映画感想「レッドピル」The Red Pill: A Feminist' Journey into the Men's Rights Movement

  日本では共同親権運動ネットワークがクラウドファンディングで2018年に上映会をしている。男性の権利を主張する団体に、フェミニストが潜入して話を聞いて考えていくうちに、ジェンダー平等がなにかよくわからなくなったというストーリー。映画に目配りの利いている知人がDVDを持ってきてくれてありがたく視聴した。感想を聞かれたので久しぶりにブログに書き込み。

 この映画は、オーストラリアなどではフェミニストの側からの反発が強く、一時期上映禁止になったり論議を呼んでいる。「政治的」に見ずに「フェアに」みるという行為はもとより原理として不可能だ。ディティールに気を配って上手につくられているので、とても興味深く見た。私は反論や炎上内容を全くフォローしておらず以下は個人的な感想。

  まず監督のキャシー・ジェイがとても柔らかい物腰の美しく愛らしい女性で、うっとり見惚れる。このひとのインタビューと独白が重要な骨組みとなっているドキュメンタリーなので、どういうひとなのかは重要なのだ。もと女優志望だけあって、隠れた目的はこの映画の中で自分が優雅に美しく見えることだったんだと理解した。これが映画を読み解く鍵になる。

  女性の権利をめぐる活動が活発になれば、そのカウンターとして男性の権利を主張する側も生まれる。それは米国のように平等をめぐって喧々諤々議論が続く社会らしい活動団体で、彼らの主張は過激ではなく、まっとうに権利を主張しているように「見える」。

 いっぽう、数多あるフェミニストの側からどんな人たちを選んで「見せる」のか。そこがこの映画の巧妙なところであった。この監督はさほど美しくもカッコ良くもなく、洗練されていない様子をさらしている被写体を、女性からはあえて選んで「見せて」いる。実際に過激な活動をしている人たちも大勢いるのだから、間違っているわけではないが意図しているとしたらあざとい監督だ。無意識であるなら自らが反発してきた女性にあてがわれる役所を素直に生きている。

 男性権利活動家(MRA)のメンバーには落ち着いた風情ある家でインタビューをしている様子が、彼女がソファでくつろいだ雰囲気とともに映し出される。まるで優しい父親のもとでおしゃべりをしている娘のようだ。いっぽう女性たちへのインタビューは安っぽいカフェやオフィスなどが中心で服装もカジュアルだったり垢抜けていなかったりする。過激な行動場面も多い。取り上げる内容は平等でも見せ方において妙に非対称なのだ。

 そして、監督がどのシーンにおいても美しく優雅に見えるように撮影されている。

 つまりこの映画は、視覚的にフェミニストのステレオタイプを強化した上で、そこから降りた自分を美しく見せるというストーリーに仕上がっている。だから語られている内容に私は意味を見出せなくなってしまった。せっかく面白い題材を選んでいるのだから残念だ。しかしMRAのメンバーの話しかたは、その落ち着いた装置に見合わずに早口で饒舌で落ち着きは感じられない。そこに彼らの人格におけるゆとりのなさを嫌でも感じてしまう。ドキュメンタリー映画には断片的に真実が紛れ込むのが面白い。

 学歴において女性が優ってしまった欧米では「男子劣化社会」(晶文社)が問題化し、それにつれてMRAはますます盛んになるだろう。この映画監督のように平等という価値に目覚めると女性は親切にも男性の権利擁護を支えるために活動していく。女性の権利が守られる状況がない日本では、MRAは単純に「ジェンダー平等」の文脈で受け止められるのだろう。上映館が「全労連」という左翼の場であるところがまた悲しい。気づかれていないのだ。

 ジェンダー平等はまだわからなくなるような段階からはほど遠い位置にある。個別の問題を普遍化に持っていくことは到底できず、女性の権利拡張への趨勢はまだ当分は消えることはないだろう。