衆院選への違和感とつまびらかになった事実

 週末はまた台風が来るそうだ。先週は大雨強風の中投票に出かけていたことを思い出した。なぜかずっと昔のことのような気がする。あれだけの天気のなか投票率が上がらないのはしかたがない。都会の人とは感覚が違う田舎住みからすると、行くだけでも結構な気合がいるものなので。自分の地区は自民党圧勝が予想されているところである。ここがニッポンど真ん中の感覚なので、結果に違和感はないな。

 では、何が違和感だったのか。
 例えば立憲民主党がいうところからの、草の根からの民意、なる表現。
 「上から」にたいして「下から」の、という表現があるけども、「下から」の自民党支持が膨大にありそうな選挙区にいると、なんだかね。民意は自民党になっているのだとしたら、どうする?それが民主主義であるように形式的には見える。アメリカでいくらトランプ氏の当選に、高学歴、中流層、マスメディア、女性、が違和感を表明しても、「国民」が選んだといえば神聖となる。私は日本の市民の民意とやらにそもそも違和感がある。結局、民意のぶつかり合いなんですよ。

 自民党は税金を取れるところからお金をくすねて票につながるように効率よく配分する能力にたけている党である。だからいま利益を得るために人は必死に自民党/公明党に入れる。それが組織票ってもんでしょう。その選択が近い将来の全体社会としてよいかどうかは、考えられないのだ。国際比較調査をすると、自国内の問題の解決策を見出す上で基準とするのはという質問に、「現代世代」と答えた割合が日本で特に多い。したがって、選挙結果は社会調査の結果からも整合性がある。

 つまり将来のことを考えて投票する人がもともと少ないなら、将来を語る政党は残念ながら必ず失速を運命づけられる。イデオロギー的立場は違うにせよ「日本未来の党」「希望の党」。かつて「日本未来の党」は元環境社会学会会長の嘉田由紀子氏が顔だった(今回も立候補して惜しくも落選)。いずれも女性が代表となり将来を見据えようと鼓舞した政党である。そこに共感しない人が多い。女性の政治家は産む性として子ども世代を意識するからだろうか。将来を語ってしまい結果的に痛い目に合っている。

 そして衆議院議員の女性割合は1割にとどまり世界193カ国中160カ国レベルに低いままだ。私は小池百合子氏のイデオロギーには同調できないが、「鉄の天井」があったのは事実だと推察できる。はっきりしたことを主張したら、女性は煙たがられる。日本社会は女性が国政の中心に打って出ようとすることをまだ許容しないし、誰もそれを支えないという事実がつまびらかになった。オヤジたちはいつだって自分達が仕切ってきた過去を美化するし、未来を見据えたりなどしない。オンナは過去に責任を負うような地位についたことはそもそもないのだから、もうお気楽でいこうぜ。責任の所在はオトコらにある。

 将来を見据えて政治を語ることが票につながらないとしたら、それは人々の見立てを反映している。いまとりあえず物質的に満足しているとか、毎日を生きることで精一杯だったり、半歩先のことしか考えられない余裕のなさ。グローバル化を語る人は将来自分と子どもがよいポジションにつくための手段を意識しているにすぎず、世界と日本を本気で憂いているわけでもない。かつて子育てに追われていたことを思い出すと私もその気分はわかる。けれど、それではジリ貧になる。

 どん詰まりまで、行くところまでいってぶちあたる。これがニッポン市民社会だ、と私の師匠が25年前に書いていた。いま、その悲哀をかみしめている。




「なんで保育士の給料は低いのか」に答えてみる

 ホリエモンが「なんで保育士の給料は低いのか」に対して「誰でもできる仕事だからです」とツイートして話題を作った件。元保育養成系の教員としては、放置するには聞きづてならないやりとりを目にしたので、書いてみようと思います。

