「プレニテュード:新しい豊かさの経済学」読後感想

なんだかことし一年中、外の世界のことで頭がいっぱいで心が折れそうになりながら過ごしていた気がする。そんな年の終わりに、ジュリエット・ショアーの新作が翻訳出版されたので、ほぼ一気に読んだ。この人の本は修士論文書いている時にゼミで教えてもらった「働きすぎのアメリカ人」以来必ず読んでいるのだけれど、いつも心に添え木をしてくれる。岩波書店はやっぱりがんばってるな、とあらためて敬意を表したい。
時間にかかわる経済学を研究している彼女。ハーバード大学経済学准教授だったのに、結局ボストン大学社会学教授になっている人。どうして経済学からはみ出さなくてはいけなくなったのか、が本を読むとよくわかった。ずっと過剰な消費と働き過ぎを問題にしてきた彼女が、しっかりと環境問題に踏み込んだ記念すべき著作なので、それはもう期待がふくらんでしまった。という意味ではやや期待には応えてくれなかったのである。それは同業者としては安心、ということでもあり、ぜひいつかお話してみたい。遠いところにでも似たようなことを考えている人がいる、と思えると生きる勇気がわく。
本書では、GDPという経済指標の寿命がつきようとしていることがはっきり表現されているし、主流派の経済学という学問の足場が揺らいでいる様子も示されている。シェアする経済のトレンドにも触れられている。消費大国アメリカにもしっかりとしたエコロジカルな生活への流れはつくられたのだ。けれども同時に、その影響が及ぶ範囲はまだ小さいと実感させられてしまう。
話題の中心は、労働時間を短縮するということがいかにグリーンであるか、というところにある。1つには収入が減るということが直接に消費を抑制する上に、時間を使うことで資源や環境に負荷をかけない生活が可能となるというものだ。それ自体に異論はない。
ところが、ここ数年私もずっと研究してきてはっきりしたことがある。アメリカよりもほぼ唯一労働時間の長い先進国である日本では、労働時間を減らそうにもかなわない構造になっている。つまりダウンシフトができる層が少ない。低所得の人々は、まさに生存を支えるために(夫婦で)長時間労働をしており、高学歴専門職の過剰労働が問題化している欧米とは全く事情が違うのである。まるで資本主義の黎明期なのだ。よくあることだけれど、輸入してもそのまま使えない議論となるわけで、社会科学はそこがめんどうなところだ。
ということで結局は孤独に引き戻されてしまった。学問は孤独に耐えること、とある先生は言っていたなあ。それで私は孤独じゃないスポーツにひかれるのか。来月のフットサル復帰に向けて、しっかり準備しよう。

晩秋.ソウルの横顔

 こんなに近くにある国なのに、初めて韓国に行ってきた。気軽に旅行にでかける日本人で飛行機は満員。時差もないし、1時間半もすれば着く。まるで普段の東京出張みたいな気楽さで到着。それでも、ここはやっぱり外国だった。残念ながらお仕事出張なのでずっと大学に缶詰だったし、学期中だからトンボ帰りでほんとうにちらっとしか眺めていない。その記憶の断片を綴っておこう。
まず、大学の規模、豪華さ、立派さに圧倒される。ゲストハウスに泊めていただいたのだけれど、日本の国立大学にはみかけないもの。学内のレストランだって、ちょっとサービスは官僚的なところがあるにせよ、とても高級。味の方は、当然おいしいけれど、週に一度は韓国料理店に行かないと気の済まない私としては、逆に日本の庶民派レストランの方がおいしく感じられてしまう。「マッコリ」などは大衆酒だから置いていないとか。大学は上層エリートの集まる場所なのだ。まあ、気楽さ十分の日本の大学も悪くないかもしれない。
韓国の学歴社会は日本の比じゃないほどキツイ。文字通り睡眠を削って猛勉強するとのこと。結果的に優秀なのもあたりまえで、エリートであるという自信がみなぎっている。何かこう日本だと、もうちょっと遠慮がちな態度になりそうなところが、堂々と振る舞う韓国の教員と学生である。
その一方で地下鉄内には行商するおじさんが乗り込んでくるし、道ばたでは近くの川で取れたと思われる魚がたらいで生きたまま売られている。大学生は英語がみんなよくできるけれど、一歩外を歩くとインフォーメーションの人にも英語は通じない。高層マンションがまとめて立ち並ぶ地区と、平屋の商店がつづく地区。まるで上下に分かれてしまった階層を象徴しているかのよう。うーん、上を目指して登り続けないといけないのか。韓国には日本のような緩さはないなあ。だから、逃げ出してきています、という学生さんにも日本で出会ったことを思い出す。
ワークショップではワークライフバランスと出生率をめぐって議論が交わされた。合計特殊出生率が日本よりも低い韓国。その差はほんのすこし「緩さ」があるかどうかのことで、2つの国はやっぱりどこかきょうだいのように似たものを抱えて苦悩しているように思う。

日常に紛れているうちに闇が近づいている

 いろいろと心配したことがあたってしまうほうだ。でも、今度だけははずれてほしいと強く願っていることがある。いま強く心配しているのは、何事もなかったかのように振る舞おう、平穏であると信じよう、みんなで助け合あおう、という「空気」を乱す輩を「非国民」という位置取りへと追いやる、社会のシステム変化である。もう1ヶ月くらいまともに寝られていない。
きっと昔からこうだったのだろう。戦争が止められないうちに起きていった、つい半世紀前の人々も。私も日常に紛れているうちに日々過ぎている。授業の準備に、発表の準備に、と日々追われているうちにひたひたと危険な闇が増殖している足音を感じて恐怖に苛まれている。ハリーポッターで書かれているのは、これだったのか。
それぞれの持ち場で、仕事や日常の中で踏ん張るしかない。でも、闇の力は強力なので、からめとられる。流される。もう何年も前からそんなことばかり考えて生きている。みなさんは、どちらの側で生きていかれますか?私は、最後の一秒までハリーポッターの側にいます。それはたぶん大変なことだし知恵をしぼらないと周りにも迷惑がかかる。そうならないように、いまから布石を打っておこう。縁を切りたい方は早めによろしく。
検索の場にも何かが介入している。反原発の関係者の固有名詞など特定の個人のキーワードを入れるとへんな固まり方をする。情報がいつまでネットで読める状態であるかすら、わからない。発信できなくなる日が来るかもしれない。
若い学生さんたちと接することが多いと、余計憂いてしまうのです、将来を。彼らはみな素直でいい子たち。闇を操る人々にはこれほどありがたいことはない。心優しい人がこんなにたくさん溢れている。震災で傷ついた人を癒そうと多数の人が実際に行動をしている。なのに、なぜ心配するのか?そんな行動をしない私が。
心優しい人が多すぎるから、心配なのです。重大なことが起きてから、みんなで慰めあい、美しく散ることを受け入れてしまうこの社会のシステムを、目の前でみせつけられるから。くることがわかっている地震や、原発事故を予測して避けることをしないで、事後に嘆き悲しむことを繰り返す社会の一員に、すんなりととけ込むことを、私はしたくはありません。常に未来を見て動こうと思うのです。

