職場に潜む「狂気」のリアル

 最近、研究費を本に使うことができる身分になったけれども、これは自費でいそぎ買いたくなった本。吉田典史「悶える職場」。ダイアモンド・オンラインのコラムが面白かったので。ほとんどインタビューまんま、のドキュメンタリー。たしかに筆者のいうとおり、「低い目線で」とらえることには成功している。ただし、「俯瞰の目線」をあえて排除しすぎているからか、育児休暇問題などに対しては、あまり本質にせまっていると思えなかった。
 職場にいる社員は、なぜ悶えているのか。1番ありがちなケースとは、上司との確執や対立などをきっかけにはじまる、いじめ、なのである。それから、優秀であるあまり上司から嫉妬され、潰されることも少なくない、という(p.221)。もう一つ悶える根深い理由は、そのような状況が発生すると、同僚に同情する人はいても、手を差し伸べる人はほとんどいないことだという。(p.223)この考察は、インタビューから引き出される内容にもとづいて、核心をついていると思う。
 ふと、最近とても似た話をどこかで読んだことを思い出した。近隣の公民館併設図書館で手にとったアメリー・ノートンの「畏れ慄いて」に書かれている内容と、そっくりなのである。彼女はベルギー人の売れっ子作家で、日本に滞在し会社で勤務した経験がある。その自伝的小説は、日本のベルギー大使館に勤めていた父親の退任を待って出版されたという。実際、出版後に騒動がもちあがったようで、もと彼女がいた老舗企業が会見を開いて「当社ではこんなことはない」と言ったとか、言わないとか。悲しいことに、小説に対してユーモア返しもできないほど、余裕がないという事実を企業自ら晒してしまった。
 ***近い上司との確執→いじめ→同僚は見てみぬふり***
この歪んだ関係性の定形パターンがそっくりで、日本人ジャーナリストの「低い目線」と、ベルギー人小説家の現場体験が、期せずしてたった1月の間に、私の貧しい読書量のなかで邂逅してしまったではないか。それはもう、リアルであると受け止めるしかない。近代的な組織であるはずだと期待したい会社組織、あるいは公的な空間とは、なぜかドロドロとした感情の渦巻く場のようだ。感情は私的な空間で、という近代化論とは馴染まない話である。
 ところで、上司と確執が起きる理由の1つが嫉妬である。妬み嫉みが渦巻く会社で、能力とはどういう扱いを受けることになるのか推して知るべし。これでは、日本であらゆる組織のパフォーマンスが向上するのは難しいだろう。ああ、また似た話を思い出してしまった。教員と学生の関係にもよくあるではないか。スポーツチームの監督と選手、家族における親と子ども、あらゆる人間の関係のなかに、このシンプルな歪んだ関係性の定形パターンは発生する。
 私は、麗しい言葉で表現された組織の理念や制度をほとんど信じることができない。制度が完璧であろうと、構成員の関係性が歪んでいれば終わりなのである。この歪んだ関係性の連鎖から抜け出すためには、個人が相当の慎重さを持って、人生の各場面を再構築していかなければならないはずである。少なくとも自分は身近なところに、このような「狂気」を発生させずにすませたいと思っている。
 
 
 

ネットでベビーシッターを探さなかったとしても

 母親がインターネットで探したベビーシッターに長時間預けていて、2歳児が亡くなった事件と、その後の報道には、心揺さぶられている。なぜだろうか、考えてみたい。
 1番かわいそうなのはもちろん子どもである。でも、母親も、そしてシッターをしていた男性にもどこかで同情してしまうのだ。私が子どもを亡くす当事者にならなかったのは単に運がよかっただけであるし、これからだって、自分や保育者として送り出している学生たちが当事者にならずにすむという保障などない。幼い子どもを育てるということは、それだけで命を預かる重い仕事なのである。当事者にならないためには、とても簡単で、子どもを育てなければよく、預かりもせず、かかわらないこと。現代人、とくに「中高年男性」はそうやって、ある意味では3Kともいえる「汚れ仕事」の大半を母親たちに押し付けてきたではないか。
 子どもたちは、たとえ家庭にいたとしても、数多くが不慮の事故で亡くなっている。(http://www.caa.go.jp/kodomo/project/pdf/130509_project.pdf)死亡する数百人は記事になることもないし、誰も逮捕などされてはいない。夫や祖父母などに預けられているケースも多い。母親がみていたとしても100%安全でもない。もちろん保育所でも事故で亡くなる子どもはいる。この事件で友人、知人、たくさんのネットワークの中で子育てをしようよ、という流れに棹さされれば、ますます母親は肩身が狭くなるであろう。このベビーシッター男性の力量は未熟であったのかもしれないが、少なくとも新米ママよりも経験を積んでいる。故意に虐待をした可能性もあるけれど、「ネットでベビーシッター」の危険性問題に集中しすぎないでほしいものである。
 もう20年も前、ネットがないころに子育てをしていた私は、子どもを預け合う会「あんふぁんて」に入っていた。会が仲介するにせよ、見ず知らずの人と預け合うことが前提である。たとえ保育園に入っていても、その時間枠に入らないときに保育を誰かに頼まずに、仕事や学業など続けられないからだ。でも、情報交換のための媒体が紙の時代では、速報性がないのですぐに預け合うことは難しかった。いまなら、ネットに置き換わるはずで、利用者となった可能性もおおいにある。結局、実質的に頼りにしたのは、友だちだったり、親族だったり。もちろん夫も。いちばんひやっとした瞬間は、慣れているはずの夫が面倒を見ていて、夜自宅に帰ってきた時だった。まだ0歳だった子どもより酔っぱらった夫は先に寝込んでいたのである。夜更かしの子どもが、起きてハイハイしていた。今回の男性が、「クスリを飲んで寝てしまった」といっているのと、さほど変わらないではないか。自分だって疲れて先に寝込んでしまったこともある。「危ない」と感じた瞬間がない親などいるだろうか。綱渡りの日々を振り返ると、ゾッとする。
 仕事をしていようといまいと、子どもを育てる行為とは、命を育むという極めて重たい日々を長期にわたり続けるという経験にほかならない。精一杯やっているつもりでも、成就しない可能性があることを、経験のない人たちにもどこかで頭の隅に入れておいてほしい。そうでなくても、子育て行為に参入するハードルが上がり続けている状況のなかで、よい対処を考えなければ、この悪しき象徴的事件で亡くなった子どもは浮かばれない。一刻も早く、誰が行うにせよ、子どもを育てる時間に対して、まともな対価が払われるような仕組みをつくらなければ、同じような事件は今後も増えてしまうであろう。