 彼の「誰でもできる仕事だからです」という答えは、事実として誤認です。大学や短大、専門学校で膨大なカリキュラムを修めて、実習には2週間ずつ3回以上行き、資格とるのは相当に大変な部類のお仕事です。コンビニ店員も大変なお仕事ですけども、少なくとも資格を取るに至るまでのプロセス的として違いすぎます。それから、家で1人や2人の自分の子どもを育てるのと、保育士のように多数の子どもに目配りしながら、他人の子を安全に継続的に質を確保しながら預かり、マネジメントをする労働の中身は全く違います。「子ども育てたことある」とか言う人、そこは一緒にしないで。保育資格を取らずに卒業して会社に就職して勤める方がラクして儲かるかもしれない。給料優先と考えだすと資格取るのもバカらしくなって途中でやめる学生も確かにいます。これだけ資格を持っている人がいても保育士不足が続いている事情はそんなところでしょう。

 ではなぜそんなに大変な思いをして資格を取ってまで保育士になろうとする人がいるのか?「人間とかかわるやりがいのある仕事だから」だと思います。ありがたくも参入する人がいてくれるのです。「ほどほどにお金もらってやりがいのある仕事をできる」ということになります。そういう職はほかにもいろいろあります。芸能系のお仕事、メディア/アニメ界隈、アーティスト、ミュージシャン、ダンサー、作家、そして私のような研究者とかもそんな部類に入ります。Jリーガーだってそんなもんかも。スポーツやってる人にもお金もらえない人は大勢いますよね。
 じつは保育士志望の学生は、そういう一芸に秀でている人もたくさんいます。食えなくてもいい仕事の保険として保育士資格取得をめざしたり。そんな芸のある素敵な先生に教えてもらえる子どもは幸せだと、私は思います。「合理的な愚か者」(アルマティア・セン)と言ってもいい。そこにつけ込んで安く使い倒す経営者もたくさんいます。「逃げ恥」でいうところの、やりがいの搾取、ですね。理解のない保護者もいる。世間の理解は足りない、大変ではあるけども大事にされる職の1つではないでしょうか。まあ、ホリエモンさんは、そんな仕事に手を出すこともないでしょうが。

 より実際的な話をするなら、政府の決めた単価にしばられるので給料はなかなか上がりません。税金を使うので合意のとれた範囲でしか賃金が支払われない。でも、イギリスのカリスマベビーシッターとなると、驚くほど高い賃金で雇われることもあるといいます。保育も市場化した世界ではたまにそういう現象も起きていますけれど、構造上CEOたちの年収を超えるような事には、たぶんならないでしょう。福祉のお仕事は市場で交換価値を生む儲かる仕事になるのは本質的に難しいから。ソフトウェアや広告に課金する仕組みを売ったり、工場で量産したモノを売っったり、投資で一瞬で大金を手にしたり、環境を汚染しつつあがりをかすめ取ったりする職業とは違います。そういうところばかりで大金が動く世界の仕組みが、私はおかしいと思います。

 人手のかかる仕事はラクして儲けることはできません。農林水産業とか教育とかもいまのところそうなっています。誰かが儲かる時には、環境や子どもなど何かが犠牲になっているはずです。もっといえばほとんどの家事はいまでも無償で行われています。こういう仕事を全部なくそうとするとしたら、それは「人間」であることをやめる時かもしれない。IT化のその果てのAIを考えているヒトは子育てもロボットで、と言うでしょうけれど、それは私たちが考える「人間」の終わりとともにやってくるはずです。

 ところで、ホリエモンはなぜわざわざこの保育士の賃金問題にツイートしたのか。その謎解きの方が私の興味を惹きました。彼は金や地位や権力になびかない人々を嫌ってきました。なのに実は気になりつつある?幸せそうにみえるから。ほっとけばいいのについ書いてしまう心理とは。自分は仕事優先だった親に温かく育てられた経験がないことを誇りにしているホリエモン。子育てなんて、保育なんてどうだって、オレみたいに立派になれるんだよ、と言いたいのでしょうか。親たちに「立派に育ててやった」と言われるのが嫌なんでしょう。でも、幼い頃あなたの周りに親や祖父母やいろんな人がいて「金にならない子育て」をしてくれたから、いま偶然にも金を儲けるあなたがいる。その金を、親じゃなくてもいいから誰かに回してくださいよ。そうやって人類が続いてきたんですから。

