自然派が「日本人すごい論」に傾く論理

  薬草のつかいかたや自然療法を学び日常生活に取り入れていると、その界隈でずっと気になっているのは、伝統的に集積した知恵を生かす素晴らしさを認めている仲間たちが、最終「日本人は神の国ですごい論」に漂着してしまうこと。「アメリカに占領されて洗脳されていた自分たち」、に気づいたとたんに「昔の日本は素晴らしかった」、と歴史修正主義者になる。自分たちが信じてきたことが揺らぐと別の信念にすがってしまう姿をみて悲しさが増す。先日はあるグループラインで、〇〇人たちに権利を与えるな、というヘイト発言がなされていたので、さすがに異論をつぶやいた。「異論」はそもそも書き込まれない、場を乱すから。沈黙の螺旋。伝わっているようには思えないけれど、とりあえず排除はされなかった。なぜこうなるのか自分としては謎が解けたので、記しておこうと思う。 

 〇〇人ヘイトは、個人という存在基盤が脆い社会でマイノリティでいる辛さを抱えて生きるための論理だ。「日本人なら良くないことをするはずはない」、と自分の日本人集団への繋がりを確保して安心した上で、「〇〇人だから」、とか「〇〇人に乗っ取られようとしている」、「よい〇〇人もいるが、それは一般的ではない」と考える。そうすることで自分の自我を安定させながら、他人を攻撃しやすい。でないと日本人としての自分自身も傷ついてしまうのだろう。それだけ「自分は日本人」というアイデンティティが強く形成されている。国民のなかでも多様な人がいて異論があると考えるのが難しい社会。自分たちで作っているとは信じられない社会。でも、マジョリティの日本人が寛容そうに見せているのは、日本という国が世界の中で排斥されていない安心感を保っている間で、それが失われたとたんに世界大戦時みたいに、結束して外国人を排斥しはじめる。外国人だけではない、異論を語る日本人も同じ目に遭う。

 

 個人の人格と社会の関係を追ってきて気にかけているのは、日本人の多くが柔軟に他者と混じり合える集団我(南博)をよしとして育つこと。拡張した自我が「日本人」という1つの塊を作りやすい。違う意見を持つ個人という考え方は嫌がられるので、多数派の常識から外れることをすると、自分が困ることは何1つない案件でも絡んでねじ伏せようとするのも、そこに理由がある。11人が異なる思想を持つかもしれない状態がそもそも脅威なのだ。だから、自由民主党という日本教は政策を時代によって変えながら、ひたすらマジョリティであることを目指して人気を保ってきた。多数派を優先するのだから民主主義的であるようにも一瞬見える。けれどそれは集団に拡張されている自我だから、意見の違いというより「好き嫌い」の感情次元で動く。思想を元に組み立てられている関係ではないので、崩れる時は関係性が一瞬で失われる。

 

 愛憎が文字通り自我のレベルで繋がっているので互いに嫌われないようにするために、日々涙ぐましい気遣いをしつづけなくてはならず、人間関係に疲弊する人が多い。どんな社会でも似たような状況はあるだろう。けれども、排斥や分断のされ方は独特になる。別に、「〇〇人に乗っ取られようとしている」と言わなくても、意見が異なるといえばよいのにそうならないし、起源を「自然」という深淵に持っていくことで、太古の歴史に埋め込まれた「日本」という単一民族の神話は今も生き続け、そこから外れさえしなければ、どこかに強固な仲間を得られる。

 

 全部考えが一致する人などいないという信条の私としては、自然派ながら群れずに個人として生き抜くつもりだ。孤独に大海を漂いながら生きていく道を歩むしかないとしても。