映画感想: 福田村事件

 関東大震災後100年を機に9/1から公開される映画を、一足先に試写で見る機会をもらえた。じつは監督の森達也は知っていたし書籍は読んでいても映画は見ていなかった。今回は初の史実を踏まえたフィクションだそうである。彼のこれまでの作品と比較することはできないけれども、すごい映画だった。あまりに後を引くので渋谷のバーに寄ってワインと音楽で気分を転換して帰ったのに、血の流れるリアルな悪夢にうなされ、一夜明けた後も脳を突き動かされている。こんな映画は久しぶりだ。日本社会を研究してきた人間にとってど真ん中に刺さってしまったらしい。並のホラーよりずっと怖いのは、現代社会に完全に地続きで自分もいつかターゲットになりかねないとビビったからだろう。朝鮮人とともに殺された社会主義者が唱えているのは、単に人権を簡単に踏み躙るなという主張だ。人種や主張が違うと私刑に晒される。そこかしこで起きていることだが、ネット内に留まり続けるとも限らない。

 村人は何から何を守ろうとしたのか。泣き叫んで命ごいする無防備な妊婦や子どもを斧や竹槍で殺すという普通の人の狂気はどこからやってくるのか。この映画が示した解釈は私にはとても腑に落ちるものだった。奥底に溜め込まれる怨嗟。低い自尊心。外に向けられる攻撃の起爆剤は常に人の内側に眠っている。オウム真理教からの逆流で掘り出された真実のかけらはリアルな映像に結実した。

 攻撃理由はどこからでも探せる。ネットで繰り返される人種差別、日本人がアイツらにやられる。殺るか殺られるか。いやまて戦場ならどうにか想像の範囲におさまる。でも、丸腰で村から離れようとする人たちの群れを追っかけるのは何のために。ただの攻撃性の発露による殺戮だろう。そして彼らは恩赦により、誰ひとり罪を負っていない。そういう狂気に駆られやすい人びとを日本社会は守り抜いたのである。流言飛語ですぐに動く。どちらに流れていくのかは成り行きと風次第。なので予測がたてられない。

 人がひ弱な自分の心を守ろうとするとき、恐ろしいまでの攻撃で防御をかける。ひ弱な心は期せずして刺激されることがある。さてどうしたらこの自尊心の極端に低い社会が変わるだろうか。問いが原点に戻ってきた。端緒としての親子と家族関係を解きほぐすしかない。