インターネット解禁の選挙だったらしい

 いつものように選挙後雑感。これほど事前の情報収集の意欲がなく、事後にも考える気力がわかない選挙は初めてだ。だからブログを書いて無理矢理にでも記憶にとどめようとしている。お仕事がらの義務感にかられて。

 インターネットによる選挙活動が増えたとして、どうなると思ったか?それはもう、メディアと社会の歴史を少しでも知る人なら誰でも簡単に予測できたことなのだ。第二次世界大戦前に登場したラジオ放送は、2つの社会で異なる影響を与えたといわれている。日本ではいうにおよばず「大本営発表」がますます社会の隅々まで均質に行き届くようになった。逆に、アメリカではラジオ局が乱立して草の根の多様な情報が行きかうようになった、といわれている。
 ということは、つまりはTwitter やらFacebookなどSNSがアメリカの政治に与えた影響とは、逆を予測すればいいのだから簡単なお題なのである。私は難しい問題のほうが好きなので、つまらなすぎた。これからますますみんなが「世間」を監視しあう均質化した社会がこの国にはやってくる。そろそろネット世界からの離脱を真剣に考えないといけないかもしれない。すでにTwitterはやめたけれど、ブログが書けなくならないことを祈ろう。

 グリーン本出版のあと、私のfacebookに大量にお友達申請をしてきたあなたがた、アルバイトの工作員ですか?そんなお仕事していて誇りを持てますか?マスメディアであたりさわりなく軽い定形記事を書きつらねている(旧友達含む)そこのあなたに、信念ってものはありますか?ないことを私はよく知っています。別に信念なんてなくてもかまわないでしょ、というのがおしゃれなポストモダン、ですか?

 よい地位を得て、上司に認められて、弱い自己肯定感を埋めて優越感を保ち続けたい人たちは勝ち馬にしかのれない。あるいは共産党のように、ものすごく強い絆で連帯しているグループであれば、いつの時代でも歯を食いしばれる。今回共産党に票が流れたことは強固な連帯にすがるような期待の現れでもある。でも、それも「結局」は仲間による強い承認が必要であるという意味で、「世間」のうらがえしであり差異がない。1人で立ち続けようとする個人であろうとしたら、この国で居場所を見つけるのに大変な苦労をする。

 無党派層って結局なんだ?
 政治不信だとかいうけれども、要するに「よくわかんない」「考えてない」「勉強してない」「どうでもいい」人だらけなだけじゃないか。周りの空気に合わせようと思っている人が多すぎ。そういう人がある程度いるほうがユルイ社会でいいと思うけれども、多すぎたら政党政治はできないだろう。若い人たちが大学に入る前にあまりにも「考える」能力をつぶされてきている。もちろん学生だけじゃない。大学ではせめてもその能力を育てたいものだと思うのに、教員がみんなそう考えているわけでもないし。
 
 学期ももうすぐ終わり。一息つく間も考える暇も奪われた日々はそろそろ願い下げにしたい。