Black Box Diaries に希望をもらえた

 伊藤詩織さんのこの映画、物議を醸していると話題になったおかげで急いで観た。日本での公開がどうにか実現したけれども、彼女の元弁護人が人権上の問題を指摘したり、こともあろうに制作にも関わったスターサンズで「新聞記者」のモデルになった望月記者とやり合ったり、そんな女性たちとの場外乱闘もむしろ社会学者的には興味深い。

 品川駅近くのシネコンに詰めかけている人たちは老若男女。大勢の人たちが彼女を支える側に立っている。SNSや新聞で報道する側の人よりも、真実を見定めようと足を運んでいる人がたくさんここに集っている。その事実だけで私はこの社会に暖かさと希望を感じる。巨悪に対して嫌悪感を持つ人たちは決して少なくない。

 詩織さんは記者会見に現れるような堅物ではないこと、何回も流される涙が嘘ではないこと、観客がもらい泣きをすることを感じながら、鑑賞する。映画館でしか味わえない体験で、ここに仲間がいる感覚になる。孤立無縁だった彼女が暖かく「ブランケットをかけてもらったような気持ち」になると語ったシーンで最高潮に連帯がこの日本でも可能かもと期待する。

 社会派ドキュメンタリー映画を作成しようという時に、「許諾」を得るということが不可能な相手は必ずいるはずだ。そういう映像を見慣れていると、この映画に問題があるとは全く思えない。出来うる限りの配慮をしたからこと、メジャーな劇場で公開されるところまで法的問題が修正されている。それでも、映像にはすごい力があるから、どこかに真実が漏れ出てしまう。彼女が「かけら」を集めたと言う意味が腑に落ちる。

 誰が人生を賭けて勇気を振り絞っているのか、長いものに巻かれようとしているのか。良心は咎めても、組織に従うしかないと堂々と口にする人もいる。日本社会の普通が淡々と映像に収められていく。失うものなく前を向いていく詩織さんがいるからこそ、よく私たちが知っている親切で優しく人を気遣いながら仕事をしている普通の日本人が、それと気づかずに今ある奇妙に歪んだ社会を補強してしまうさまが浮き彫りになる。

 人権は誰の何のためのものなのか。証言したことで職を失うかもしれないという紫織さんの心配を否定し、はっきりと名前を出して証言してもいいですよというホテルのドアマンが清々しい。全員がこうなら、映画は面白くなかったかもしれない。実はなんだか証言者のことを気にかけて被告ファーストとも言えないのが弁護士さんだったりする。

 正義のために働いていると自分が信じていても、歴史の文脈ではどういう役回りが課されているのか、実はよくわからない。弁護士の正義とジャーナリストの正義は時にぶつかり合うらしい。真実を明らかにするために裁判があるので、逆ではない。ホテルが裁判に提出した映像の公開を許可しない理由は誰の何のためなのか。どうして被害者である彼女が蔑ろにされ続けなくてはならないのか。もどかしさでいっぱいになる。

 プライバシーや人権という言葉に頼って切り込んでばかりいると、いつかブーメランのように舞い戻って真実を覆い隠すかもしれない。紋切り型ではない言葉を駆使しながらここまでの映像を作り上げた紫織さんの力量はすごい。彼女はジャーナリストとして類稀なセンスを持っていると示した。

 そこにもしかすると嫉妬が絡んでいるのかもしれない。女たちが水を掛け合うのではなく、互いの領域へのリスペクトと才能にエールを送り合う社会になってほしいと心から願う。