ジョブズ亡き後の世界を始める

なんとなくずっとappleユーザーである。私が選んで買った訳ではない。同居人がかれこれ20年ほども前に初めて買ってきて借りることから始まった。ただ、なぜか学生時代から知人にMacユーザーがいたのでそのすごさは知っていた。といっても、高くて手がでるものじゃなかった。SE30,ibook,G4 cube, macbook,mac book air...他にも手にしたものがある。ああ、すごい投資額。もちろん、iphoneも忘れちゃいけない。所属先の大学院の部屋も、なぜかmacのネットワークだったし。当時はかなり珍しかったはずである。
でも、ジョブズをカリスマだと思ったことがなく、そもそもあまり関心がなかった。名言集というものも今日初めて見た。そんなに、面白いかな?なんだか普通の言葉にしか聞こえないんだけど。あらためて彼が神格化されていたことに気づいて驚く。彼ほどそういう言葉が似合わない人もいないだろうに。
私はいい製品が欲しかっただけ。だけれど、いい製品が売れる、という状態は意外と起きないものだ。MS-dosの世界からWindowsに移行した時、appleユーザーはみんな思ったはずだ。いまさらなにやってんの、と。でも結局Winが席巻した。職場が、学校が、周りがそうだから。NECとdocomoがやっぱり安心感を与えるらしい。親とはその話題で険悪になったこともある。結局、いまでも世界はWindowsのままだ。しかしiphoneはどこにもなかったから、最初日本で発売されなかったとき、本気で移住したかった。いまは、電子ブックのコンテンツがない状態を、ただ耐え忍んでいる。アメリカ人になってkindleで暮らしたい。Reader もいいんだけど(ipad はあまり食指がわかない私)。もう日本語の本を買うのやめようかな、と思っても仕事柄無理です、さすがに。でも、どうせ少したったら入ってくるはず。メディア業界の抵抗はいつまでも続かないことを、歴史は教えてくれる。
少しだけ彼の地がうらやましいところはある。ジョブズが生まれおち、華々しく生きることに成功したアメリカという社会が。いまもきっと世界のどこかで新しいジョブズが誕生しているはずだ。そのことに世界はまだ気づいていない。誰も気づかない時に認めて育む。ジョブズがすごいというより、認めていった周りの世界がすごい。その人たちがいなければ、私は彼の製品を手にすることもなかったのだから、心からありがとうといいたい。
この国では、人がやらないことをしようと思うと、たぶんアメリカより大変で文字通り生きていくだけで苦労する。いまきっとどこかで日本のジョブズが青息吐息。ジョブズ亡き世界を嘆いている暇なんかないはず。私は6日が誕生日。新しい世界を始めるにはいい日になった。

憂愁の8月:なでしこにもう素直に喜べない

しばらく書けなかった。時間がなかったけれどそれだけじゃない、気が重いからだと思う。この社会の先行きを深刻に案じている。震災直後からずっと関東大震災後のような嫌な社会の流れが再び発生してしまうのではないか、という不安を抱えてきた。なでしこの優勝で、その流れを払拭できるのではないかと期待をしていたけれど、逆だったかもしれない。特に反韓流デモの発生には衝撃を受けている。NHKの「なでしこ」予選にむけてのはしゃぎぶりにも、ついていけないものを感じる。
7月の終わりからしばらく学会のために、イギリスにでかけた。帰りにちょっと息抜きができたし、国外にいる間は夢もみずにぐっすり眠れた。それなのに、もどってくるとしょっちゅう、すっきりしない夢をみる。震災前もずっとそうだった。
言葉狩りの足音が聞こえる。もうすでに削除やアクセス不能のウェブもあるのではないか。マスメディアの自主規制だけではない。善良な市民の熱い思いが息苦しさを増幅させている。被災地域の人々の感情を少しでもさかなでする可能性があると判断される発言は、自主規制の対象となるし、少しでも発せられたら血祭りにあげられている。
被災者が「風評」で苦しんでいるという構図をつくり、生産者を守り安全にこだわりすぎる消費者を排除する。得をするのは賠償責任を持つ、国と東京電力だ。「当分住めない」とか「脱原発を」と素直に発言してしまい思う通りにならない首相は引き下ろされ、最も自分たちに都合がいい首相にクビをすげ替えてしまう。官僚たちは本気で権力保持のための最後の闘争をしかけている。政府のいうことは、もはや6割近くが信用していないというのに。革命の経験のない市民は、彼らに足下を見られている。
鬱屈を外国に向けたときだけ、日本人は互いに非難し合う必要がなくなる。フジテレビへの抗議デモは、やり場がみあたらない鬱憤をぶつけるサイテーの方法だ。なぜこうなってしまうのか。国民がみなお互いを思いやらなくてはいけない、と暗黙の了解をだれも破ることができないからだ。残念ながら、なでしこの優勝は「日本社会が1つになって、いまこそがんばろう」という機運を極限まで強めてしまった。将来振り返った時、ここに「よい」ターニングポイントがあったといわれるように、自分ができることを考えたい。

なでしこの強さの秘密はちょっぴり辛い

去年の男子ワールドカップ決勝では、オランダvsスペインが実現してスペイン勝利。今年はアメリカvs日本で日本勝利。願うことが簡単にかないすぎで怖いですよ、最近。女子のサッカーはいきがかり上ずーっと見てきたから、格別感涙もののはず。うーん、でも昨年のスペインの優勝ほどに、日本の優勝には手放しで喜んでいない自分がいて、ブログ書いてからじゃないと何も手につきそうになく、朝から書き込みしてます(笑)。
チームスポーツはわりと女子の方が日本は強いんですよね、ほかの種目も。サッカーはなんといきなり頂点に到達しちゃった訳で。(男子は私の生きているうちに達成してくれることを祈ってます)。ほっぺたつねりますよ、さすがに。朝早いしまだ自分が寝てるのかもしれないと瞬間的に思ったり。頭がぐらぐら揺れてる。
日頃授業でも「どうしてだと思う?」とジェンダーがらみで話してるんだけれど、女性の地位がめぐまれていないことにたぶん関係している。サッカーでいえば、アメリカでは子ども時代、女子の誰もがする手軽なスポーツ。大学には奨学金があり、プロコーチのもとで教わる。代表選手は基本的にプロリーグ所属です。日本だと代表に入ってる人でもプロ契約でない人もいる。なでしこリーグでさえ、費用が持ち出しになるチームだってある。まして給料もらえる場所はどんどん消えてる。いまは、比較的めぐまれていたころの余韻が選手層にもなんとか残っていますが、経済危機でTASAKIが消え、東電広告等のマリーゼも消滅。日テレもプロ契約消滅。これからどうするんだろう。海外いくしかないかも。
少女の頃はサッカー人口が少ないから男子と一緒にやることになる。そうするとやはり並ではすまない苦労もあったはずです。沢の頃はまだ公式試合にも出られなかった。その後認められるようになり、選抜にも入れるように制度が変わってきた。若い選手はそこで育っている。でも、苦労をかいくぐって続けてきても、先にあまり報償がない。昔ゴルフやってる誰かが「なんでサッカーなんてもうからないスポーツやってんのか、信じらんない」っていってましたね。
そうなんです。結局「お金稼いで一人前にならないと」という圧力は日本だと男性のほうにより強いので、その環境下でも女性だからこそ続けやすいんです。男子サッカーはだいぶましになりましたけれど、日本のチームスポーツの環境はホントに厳しいですから。しつこく、粘り強く、あきらめず、って試合だったけれど、まさにそういうド根性ある人しかそもそもサッカー続けられていない。ほかに少しよさげな職業など選べる人たちは、年代別代表経験があるほどでも、大学卒業年齢なるとキッパリ辞めてしまったりするのを見てきた。そういう発想がなでしこの人々にはまるでなく、とにかくサッカーが好きでそれに集中し、日々を捧げている。アメリカだとそうもいかないでしょう。サッカーは、むしろ人生をよくする手段、っていう面もある。待遇が良いから人が集まりかつ強くなる、ってことで、栄誉のためにじり貧でも続けるという人はそう多くない。ほかの国もそういうところがある。日本では、女性は他の職業世界でもたいして恵まれていないから、この厳しい待遇でもまあいいや、とかえって感じられる。
でも、今回活躍した日本の選手たちには金銭的にも、環境的にも恵まれた海外で経験を積んできた人が多い。さすがに自前のシステムでは限界があるということ。今シーズンから日テレが経営難からついに沢、大野、近賀たちのプロ契約を続けられず、INACに移籍することで、組織連携のピースがもう一つ埋まった(具体的には川澄との関係)のも、皮肉でした。結局ベレーザ的なるものが、あちらにも移植されたわけだから。岩清水はよい待遇とはいえない環境でも残ることを選択したのでしょう。なでしこサッカーは連携が必須なので、選手がスタイルを共有していないと成立しない。一方、アメリカは個であれだけ圧倒しながら、連携が未成熟で自滅していた。(攻撃しているときに、なぜかボールめがけて重なってしまうんだから、もったいない!)
待遇を底上げすれば強くなるわけではないのはわかります。厳しい環境はたしかに人を鍛える。いやー、それでもあの寂しい観客の状況を知っている身としては、複雑。男子でもリーグに人はそんなに入らないから、しかたがないとはいえ。(実際自分だってあんまり行けていない。名古屋にはなでしこリーグ所属チームがそもそもない!)さあ、これを機にぜひJリーグは女子チームを作ってください。あるいは、J2少し減らしてもいいから差し替えて(失礼!)。でないと、ほかの国が底上げされてきた時には、じり貧になり先々ここが頂点だったってことになりかねません。この感動が将来にもまた味わえますように。。。

