「家族主義」に期待する不幸

ここしばらく家族というものの存在を考えさせられる事件がつづいた。都内の男性最高齢とされたお年寄りが、同居家族がいながらミイラ化した死体で見つかったケース、幼い子ども2人が置き去りにされ、泣き叫んだ声で近隣から通報がされたにもかかわらず放置され、救えなかった事件。どちらも家族という高い壁に阻まれて、個人が守られなかったという共通の事情が背景にある。日本社会の制度は理想としては家族主義を掲げているが、現実には福祉の担い手として家族が機能しているわけではない。その事実を象徴する事件が続いたと感じている。
テレビのインタビューで、都知事があいかわらず「家族は何をやっているんだ」などと発言をしているのが虚しい。誰にでも暖かいケアを提供してくれる家族がある、という時代は昔もなかったし今もない。行政は何もしていないことが露呈されたのに、責任を転嫁して幻想の家族主義に頼ろうとする。その態度が「消えた高齢者」をたくさん生み出したことを反省してほしい。家族はいつも「よい機能」を発揮しているわけではない。DVや虐待は後を絶たず、日本の殺人の4割以上が家族内で起きている。年金取得のために手段を選ばないことも十分ありえる信用ならない存在だと、疑う余地を残しておいた方がいい。
社会が大きく変化したのに、制度の変革が追いつかなかったのだ。第二次世界大戦後の民法は、戦前の家制度を曖昧なかたちで温存させてきた。国民は個人単位で登録されるのではなく、戸籍という家を単位として登録され、さらに世帯単位で住民登録されている。これらの書類上の住所は、実際に居住している場所と一致することは強くは求められていない。つまり、私たちは3つのアドレスを使い分けることができる。このような複雑な制度を持つ先進社会がまず特殊なのだ。したがって、本人確認をする立場にある自治体の担当者が、簡単に行ける範囲に本人が居住していないこともめずらしくはない。基本的な制度上の不備なので、相当に大量の確認のとれない人が存在するであろう。
人口に関わる基本データさえ怪しくなってくると、「消えた年金」なみにショッキングな出来事である。どうも長妻大臣は、「消えた」ものをちゃんとチェックさせる人なのですね。通常、制度の単位が個人になっている社会では、このようなことは起きにくい。家族が世話をする、といって曖昧に代行することができないからだ。常に本人確認の作業が入ってくると外部との接触は遮断されようがない。
家族に加えて、いつのまにか行政の機能を代行していた地域の共同体、いわゆる世間の目も消えていた。集落単位で監視しあう社会を、私たちはやめたいと感じ都会へと流れついたのだから、そろそろ実態にふさわしい制度をつくろう。世襲の政治家たちは、生まれてこのかた東京育ちでも、地方の代表として選挙に出る。住民票が実態と最大にズレているのが政治家なのである。その状況をあたりまえのように認めてきた日本人の感覚は、この事件がおきる前からとっくに麻痺してしまっている。