新型コロナウィルスに揺さぶられる生存への価値

 きょうは国際女性デーであるらしい。ふう、それにしても新型コロナウィルス一色で私の頭のなかに、ミモザの色が入り込む余地はほんの少ししかない。この2つをつなげて考えてみたくなった。

 一番それらしい論点は「学校休校と女性」。子育て中であったら、どれほどきつかっただろう、と想像しただけで冷や汗が出る。私の住む地域では、今年度は台風災害のため長期停電と断水で学校が休業していたから、今回の休校で「またか、もう勘弁して」と感じている母親たちが多いと思う。ついでに駆り出されるのは祖母たちだろう。方法と戦略が正しいかどうかは別として、女性たちは生存のために文字どおり走り回る。感染を予防するためにマスクや消毒薬を調達するだけでは済まずに、いまやトイレットペーパーの不足にすら悩まなくてはいけない。大量買いの高齢女性は非難されているけれど、もしかすると、多忙で買い出しに行けない子どもたち家族や近隣の知人の分も購入しているのかもしれない。

 文明が進んでも人が感染症に振り回される事実は意外で、対策もさして変わり映えがない。新しいウィルスの前に人は無力である。国立感染症研究センターのウェブサイトには100年前のスペインインフルエンザで起きたことが簡潔にまとめられていて、予測に役立つ材料の1つとなっている
http://idsc.nih.go.jp/disease/influenza/pandemic/QA02.html)どうやらオーストラリアや小さな西太平洋の小さな島は、例外的にウィルスの国内侵入を遅らせることに成功したらしい。新型コロナウィルスへの対応も素早く厳格で、これらの国々へはあっという間に日本からの渡航は禁止されている。もう、私たちは感染源とみなされているのだ。

 残念ながら、同じように島国でもあるはずの日本はスペインフルで約2300万人の患者と約38万人の死亡者を出している。当時の人口が5500万人程度なので感染が目に見えた人だけで約4割。もう罹る人がいなくなるまで蔓延したということだろう。致死率2-3%程度のウィルスは宿主を殺しすぎずに、広く拡散するやっかいなタイプで、まさに新型コロナウィルスの伝播を予想させる。スペインフル当時の対策は、「患者の隔離、接触者の行動制限、個人衛生、消毒と集会の延期といったありきたりの方法」しかなかったと書かれているが、いま現在世界で行われていることそのものではないか。点滴や人工呼吸器やいくつかの装置、対症療法の薬がいくつか加わっても、所詮人は免疫によって抗体ができ回復を待つしかない。100年間の人類の科学的進歩が死にいたる人をすこし減らせたとしても、感染が広がれば国内だけで数十万人の死亡者が出る、とんでもない水準の災厄となる。

 ウィルス感染のような事象が突然降ってきた折、日本人はどうやら最も対処に向かない政権を当ててしまったように思う。この政権は直ちに経済に直結しない学問をすべて役に立たないものとして敵対してきた。感染症対策への予算も減らされてきた。非常時に科学的根拠に基づいて適切な指揮をとれる人材を登用することは叶わないだろう。こういう時に頼りになる官僚制度も半ば破壊し尽くされた。徹底的に科学的な対処をせよ、と専門家集団と政治が見事な連携を見せる中国のようにはいかない。「男の聖域」である経済活動で人が密集する状況を減少させようとせず、手っ取り早く「女子どもの世界」である学校を思いつきで閉じたり、致死率が高い中高年を守るためといって若者に行動の制限を呼びかける。ジムに通い観光地に出歩いているのは時間とお金に余裕ある中高年ではないか。ウィルスは科学に疎く「経済優先」で場当たり的な内閣に助けられてやすやすと蔓延している。

 科学に特化しすぎる冷徹な官僚制はいつも正しいとは限らない。けれども、ウィルスとの戦い、といったシンプルな事象には官僚制は頼りになったかもしれない(https://jp.reuters.com/article/virus-hadas-breakingviews-idJPKBN20S0MM)。日本社会はここしばらく官僚制の弊害に気づき、皆でこの制度を嫌い打ち壊してきた。個人では対処しようもない事態のもとで、家族は命をともにする小集団となるだろう。その時、個人が銘々に好きなライフスタイルを選択するというきれいな約束は通用しない。相方の感染は自分の罹患へと直結するからだ。放射能が降ってきた時のようにはいかない。友人知人でも感染リスクへの考え方が異なる人間は会いにくくなる。その関係の集積の果てに、都市や社会における人々の断裂があらわとなる。性別の間に横たわる溝はその1つにすぎない。ウィルスは日頃分断されている生活空間の差を乗り越え、生存への価値をどう置くのか、選択を迷う暇を与えてはくれない。