あざとい節電キャンペーン

もう、電力会社に少しでも余分にお金を払いたくないから、アンペア契約を下げた。「節電に協力しなきゃ」ではない。私は引っ越すと最初にかならず契約を下げている。これで入居時の設定より半分となった。電気はそんなにもとから使う方じゃないけど、私はエアコンを我慢する、とかそういうことはしないから、ほどほどにね。
ようやくNHKにも「アンペアダウン」を呼びかけるNGOの話題が登場していたけれど、いまだにマイナーなまま(www.sloth.gr.jp/a-down/)。30年前からエコロジストには知られた方法なんだけどな。アンペア契約を下げると、電力会社はそれだけ普段から発電する設備を保有する根拠を失う。契約アンペア以上は電流が流れずに、各戸が停電するだけだからである。本気であれば、地域で大規模停電が怖いといって計画停電の脅しをかける前に、「おたくの契約アンペアを下げてはいかがですか?」と契約者に知らせることもできるはず。つまり大規模停電が起きる前に、小さな停電で止めてもらえばいいのだから。余分なアンペア契約を結んでいる人、事業者がたくさんいるから雪崩をうってアンペアダウンしたら、かなりの影響があるはず。でも、政府も電力会社も絶対そんなこと言わない。
昔から「でんこちゃん」のキャラクターを使うなど、電力会社は地球のために節電をしましょうキャンペーンをしてきた。いまも必死でアピールしているかのように見せている。嘘をつくのはいい加減やめてほしい。「原子力発電所で電気が発電できなくなると大変ですよ」「産業界はなりたちませんよ」「一律15%削減ですよ」と訴えることで、なんとか原子力発電の既得権益グループが延命を測ろうとしている。読売新聞は以前からカモフラージュをしつつ原子力発電推進報道をつづけてきたが、馬脚を現してなりふりかまわずに、「原発停止は日本経済の危機」論を煽り始めている。ほとんどのマスメディアは、この勢力の手先としてしか振る舞えていない。NHKの今日の原発討論でも脱原発派と推進派がいつものようにすれちがっていた。つまらなくて途中で止めた。NHKさん、まずは、「エネルギーの3割が原発」という間違った説明板つくらないようにすることから始めてください。無理無理動かして「電力の3割」を確保していると宣伝しても、1次エネルギーで考えるとせいぜい1割ですよ。いいかげんに勉強して区別つけてくれ。もしかしてわざと間違えた?だとしたら罪は重いなあ。いや、だからなんとでもなる範囲なんです。少し勉強したら誰でも理解できるから。環境統計集に少し古いけど「わが国のエネルギーフロー」http://www.env.go.jp/doc/toukei/contents/index.htmlっていうわかりやすい図がある。3割捨てている状態を減らす技術もすでに整っているんだし、再生エネルギー導入するのか?って大騒ぎしなくても、1割くらいすぐ減らせるって。この夏に猛烈に進む自家発電設備(コージェネ含む)導入で、いらなくなっちゃう前に、推進派があせって節電キャンペーンを煽ってる。はっきりいって迷惑。みんな素直に従い過ぎ。発送電分離せずに、高いお金を課して自家発電つくらせないことにして、一生懸命高い電気買わせられてる。消費者もいい加減怒ろうよ。
原発がほかの発電所とすごく違うのは、燃料費がほとんどかからないこと。だから、つくったらなるべく長いこと動かすと儲かる。だからって老朽化したものを酷使していいのか?遊園地なんかも設備つくったら動かし続けた方がもうかるけれど、それだとお客さんが来なくなる。原発はお客さんに見せるもんじゃないのをいいことに、動かし続けている。市場原理が全く働いていないのだから、規制する人たちが目を光らせないとだめなのに、事実上お友達でやってるだけ。
これじゃあ、どうしようもないのにもう「安全宣言」で動かすの?そりゃあないでしょう。首相の言っていることは最低限の話。なのに、マスメディアは相変わらず「ブレる」ってリークしつづける「経済産業省+財界+政治家」と首相周辺がせめぎあっているのでしょう。閣内不一致、ということを指摘しつづけるより前に、記者クラブに出入りして官僚となれ合って、当事者気取りを続けるのをやめてほしい。
規制でがちがちにかためて人々から選択肢を奪い、そして規制で守ってもらっているのにそのことを自覚もせず、自分たちが国を守っているんだというお門違いのナルシズムに浸る人々が、私は心底嫌いである。

祝!なでしこジャパン決勝トーナメント進出

久しぶりに気持ちのいい勝利。メキシコに4-0なんてさすがにそこまでは期待していなかった。うれしく楽しい気持ちでいっぱい。遠距離通勤帰りの疲労も吹っ飛びました。まあ、相手も若いしあまり強くなかったかもね。でも、ずーっと見てきた女子のサッカーだもの。ちょっとウルウルしてしまう。
パスワークはまだ完成系には至っていないけれど、スペースにワンタッチでつないでいくサッカーを女子であれだけやっている国はほかにない。ようやく女子サッカー界のバルセロナといわれるなでしこスタイルがみられたかな。男子のスペイン代表みたいな盛り上がりの中で優勝できることを祈ります。(パウル君2世を探していると言ってましたけれど.予測はどうかな?)
実際、バルセロナが中心となってサッカーのスタイルができているスペイン代表と同じ状況なんですよ。だって、ほとんどみーんなベレーザ関係なんですから。スタイルがそのまんまベレーザ。いまは所属がバラバラだけど。あれはわかりあってる人たちでやらないとできない。クラブのサッカーが基礎にあるから呼吸があそこまで合う。それに、代表の顔ぶれも固定化していて長いこと互いに知っている人が多い。岩渕だって普段から沢とやっていたわけで。こういうのは日本男子サッカー界は拡大したことでもうなくなってしまった。
だからこそ、すごく先行きは案じてしまう。バルサとちがって待遇がますますひどくなっているベレーザからは、今年から4人もの代表クラスの選手が移籍したし、福島のJビレッジで東京電力マリーゼは消滅。なでしこリーグの多くの選手は、アメリカのセミプロ以下の待遇かもしれない。ヨーロッパやアメリカで、お金をもらわずに代表クラスの選手がプレーしているという状況は、信じられないと思う。すでに何人もの若い優れた選手がサッカーやめたのを見てきた。男子がヴェルディのサッカーを中心にやっていた時代が終わって、どういうスタイルでやるのかずっと模索しているように、これから厳しくなるかもしれない。
いまサッカーを続けている選手はかなり根性入っている人ばかりだけれど、裾野は広がっていない。昔は日本の方が待遇がよかった時代さえあった。海外の待遇がそこまでよくなかった時代には日本と条件に差がなかったけれど、これからはいろんな面で格差が出て来てしまうのをとても心配している。
とにかくいまは、蓄積がある上に若手とベテランがうまく融合できた幸運な時代。日本の女子サッカーに歴史をつくってくれることを期待しています。