 親への私怨を公共のツイートで流して保育を志す若者を貶めるのは、悪趣味です。












おクジラさま:捕鯨をめぐるニッポンのいまが見える

 環境社会学系の講義で捕鯨はとてもよいトピックだ。日本人は捕鯨となると恐ろしく一枚岩になるので、ニッポン論として取り上げる価値が高い。朝日から産経までマスメディア論調に差がなく日本の食文化論が展開されて、伝統的和食を大事にする環境NPOもクジラ食を擁護する。右も左もなく日本人が一丸となる話題なのだ。アカデミー賞受賞のThe Cove の後、太地(たいじ)の捕鯨をめぐるドキュメンタリー映画。

 和歌山県の太地は何回か訪れたことがある。リアス式海岸のために美しく深い湾(cove)にめぐまれた紀伊半島の南端にある小さな街。その海の美しさを映像で思い出し、魅入ってしまう。400年も前からクジラ/イルカの追い込み漁をして捕獲し、食材にしてきた歴史を持っていて、クジラを街のシンボルにしておりあちこちに絵や彫刻が飾られる。いってみれば愛でる方でも食べる方でもクジラ/イルカに依存した街である。ちなみに、クジラとイルカの区別は大きさのみ。実際に追い込み漁で捕獲しているのは小さいクジラ、つまりイルカなのだ。

 そこにあざとさも隠れている。イルカ漁というと「かわいそう〜」と日本人も思う人が多いだろう。子どもたちはイルカを可愛がるのに慣れており、イルカを食べるものとはあまり考えないからだ。クジラといえば給食でも出てくるし食べてもいいと思う人も多いかも。街はその2つのイメージを使い分けてきたが、Youtubeで世界に発信され、イルカを殺している街と認識されてしまい来訪者が引きもきらず、小さい町役場には大量に「イルカを殺さないで」とつたない日本語で書かれた手紙が届く。

 太地は世界の水族館にイルカを供給してきた。反捕鯨の運動家の働きかけもあり、2015年に日本動物園水族館協会は世界協会に加盟し続けるのか、太地の追い込み漁(倫理的でない方法)で捕獲されるイルカを認めるのか選択を迫られた。協会は倫理規定を順守するため加盟を続ける道を選び、太地の水族館は日本の協会を脱退した。いまイルカショーは動物愛護の精神には反する流れのなかにある。それでも人気はひきもきらず世界水族館協会に所属していないロシア、中国、トルコといった国の水族館などに高値で売れていく。といっても毎日売れ続けるほどでもないだろう。残った個体を肉として市場におろしても、食肉としての人気は低くて赤字になる値段となる。これでは将来の産業として持続していけるのか若者は心配になるだろう。

 健康の面からいうとクジラ/イルカ肉の水銀含有量は高い。街の人々の平均値は日本人平均の4倍だという。特に妊婦には要注意な食材だ。クジラをいつも食べている人の水銀値はもっと高くなりそうで心配になる。給食にクジラを出す前に水銀含有量を調べてくれと訴えた議員は、インタビューで「なぜ食べないのか?」と聞かれて「不味いから」と答えていたが、率直な話だろう。いまや安くて美味しい魚や肉がどこでも流通している時代。自給するためにイルカを捕獲していた時代とは食の環境が変わってしまった。地産地消を大事にする環境保護活動の掛け声に限界があるように、イルカを食べようと言っても、地元の人の嗜好が変わってしまったのだ。

 現代ではペットとして可愛がる動物を、同時に食べるのを喜ぶ人はそういない。そろそろ街はイルカを愛でる方に集中して稼ぐ道を考えたらどうだろう。太地は世界有数のイルカ/クジラウォッチングが可能な稀有な場所である。美しい海とイルカと会える観光地となる未来の方が、明るいように感じたのは私だけだろうか。