「子持ち様」問題をひきおこす働きかた

  最近の授業で「現代の家族問題」として学生が持ってきた話題が「子持ち様」であった。そのときは仕事と家族の問題として議論をしたけれど、後になってどうも疑問が湧いてきた。これって、家族問題なんだろうか?このブログを書きながら考えてみる。

 イギリスと日本で仕事を持つ親にインタビューをして得た知見からいうと(「離れていても家族」参照)、イギリスで「子持ち様」問題はおきない。あらかじめする仕事は決まっており、急に誰かが休むことがあっても、代わりに仕事を押し付けられる人が出現しないのが通常の働き方だから。その分労働者も自由を得ている。仕事の持ち帰りをしても場所を変えて働くのもしやすい。長期休暇を取る時も「担当者が不在です」。オンライン時代の前からわりとそうなのだ。


 「やることが決まっている」のがイギリスで、「いることが決まっている」のが日本の働きかた。この溝は深い。私はたまたま子育て中、極度に独立して働くシンクタンクで、「やることが決まっている」職場にいた。産前に完全原稿にしあげたのに、産休明けて戻ってきたら報告書印刷すらも誰もやってくれていなかったのでガックリきたが、まあ、労働契約としては徹底している。誰が何をして、どのような根拠のもとで賃金が支払われているのか、契約が個人ごとにはっきりしていれば、急に休みがちなひとがいても、文句は言われない。単純にそういう労働契約にすればいいだけのこと。


 ところが、たいがい日本の組織ではチームで動きお互いにカバーしあう。そういう働き方をするしかない職業ももちろんあるだろうし、そのよさもある。取引先に対して納期を守ることを優先し、会社全体として対応する。そういうシステムなのだ。だから自分も家族も常に仕事最優先で調整でき、頑健なひとが従業員として望まれる。というか、そういう人がいないと回らない仕組みになっているのだ。病弱では困るし、まして子どもなんか育ててはいられないから、「誰か」(だいたいが女性)に育ててもらうしかない。まだ子が幼いときに妻がインフルエンザで高熱出して寝込んでいる時でも、置いて出社する(知り合いの実話)。そんな立場で支えてきた妻たちが本格的に就業したらどうなるかは火を見るより明らかだ。ようやくそういう事態があちこちの職場で目立つようになってきたからこそ、「子持ち様」と揶揄する側も登場したんだろう。


 仕事内容について契約をはっきりさせたくないのは組織の都合でもある。先達て私は職場と賃上げ交渉をするにあたり、常勤教員の講義「一コマ単価」を示して納得いく説明をお願いしたが、「算出が困難」との回答であった。同一労働同一賃金法ができても壁は厚い。私は常勤教員がやっている講義を非常勤として一年だけ代替する機会が結構多い。学生の側から見て、私と常勤教員の区別すらついていないこともよくある。これほど完全に入れ替え可能な仕事ですら、「コマ単価は算出が困難」だそうだ。不都合で算出していても開示できなかったであろう。非常勤の「一コマ単価」はいまだ最高ランク(年功序列)で月額3万を少し上回る金額に過ぎない。常勤職の持ちコマ数は半期で6つくらいまでが標準だ。かりに同一賃金とすると講義だけでは月額20万円程度。実際の給与は月額で役職にもよるが40万円は超えるしボーナスや研究費も上乗せされる。だいたい年収にして3倍もの格差を「管理的業務」で説明するのは苦しいだろう。


 このように、大学という組織でもご多分にもれず仕事と賃金の関係は曖昧なのである。そうなると仕事を互いにカバーしあう気持ちの良い関係ができれば奇跡的で、基本的に年功序列でざっくりと決まる給与体系のもとで、学内業務はなるべく「しなかったもん勝ち」になる。断りきれないひとに仕事は集まり、やがて疲弊していく。「誰が何をして、どのような根拠のもとで賃金が支払われているのか」を決めすぎる職場も確かに居心地がよくないかもしれない。たいがいの組織で常勤は非常勤から、中高年の多くが若年層からの所得移転で守られている(これを搾取ともいう)。また、自分や家族が病気でしばらく仕事ができなくても常勤なら給料は減らされない。つまり福祉機能が備わっている。

 しかし日本の働きかたのままだと「子持ち」だけではなく、不公平感なしに仕事ができる職場はほとんどないと思う。まともに対価が払われない社会ではもうやっていけないだろう。