下水汚泥を焼却するとセシウムが拡散する

ここしばらく引っかかっていた問題が1つ解けた。今日のNHKで報道された下水汚泥の焼却施設の放射能汚染が重要なヒントとなった。しかし、テレビでいわれなかったところに、ほんとうの懸念がある。汚泥を燃やし続けているということの怖さである。NHKはあえて指摘しなかったのか。
最新鋭の下水汚泥焼却施設では850℃という高い温度で脱水された汚泥を燃やす。セシウムの沸点は690℃なので一度気体になってしまう。そのあとに、排気ガスからセシウムを取り除く工程が入っているかどうかは、公開されているプラント工程表ではわからなかった。だが、セシウムは通常想定されていない物質だから、100%補足されているとは思えない。一連の報道は焼却灰の放射性物質のことばかりを気にしているけれど、燃やされて出て行ってしまっているほうも、心配してほしい。このような施設は、都内各所にある(http://www.gesui.metro.tokyo.jp/gijyutou/jg22/jigyougaiyou22/kubumap.pdf)江東区の東部スラッジプラントは大きくて、ここに運び込まれている汚泥もあるようだ。
ちなみに、セシウム汚染が話題となった足柄茶産地のごく近くにも、焼却施設がある。ホットスポットが明らかになった東京都の東部や千葉などの汚染も、汚泥の焼却施設と関連があるかもしれない。雨が空気中のちりやほこりを集め、下水道を通ってせっかくまとまった(つまりエントロピーが下がった)状態が作り出されたのに、またそれを拡散してしまっている。頼むから燃やさない、リサイクルしないでガラス固化したりして埋めてほしい。
危ない物質は散らばったり拡散させてはいけないという環境汚染予防の原点に戻らないと。残念なことに、リサイクルはやりの時代は毒物を循環させやすくした。結局こういう物質を集めてしまうのは生物。お茶が新芽に取り込み、食物連鎖を経て人の体にも移行する。その結果体に響くことになる。このままではセシウムはぐるぐる循環を続けてしまう。東京都は、お上に基準などの要望を出してる場合じゃない。自分で判断してほしい。責任をとるリーダーの"ふり"をするのだけがうまい知事と副知事にはどうもすぐには期待できない、となると緊急に自衛が必要な地区がいくつもある。

震災の余韻に読んだ本:「失敗の本質」&「三陸海岸大津波」

震災後しばらくは物を読む気がどうにもおきなかった。圧倒的な現実を前にすると言葉がいつもにまして空虚に飛びかう状況に耐えられない。かといっても、自分もこうやって言葉を紡いでいるわけで。手に取る気がわいた本が数冊。最初がなぜかポールオースターの小説で、次に月並みながら「失敗の本質」と「三陸海岸大津波」。どちらも、書かれていることとほぼ同じ内容がリアルタイムに目の前で繰り返されるので、つい付箋を張ってしまいながら読んだ。最後に深いため息をつく。あー、これが文明開化以来築いてきた私たちの社会の姿なのだ。
「三陸海岸大津波」は作家により調べられたドキュメンタリー(風)読み物である。丹念に拾われた物語は、最後に2つの大津波を生き延びた老人の、楽観的な言葉で締めくくられていた。明治、昭和前半に受けた甚大な津波被害に対して、人々は十分な防護を固めている。防災無線は発達したし、巨大な防潮堤も整った。訓練や知識も行き届いている。したがって、次に津波が来ても人々はめったに死なないだろう、と。彼は「科学」を期待できるものと感じていたという点で、戦後日本人を確かに象徴している。
悲観的な予測で締めくくられた物語を人は好まないことはわかる。けれど、作者が本文で繰り返し示唆している事実と、最後の締めくくりはどこかズレていた。作者は50mの津波が来る可能性を認識していたのに、聞き取りをした人々に寄り添うあまり、厳しい目線で締めくくることはできなかった。作家がそうあることは、罪ではない。
しかし、日本軍の敗戦に至るまでに繰り返された「失敗」の数々には明白な罪が見つかる。判断を要所要所で誤ることでたくさんの人命が失われた。正確な状況判断をしたと思われる人が発言しても、その意見はとおらなかったし逆に地位を追われたりしたことも悲しみを誘う。予測能力はなくても根性論で情にほだされる声の大きい人の意見が通りつづけた結果、日本は過酷な敗戦を迎えた。失敗しても、「熱意がある」人たちの責任が問われることもない。情報を集めることと、いまでいう後方支援(生活や食料など確保する兵站)に、日本は問題を抱えつづけていた。世界の日本人ジョークでも、最弱の軍隊は「日本人の参謀」とあるように、兵隊(いまも福島の現場で「戦う」人々)がいくら優秀でも、戦いには勝てない。著者たちは、米国のように失敗を生かす「科学」をちゃんと打ち立てれば大丈夫と考えている節がある。
結局、この震災による津波被害と原発事故とは、敗戦後に日本の問題を「科学」が足りなかったせいだと捉えた戦後の知識人に厳しい結論をつきつけた。相変わらずその延長線上で物事を捉えようとする人たちが多いことにうんざりだ。
ところで、水産庁は最近ひっそりとホームページでの問題表現(4/1付けブログにあり)を書き換えたようである。責任はこうやって曖昧になっていく。いくら「科学」的であろうとしても、情報やデータを使いこなすことがヘタクソで、現実に応用できないならば、いっそ「呪術」と「言い伝え」の世界にもどってはどうか。井戸の底を覗いて水がなくなっていることを確認し、高台に即刻避難したおばあさんの知恵は、工学者の津波予測よりも、ましだったのかもしれないのだから。

ひさびさの東京行き雑感

 授業がはじまって震災後初の東京行き。いつもより数週間遅れて始まったので、2ヶ月以上あいたことになる。噂に聞いていたとおりの暗い駅の照明と、少なくなった賑わいにも、着いた当初は敏感だったけれど2日目にはもう慣れてしまっていた。人間ってすぐ環境に慣れて、それが日常になるのかな。ただ、宿泊先が後楽園遊園地の近辺なので、電気が消え、いつも聞こえる絶叫もなく寂しく感じた。これは震災の影響ではなくて1月末の死亡事故によるものだという。現在の街の暗めな雰囲気と妙に符合しているところが悲しい。
 街はいつものように動いているのに、地方や外国からの客がいない。これが大都会の雰囲気をすっかり変えている。いろんな見知らぬ人が遠くから来て、いつもごった返している、これが東京なのに。いまは落ち着いた地方都市と似たような雰囲気になった。残念だけれど、そうなった時東京という街の魅力はなんだろう、と考えるとあまりよくわからなくなる。電車の運行本数が減って生命線である利便性が失われ、電車は込み合ったまま遠距離通勤し、止まったエレベーター前の冷たい進入禁止テープを横目に階段を歩かされる東京。
 あらかじめ暗い照明がデザインされているならカッコいい。でも、一つおきに引っこ抜かれた蛍光灯と照明の消えた看板は、しみったれた雰囲気を醸し出すだけで嫌いだ。それなのに、電気が消されたその通路に、自動販売機はそのままぴかぴか光を放っている。シュールである。ここには、何から電気を使う方がよいのか、皆で知恵をしぼりあった思考の痕跡などない。暴露系の週刊誌の吊り広告の横には、「がんばりましょう、みんなで心を一つに」調の広告が張られている。電車に乗っているだけで、精神がばらけそうである。
 ところで、内閣府参与だった東京大学の教授が辞任した。全文を掲載したNHKの科文ブログは結構がんばっているようだ(http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/200/80519.html)。このような学者らしい人がいても、従来から原子力行政を司ってきたムラの人々の決定が結局はとおってしまう。幼い子どもたちは年間20ミリシーベルトという信じがたい基準設定の被害者になる。繰り返されてきた公害問題の既視感。雨が降って土壌の放射性物質が流されるどころか、また線量が増えているところも多い。圧倒的に足りない海のモニタリングを補ってほしいのに、グリーンピースの船には許可が出ない(http://www.greenpeace.org/japan/ja/)。
 祝日ついでに国立新美術館に行ってシュールリアリスム展を見てきた。でも何の感情もわかない。現実の方がシュールな時代に、きれいに壁に飾られたダダイズムの展示に意味など見つけられようもない。いまを映す感性はどこか別のところに生まれているはずである。もしかしてこんなところかも(http://www.asahi.com/national/update/0502/TKY201105020282.html。最近、ポール・オースターの小説だけはなぜか心地よい。起こりそうもない偶然や出来事が次々に生じる彼の小説は、私には日常の現実と重なって、貴重な癒しの時間を与えてくれている。

