きな出来事」とも思えなかった。馬鹿なことする人もたまにはいるよな、っていうふうに。
 短期的にわかりやすい成果が出せるのなら、学術研究などいらない。マスメディアは気が向いた時にだけ、勝手な切り口で学術研究に関心を示す習慣をやめてほしい。お受験したあとしっかり遊んで学部を卒業した文系男子の記者さんにとって、理系女子は常にこわごわ取り扱うものなのは体感しているので身にしみています。理系女子が珍獣でなければ、ニュースバリューはもともと低かったはず。理研の戦略にそう簡単に乗らないで自制してもらいたかった。だいたい「ノーベル賞」とかも騒ぎ過ぎ。(社会学者にはどうせノーベル賞ないんだよ)。
 科学の中身を議論することをせずに、いつも形式的なところだけで話を見る。上から目線で研究者たちを、「使えない奴ら」と一刀両断したり、「使ってあげる」と都合がよくつまみ食いするのをやめて、修士や博士でも取って学んで欲しい。きっと別の視界が開けますから。ふだん学術研究とはとても自分から遠い世界のものと考えて、過大な期待を抱くか逆に蔑視している世間の人々と、メディア関係者の共依存がもたらした今回の災厄。学術研究が日本社会にすっきりと「埋め込まれる」日はいつか来るのだろうか。
 

 

「家事ハラスメント」論争?

 めずらしくこの件で雑誌から取材依頼があった。私が依頼された内容でコメントするにふさわしい人間とは思えなかったのでお断りした。とはいえ、そのためこの話題について考える機会ができたので、久しぶりにブログに書いてみたくなった。日頃都会におらず、マスメディアもあまり接触しない人間には、話題とさえ感じられなかったのも事実なのだけど。「家事と家族の日常生活」書いてる以上、避けてはいられない。
 まず、どういう文脈にせよ「家事ハラスメント」を最初に名付けた竹信三恵子氏の用いた意味と全くちがう意味で使われた広告が派手になされたことで注目が集まり、この本が広く知られることになるのは、よいことだ。
 それにしてもこの論争、何かを思い出させるなあ、と帰り道にふと浮かんだのは主婦論争。これまでのところ、あまり研究者や学者の参入が目立っていないが、おそらくやや混戦しつつ続くことになる予感がする。
 では、ここに時代の変化、あるいは論争の進化は読み取れるのだろうか?私はあると感じている。だいぶ昔に書いた雑誌論文(<労働>の贈与/unpaid work概念の成立)の中で、主婦論争のすれ違いについて論じたことがある。主婦論争では家事と主婦の価値が混同されていったことに最大の不幸があったと私は考えている。家事にはそれなりの価値があっても別に専業主婦を擁護する必要はないはずだ。けれども70年代までの感覚では、素朴に家事=主婦であったため、双方を切り離した議論が十分なされていなかったのである。今回の論争では、家事≠主婦となっている。そこに確かに変化がみられる。
 ところが、「家事ハラ広告」のもとになった旭化成共働き研究所の報告書を見ても、「家事は主婦のすること」というおおまかな原則はいまだ健在であった。それで随所に「夫が家事を手伝う」という表現があらわれることに、違和感を持つとコメントする人が多い。そこに時代の風を感じる。ちなみに、共働き研究所の調査自体は、対象の選び方や比較のしかた、まとめ方などあまりに粗雑な印象を受け、内容を精査して分析する気には全くならない。もっとまともなデータは学術界にいろいろある。
 家事のやり方の適切さが夫婦で話題になることは、そんなに悪くない。よく生きるために必要な家事の価値は、ちょっぴりかもしれないが、上昇したと信じよう。