感情の嵐が渦巻いている

 (推敲した版)やっとJリーグが再開した。日常が戻ってくるようで少し気が晴れる。ベガルタ仙台が逆転勝ち。監督が泣いていた。それでも、なにかこう、人々の感情の行きどころがサッカーで勝ったり負けたり、というまっとうなところに戻ってくるのはいいな、と思う。
東日本大震災以来、社会の隅々にまで感情がほとばしっている。寡黙な東北の人々にあっても、感情が押さえきれない出来事であるのは当然ながらも、世間は被災していない大多数の人、私も含めてあまねく刺激される仕掛けだらけ。街のスーパーにいけば目にする募金箱、テレビの広告、番組ではすべての出演者が善人となり、有名人たちは巨額の寄付を宣言する。いつのまに私たちはこんなに寄付をする国民になったのだろう。
 その一方で、避難者が東京電力の社員たちに罵声をあびせて土下座と謝罪を要求
する様子をメディアは傍観者として映し続ける。いつのまにか東京電力の社員の家族、子どもまでもがいじめの対象となってしまった。そして福島からくる作物や家畜、ついには人間までもが放射能汚染源のような扱いをされている。スーパーマーケットには東北近辺の食材は入らないのに、直販や物産展では人気であると報道がされる。激しい善意と裏側での陰湿な差別。私たちはジキルとハイドなのか。
震災孤児の里親になりたい、という人も多いと聞く。ネット掲示板にも寄せられているその質問に、阪神大震災で自分も親を失ったという人がよせたコメントがずっと心にひっかかっている。「直後にはとても親切にしてもらえるが、その気持ちは続かない」という内容だったと記憶している。その人は、当初の盛り上がり後の人々の忘却に傷ついたという。
ここ10年というもの、虐待児が増えて施設が満員でも、里親になりたいと希望する人は不足してきた。一人親の貧困率が先進国でぶっちぎりNO.1だと明らかになっても、親を失った子どもを支える「あしながおじさん」募金額はむしろ減り気味だった。(親を失った理由で差別しないこの団体には、ささやかな寄付をしたいと思う。)津波で家をながされた「ホームレス」には優しいのに、ふだん通勤する道に寝ているホームレスは無視されつづけている。
地震被害のためによせられた募金が原発事故の避難者にさりげなく配分された。それは目的が違うはずだ。電力会社がまず賠償責任を負うものだろう。使い道を見定めないうちに寄付をしなくて、心底よかった。原発避難者には別に支払われるものがあるのだから、あとで無用な怨嗟を招かないためにも、義援金をまわしてはいけなかった。
そう、私たちは大災害などのイベントにとても涙腺が弱いのである。これも結局のところみんないっしょに、の「ノリ」なのだ。しかも、とにかく平等に配分したがる。決定の批判と責任逃れのためにその場の一律平等が残したもやもや感が、どこかで吹き出す怨嗟となる。怒って、人のせいにして、そのうち忘れて終わり。でも、誰にその怒りをぶつければいいのか、本当はよくわからないのだ。どこに向かって戦い続ければこの無限ループから出られるのだろう。
学生運動が敗れ去ったあと、見事に非政治的な時代に学生だったので、ふと官庁に入ってみたら原発政策に反対できるのではと公務員試験を受けていた。もしそのまま公務員になっていたら資源工学出身の私はいまごろ「保安院」所属だったかもしれない。結局入る前にアウトする道を選んだが、入庁して原発に反対を貫きながら生きていけたとは想像できない。
正しい答え(=原発は必要なもの)は最初から決まっているのが官庁だ。しかも、なぜそう決まっているのかはよくわからないのである。答えに合わせて精緻な回答をつくる。入試と一緒の思考回路である。官僚に感情的に怒ったところで無駄である。まともな感覚を備えている人は入庁しないし、まず出世していない。彼らに重要な意思決定や判断を頼らなくてすむ仕組みをつくるしかないのだ。まずは、私たち一人一人が一時の感情から距離をおけるようにならなくては、足下がすくわれてしまう。そして、たとえ厳しい状態におかれようと責任を誰かに押し付けずに引き受けて生きること。ループが少し揺らぐことを祈りながら。

3.11後のメディアを振り返って

あの日からもうすぐ1ヶ月。これほど心に疲れが溜まる日々は経験がない。何事も平常にすぎていく西日本にいながら、なんでだろう。当事者でないからこそ、出来事はメディアの中にしかない。これがひどく精神を疲れさせている。
ここ1ヶ月私がしようとしたのは、あらゆる方面から断片的に入る情報を急いで集めて、できるだけ科学的な根拠で積み上げられた現実を自ら再構成してみることだった。(普段学問してるのと同じだけどペースが100倍速くらいの早回し)そのために、多方面の情報にアクセスすることになった。Twitterもついに始めたし。でも、本来安心して情報の分析を託せる専門家がいたら、自分でそこまでする必要もないのである。なかなかそういう分析に出会えない。それで自分でやることになる、結果として疲弊したというわけだ。
振り返ってみれば分析対象が震災と原発になっただけで、言説の布置はいつものかたちが再現されていた。大新聞やテレビは大本営発表に徹し、週刊誌はその御用メディアをたたく。同じ系列の会社どうしで裏と表、あるいは本音と建前をつかいわける。インターネットはどちらかといえば裏に強いけれど、流れるニュースは表が中心で、Twitterでコメントつきで増幅される。文部省を中心に流される膨大な放射線測定値などの一次情報もある。
結局、断片的に積み上げられた事実とデータはかなり出回っていても、しっかりと考察された論評が見当たらないのである。フランスでは、なぜかジャックアタリが原発事故について語っていたりするのに。いきおい海外メディアのコラムやテレビなどを直接見ることになる。ただ、彼らには日々日本語で出回る事実とデータがすべては届いていない。情報量不足なので今ひとつ真実に迫っていないということになる。国内の有識者たちの骨のある分析がもっとタイムリーに聞きたい。残念ながら古くからある原発資料情報室や環境系NGOはこの好機をそれほど十分に生かしていたようには思えない。
人々の行動は、メディアの布置にそのまま対応していて「がんばろう日本」への協力を惜しまずに節電に協力し落ち着いているようで、政府の発表はほとんど信じることなく放射性物質の被害をさけようと、東北近辺の食材には手を出さない。つまり二重なわけで。ちょっと悲しくなるほど日本人の反応の様子を描いているコラムもある(http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/fl20110405ad.html)。
 徹頭徹尾、専門家の議論はすれちがっていき、深まらず噛み合ない。だから思考の置き所がない。自分で最初の一歩から組み立てて行く以外には。
 そして、ついに官僚はネットのプロバイダーにデマや噂と判断した情報を削除するよう要請したたらしいhttp://matome.naver.jp/odai/2130183431868236701。正しいのは誰だというのか。私は水産庁の「デマ」に抗議したけれど未だ変更なし。昨日は外務省が海外メディアにも、申し入れをしたようだし、言論統制はさらに強まるだろう。少しペースダウンしながら、気長に追っていくしかないのだろう。

海の放射性物質を注視しなくては

  陸の放射性物質はだいぶ公開されるデータも整ってきました。IAEAの勧告も出たりしていますし、議論にさらされるようになっています。ところが海のほうは相変わらず手薄なままです。東京電力が放水口付近で測っている値が日に日に高くなっている報道はありますが、文部省が24日から発表しているデータは不十分で、ほとんどメディアでもろくにとりあげられない。(http://www.mext.go.jp/a_menu/saigaijohou/syousai/1304148.htm)。不明な点を文部科学省に電話で聞いたら、結構簡単につながり丁寧に対応してくれました。調査は委託しているのでお任せになってしまっているようですね。でも、委託先は(独)日本原子力研究開発機構、原子力村のお仲間じゃないですか。だからかなあ、プレス発表資料がなにか変。一部のデータがすぐ公開されていなかったですし、グラフも高い値のところだけ線を引いていない!さっきようやく公開され、ニュースにも小さく流れました。福島第一原発の南に50km離れたポイントで、ヨウ素79.4bq/L。セシウムが7.24bq/L。十分に高い数値です。そもそも30km以遠10カ所モニタリングではすくなすぎますが。
 しかも、水産庁が信じられない発表をしており、そのままニュースになっていました。(http://www.jfa.maff.go.jp/j/kakou/Q_A/index.html)「セシウムは、カリウム(野菜や果物に多く含まれる)と同じように、魚の口から入り、えらや尿から出て行きます。このため、たとえ放射性セシウムが魚の体内に入っても蓄積しません。」と書いてあります。これは誤解を生む表現だからやめてください、と電話しました。セシウムは人間の体もそうですが、魚の筋肉、つまり食べる部分に取り込まれます。海水魚の濃縮係数はCsで最大100倍くらいという値が推奨されているので、もしCsが5bq/L(=kg)の濃度だとするとそのあたりの魚は、500bq/Kgとなって、暫定基準値なみになってしまいます。生物濃縮に詳しいHPはここにあります。(http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_Key=09-01-04-02)
 今回の原発事故で流れている放射性物質の核種の数と量は半端なもんじゃありません。すぐに垂れ流しを止めないと、水俣病のように長期にわたって苦しむことになってしまう。米国やフランスからの援軍も来たようなので、少し期待値があがりましたが、メディアと専門家のみなさん、もっと監視の目を光らせてくれないと、かなりまずいですよ。

海から陸へ循環する放射性物質

福島原発の爆発事故の後しばらく、陸から海の方に向かって風が吹いていた。「ああ、よかった」とうっかりしていた自分が情けない。海に流してしまえばとりあえずは安心、なわけないんです。環境を学ぶとき海と陸の物質は常に一体となって循環していることがイロハ。関東圏の水道が汚染されたのは、海からも雨雲に乗って放射性物質が運ばれたことも関係しているはずです。
放射性物質入りの水や大気からの降下物が海に落ちると、しばらくは表面を漂っているわけですが、低気圧が近づくと、ミクロな海塩粒子が核となり、海から蒸発した水蒸気とともに雲が発生してやがて雨を降らせます。東北の近海では北から親潮が流れていて関東沖あたりで黒潮とぶつかるので、海流からみると、放射性物質はあまり北にいかず、むしろ関東の方に近づいてくる感じです。この季節はぐるぐると福島周辺で回っているみたいですね。(http://www.data.kishou.go.jp/kaiyou/db/hakodate/dbindex.html
 すでに、福島原発から出た放射性物質は、チェルノブイリ原発事故でばらまかれた量の10-50%に達しているという試算が出ています。なお封じ込めのめどはたっていません。結局、水蒸気が出続けている間はずっと汚染物質が拡散しつづけているわけで、冷やすために水をかけたら、流れて海に入ってしまう。圧力容器の爆発を免れていてほっとしているうちに、長期間ダラダラ出し続けて相当な量になってしまいました。
 海から運ばれた汚染物質は、気流に乗って山にぶつかりそこで雨や雪をふらせるので、距離が離れていても放射能が高くなっている地域があります。放射線量が高くなっている飯館村などはそんな地形的特徴があるようです。関東圏の水系も例外とはいきませんでした。また雨が降ると濃度が高くなるかもしれません。雨にぬれてアレルギー因子の効力を失う花粉と違って、放射性物質から出る放射線は減りません。
 こういった気象による拡散などについての知見は、気象庁や環境省に蓄積されているはずですし、すぐに専門家に聞けば拡散予想もできたでしょうに。なぜそういう専門家たちは沈黙している(させられてる?)のでしょう。この期に及んで、原子力は経済産業省、とか官庁の領分意識を維持しつづけるのはやめてほしいのです。地震直後になにごともなかったかのように定期メールを送付した国立環境研究所ですが、現時点でも「放射性物質」の降下と拡散については何も表明していません。
 これからは、放射性物質の生物濃縮の問題へと移行するはずです。チェルノブイリは海の近くではなかったので、今回の放射能汚染の問題は誰も経験されていない問題となるでしょう。食べるものも海産物に依存する日本人ですから。ますます、初めて生じる事態を他の物質による環境汚染の知見から「予測」をしてほしい場面が増えます。事後にとどまらず、事前にも踏み込んで、予防的な対策を立てるための分析や解説をしてくれるこの分野の専門家の発言に期待します。学問にたずさわる方々は、所属先に忠誠を誓うのではなく、学術という価値判断にのっとって、ぜひ真実を語ってください。

専門家は放射線のリスクを判断できない

さすがに仕事が手につきません。地震があってからもう10日にもなるのに、夜もろくに寝られないままです。たとえ被災地にいなくてもそんな人もいまは多いでしょう。テレビなどのマスメディアには心底うんざり。例のごとく記者クラブで申し合わせしているのでしょうか。どれも似たり寄ったりで突っ込んだ解説もない。インターネットに断片的に散らばるデータと解説を参考しようにも、ツイッターの洪水はマスメディアの増幅が大半で、かえって有用な情報は埋もれがち。
一次情報を収集するにしても、解釈するためのバックグラウンド情報が不足。例えば、東京電力のHP(http://www.tepco.co.jp/nu/monitoring/index-j.html)、文部省のHP(http://www.mext.go.jp/)と量的には情報が出てきたけれど、解釈するために必要なことがわからない。東京電力の方は、なんで測定場所を替え、しかもいまは1箇所なのか?3号機の黒煙が出るような重要な情報をすぐに出さない。
 メディアは「人体への影響はない」とお決まりのように繰り返すのはやめてほしい。だったらなぜ基準値がつくられたのでしょうか。現代社会というのはあらゆるリスクを個人が判断しつつ生きているわけです。普段から農薬に気をつけ、がんにならないように食事その他にたいして、最新の注意を払う人にとってのリスクの捉え方と、そういうことに普段から全く関心がない人とは、同じ数字でも意味が違うのです。受ける側の年齢や性別などでも全く変わってくるのだから、「安全」な状態かどうかは、自分で判断するしかない部分が相当大きい。判断材料となる情報の提供が大切なのはそういう理由です。
 官僚と多くの専門家が起きるはずがないと判断していた原発の大事故が起き、「想定外」の津波が町をなぎ倒したいま、誰が専門家の判断を信用できるのでしょう。人々がパニックになることを阻止するために、「安心」と繰り返しても、「不安」は増幅されるだけです。それに、低線量被爆の問題には学術的にも明確な結論が出ていません。なおさら専門家なら「よくわからない」と正直にいうべきでしょう。放射性物質を摂取しなくとも可能である地域にいるならいいのですが、これだけの広範囲にわたる農作物が出荷できないとなると、ただでさえ食料が不足している被災地域では困るかもしれない。時と場合によってリスクの捉え方は劇的に変わるはずです。
 記者、政治家、官僚、専門家のみなさん。安全かどうかに言及されるのは結構ですが、その判断に至った過程を説明することを忘れないでほしい。そして、あまり杓子定規なことばかりするのはやめてください。文部省のデータでは、放射線量の高い地域が30km圏の外側にも結構あることが気になりました。地形や風向きで違ってくるのでしょう。一律に避難地域を指定するより、実測値を参考にして臨機応変に対応を頼みます。
 





福島原発のリスクを深刻に案じています:一時避難を希望する方へ

ふだん速報性を重視しないブログを書いているのですが、こういうときは、役に立たないな、やはりtwitterかfacebookかな、と感じましたね。ともあれ、もししばらく被災地を離れたい方がいたら、明日から2週間ほどは確実に一部屋お貸しできます。ブログの詳細プロフィールページ経由のEメールで連絡してください。18日までは強く北西の風が吹きそうですから、逃げるならチャンスは今です。このページをみた方が知り合いに連絡してくださってもかまいません。
大地震と津波、その後原子力発電所があの状態では、もしも私が現地からほど近いところに暮らしていて、しばらく離れることが許される状況ならば、切実に移動をしたいと思うから。ここ名古屋では何事もなかったかのように平穏な暮らしが続いています。東北、関東圏のみなさんには申し訳ないけれど、電力のHz帯が違い、変換設備がなくほとんど東京に送電もできないがゆえに停電もありません。外国の人は、日本を続々と脱出していますし、海外からは「日本から出るなら滞在していいよ」くらいな勢いの連絡がくる状況でも、幸いこの国は細長くて逃げられる場所はまだ結構あるわけです。頼るときにはしっかり人を頼りましょう。
福島の原発から東京都心までは250km近くあるので、風向きによっては時々微量に流れてくるとしても、普通の人なら大丈夫です。でも、子どもやこれから子どもを授かりたいと思う人は、少し心配したほうがいい水準だと思う。アメリカ政府は80km以遠に避難するよう推奨したようです。政府、東京電力、マスメディアは、情報を開示していません。とにかく大丈夫と繰り返しているように聞こえます。知識と断片的な情報を組み合わせて判断するしかない状況です。
参考までに、放射線についての一般知識を過去の講義ノートから転載。

・放射線の種類と性質
 放射線は種類によって、物質をつき抜ける力(透過力)が違います。アルファ線とベータ線は電荷を持った粒子線で、透過力が弱く、紙やアルミニウム板などで止めることができます。ガンマ線は電荷を持たない電磁波のため透過力が非常に強く、薄いアルミニウム板などは透過しますが、鉛やコンクリートにより止めることができます。この他に中性子の流れである中性子線があります。中性子線は電気的に中性で透過力が強いため、鉛やコンクリートだけでは十分止めることができません。水に含まれる水素など軽い原子に衝突させエネルギーを吸収させてから、ホウ酸水などに吸収させることによって止めることができます。
*より詳しくは、下記サイト参照
http://www.rerf.or.jp/radefx/basickno/whatis.html 

 テレビなどでは、ひたすらミリシーベルトとかの話ばかりで単純比較していますけれど、放射線の種類を考えないと被爆を予防できません。レントゲン照射を受けても、放射性物質を体に取り込むわけではないけれど、たとえ少しの放射性物質でもいったん体に取り入れてしまったら、特定の体の部位が継続的に放射線にさらされます。セシウムは半減期が30年近くあるので、一生涯つきあうことになります。ヨウ素は半減期は8日くらいだから、その点はまだましですが。透過性のことをかんがえるなら、中性子線(これを使う爆弾ありますよね)は防護服でも防ぎようがないから、いまだれも原子炉付近に近づけなくなってしまっている。原発に賛成と推進しつづけた人に、しっかり責任をとっていただきたい。


 現在までにわかっているのは、東京にまで放射性物質が少し飛んできているということ。残念ですけれど、原発から300km圏でつくられた農作物は食べたくありませんね。今後は慎重に産地選びをします。海産物も同じです。幸い北西の風に流されて海に落ちていますが、海流を考えるとやはり静岡より西でないと不安です。畜産物は、どのみち餌が輸入だからそれほど心配しなくてもいいかも。


 問題の深刻さは、「いまここ」にもあるのですが、「この先」にもあります。すでに拡散した放射性物質がずっと残ること。日本はすでに汚染国として扱われています。チェルノブイリの時に日本の輸入品の放射線量をチェックしていたのと同じことを、外国ははじめました。農産物を売ることは難しくなるでしょうし、観光も厳しくなる。
 本当に残念です。すべて数十年前から予見されていた事象です。私の原点は反原発の研究グループにあります。「東京に原発を」の広瀬隆はやはり正しかったことが立証されてしまいました。このコラムに単純に事実経過が分析されています。ご参考まで。
http://diamond.jp/articles/-/11514








大学入試のネットカンニングに思う

 ようやく終わりに近づいてきた入試の季節。非常勤の私は幸い入試の試験監督は義務ではありません。この季節だけはお休みが余計にもらえます。常勤の同業者のみなさん、お疲れ様です。ただでさえ神経を使う行事なのに、入試ネット投稿騒ぎですからね。
それにしても、すごい過熱報道でした。連日どの新聞でも一面トップを飾るのですから。偽計業務妨害で逮捕とは、なんと大掛かりなことでしょう。結局京大はじめ、大学は被害届けを出しました。メールの出所情報を入手するためしかたがないと擁護する人は多いけれど、どうにも気分が悪い。大学は被害届など出さずに自分で処理し、ニュースとしては、もっと軽く扱われてほしかった。
社会学やってる人の定型反応でしょうけれど、「大騒ぎになること」に注目してしまいますね。ああ、日本社会(の支配的立場にいる方々)は入試のことを本当に重要視しているんですね、と。そりゃそうです。厳しい入試をくぐり抜けてきた人こそ、支配層にふさわしい、と当事者が信じているのだから。そこが揺らぐとすべてががらがらと崩れる。入試が厳正でないとなると大変なことになる。心配になるわけです。だから大騒ぎになった。
でも、入試ってそんなにすごいものなんでしょうか?大学に入ってからもカンニングや剽窃行為に明け暮れる人がいることは、大学教員なら誰でも知っています。それをあの手この手で封じよう、とするのも仕事の一部。それでも100%は防げません。入試も同じでしょう。ばれなかったカンニングはこれまでにもあったはず。ネットに投稿してしまうなんて、むしろ稚拙なやり方かもしれない。もっと頭の回るやり方をしている人もこれまでいたでしょうね。
だから、ペーパー試験による有名大学への一発合格でいろんなことが決まってしまう社会は危険です。日本の大学は入ってしまえば出るのはらくだし、大企業や公務員などへのアクセスが可能なパスポートになる。新聞などに入社するのも試験中心の一斉採用。メディアと公務員はほかの業界よりは試験好き&得意な人が多い業界なので、そのことが大騒ぎと関係しているのでしょう。
大学受験は入る前に多大な時間的負担を受験生に強いるものですが、昨今はそれに加えて塾と予備校が進化していることから、親や祖父母の投資力の有無が、結果を左右する傾向が高まっています。そういう不平等を放置したまま、厳正なる入試による結果平等だけを主張して、何か意味があるのでしょうか。受験生の意識やモラルの低さと高さとはどう判定するんでしょうね。「国公立に入って母親を安心させたかった」という、涙をさそうコメントも、ある種の道徳観を兼ね備えているわけです。彼には、もう一度しっかりと勉強して、ぜひ希望の大学に合格してほしいものです。これだけ痛い目に合ったのだから、2度とカンニングする学生にはならないはず。痛い目にあわずに、要領よくするすると社会へと出て支配的地位についていく学生の方が、私はよほど怖い存在です。

サッカーの睦月が終わって

天皇杯で年が明け、アジアカップで1月が終わった。すべての講義のお仕事も無事に終了。さて久々にサッカーを語ろうっと。この季節、私もフットサル現役復帰中。しばらくボールに触っていなくても、プレーのイメージがてんこ盛りでかなり楽しめています。でも、期待して購入したサッカーマガジンの分析は、ちっとも面白く読めなかった。
じつは元旦から国立まで応援に行ったのです。わが清水エスパルスの応援に。結果は惨敗。新年そうそう厳寒の中負けたのですから体の芯まで冷え込みました。岡崎がアジアカップで「優勝」の喜びをかみしめている裏には、あの悲しい銀杯の苦難があったんですよ〜(しくしく)。目の前にせまった優勝への期待をこめて老若男女のサポーターが詰めかけたスタジアムで、勝てなくても選手をねぎらい、健太監督をはじめクラブを去る選手に最後まで惜しみない拍手を送り、淡々と帰るサポーター。
静岡からこだまに乗ったので、行きの新幹線はすでにサポ列車。前の席には、70代はすぎていると思われる老夫婦。長い応援旗などを持参している本格派でした。隣の母子は、たぶん先発隊ででかけた父親と合流するのでしょう。3歳くらいの女の子が30番(小野)のユニフォーム着てるなんて、にくいなあ。黙々と横断幕を片付けている60代のおばさま3人組は、応援ユニフォームにほぼ選手全員のサインが入っている。これが、エスパルスの(熱いゴール裏ではない)一般的サポーターが座る席で見る風景なんです。帰りがけ、無言あるいは小声で語り合うオレンジサポ。電車のホームや駅中で会うと心の中でねぎらい合うのです。その暖かい集団に属しているという想いだけで、また一年生きていけるんです。だから勝てないのかも(笑)。
ところで、ザッケローニが来てから、日本代表はどうしてあんなに急速に魅力的に変わったのでしょうか。批評家たちはちっとも疑問に答えてくれません。もしかすると彼らはどうもその変化を「感じて」いないのかもしれない。試合を見ている普通の人たちの方がずっと敏感に、わくわくできる代表サッカーを楽しんでいる。なんでだろう。
変化を言葉で語りにくいことも一つの理由でしょう。日本でメディア受けしそうな話題はあまりない。奇をてらうスローガンもないオーソドックスなサッカースタイル。新しいレギュラーのメンバーだって、DFの吉田、FW前田、MF香川くらい。中沢と闘利王がいないから守備が不安定だった、とかいわれることもある。いやいやいや。全然そう思わない。私はあの2人の組み合わせはいいと思わない。今野をセンターに入れたってことがまずすごい。彼は細かく予測し未然に様々なことを防いでいます。あのクレバーなプレーは中沢と闘利王コンビでは実現できない。
ザッケローニが決定的にいままでの監督と違うのは、ふつうに選手をリスペクトしているところ。選手の1人1人が世界の一流の水準と変わらない、という前提でチームをつくっている。監督の期待の水準に、選手の方が合わせていったんです。できるといわれればできる。メンタルで支えられた自信が劇的にプレーを向上させました。なんと長友は、ついに頂点までアクセス中。リスペクトしたことは初めてではないんです。ジーコはみんなうまいんだし、並べれば大丈夫とやっていた。でも、日本は四天王のいるブラジルチームではなかったので、残念ながら、無理があった。監督としての「普通」の能力に欠けました。
リスペクトするという前提から出発すれば世界スタンダードな戦術がとれます。1対1が同じ水準だと仮定しないとなれば、やたらに局面で人数かけろとか、余分に走るとか、リスクを避けるプレー中心になるとか、相手のよさを消すことにやっきになったり、特殊なことをしないといけなくなる。アジアでは、最初から堂々と王者のように振る舞えるようになりました。だから、負けていても逆転して、追い込まれても最後に勝てる。見ている方も負ける気がしない。試合の始まる前に勝利を予測することができる。鹿島にあって、清水になかったことが、これなんです。(ゴトビさん、大々的改革よろしく。期待しています)。
オーストラリア戦最後の李のような、目の覚めるようなFWのボレーで点がとれるチームを代表に持つことができるなんて、少し前には想像ができなかった。前田も香川のシュートもなぜかカッコいいのです。(岡崎のよさは、そこにはないけどー(^^))。こういう形になったら、決まるよな、ってところで決まる。「ふつう」のヨーロッパ風サッカーの感覚で見られます。なんでいままでできなかったのか。実はそういうことができる選手がちゃんといたのに、監督やコーチに見えていなかっただけなのではありませんか?
この閉塞した時代、サッカー日本代表の界隈には、気持ちのいい空気が流れているようです。その空気が社会にもきっと少しずつ流れてくるでしょう。私も春の予感とともに新しい一歩を踏み出そうっと。

現代日本社会の生と死をめぐる一考察

ようやく秋学期が終わりに近づいてきた。大学で試験に出している課題に学生さんたちが真剣に考察を加えてくれている感じが伝わってきて、今年の採点業務は結構楽しい。私も急になにかしら書いてみたくなった。
現代日本社会に発生している大問題として、出生率の低さと自殺率の高さがあることは、誰もが知る事実だ。この2つは、違う社会の側面のようにみえて、合わせ鏡のように私たちの姿を映し出している。
現代において子どもを産み育てるという行為は、他者に奉仕する人生を送るということを意味する。多くの人はお金や時間を惜しげもなく注いで子を育てる。しかし、その子どもは自分ではなくむしろ他者を支える役割を期待される。返礼を期待しても、返ってくるものがあるかどうかは育ててみないとわからない。子育てはいま、見返りを期待しない贈与として存在しているのだ。
自殺は、他者から心ならずもなにかを受け取ることができなかった人、あるいは受け取ることを拒否した人が最後に行為に至ってしまう場合が多い。借金や病気を苦にし、人に与えられず受け取るばかりでいる状況に、他人は実に冷たい。自分が何かを返せないことに苦しみを持ってしまうと、人は自らの生命を絶つ。だが、受け取りつづけることや人から奪うことに罪悪感のない人は、もともと死など選ばない。
この2つの現象は、私たちがひたすらに自己を守り抜こうとし、他人から何か奪われないように必死である状況を映し出している。若くして誰からも助けを得られず餓死した人がいた。周囲の人々はずっと助け舟をだしていても、ついには身を守るためにも援助を拒否していった。それほどに人々からは余裕がなくなり、職や地位や財産を保つためにいまや命がけなのだ。身近な周囲の人々を責めることはできない。
この厳しい万人が戦っている原初状態のような社会では、「よき人」であることは時に文字通り死をもたらす。イス取りゲームのように、最後に座れなかった人が簡単にホームレスになることさえある。この社会でいま必要なのは、「奪い続けている人」や「与えようとしない人々」から、正義の名のもとにきっちりと幾多のものを奪い返して分配することだ。いまさら革命ともいかない。民主党政権は、そのことを託されて成立したのではなかったのか。官僚の手のひらで踊り、中途半端なことをするのはやめてほしい。「よき人」でいつづけようとしても、皆すでに疲れてきている。伊達直人になってささやかな援助をすることで満足していてはいけないと思う。(ただし、「持っている人」はそれすらもしないだろう。だからこそ、彼らは勝ちぬいたのである。)あざとく奪い続ける人々はたくさんいる。メディアにかかわる人々や多くの知識人は自らが「奪い続けている人」であることも多く、あてにならない。自らのごまかしのためにタイガーマスクを持ち上げるメディアにはうんざりする。ささやかな善意を贈る人は、もともとそれほどに「持っている人」ではないことが多い。ボランティアやNPOにかかわる人は、自らも裕福とは限らない。意外かもしれないが、むしろ貧しく苦労をしている人どうしが助け合ってきたのが日本社会なのである。私もあらためて社会調査を通してその事実に気づいていった。みな苦しさをしっているからこそ、なけなしのお金や時間や知恵をしぼって助け合っている。でも、そこでなんとかやっていける時代はもう終わったのではないか。
現代日本社会の決定的な問題は、お金や時間や知識などを持っている人の多くが、それを他者のために十分使おうとせず、自分の子どもや孫、あるいは閉じられた集団など限定された身内にだけ与え続けていることだ。その延長に生じるのは社会全体の弱体化でしかない。それでは、決して未来が開けないことを若い人々はシビアに観察している。そこに少しの安堵と希望を感じる。