近頃SNSをみてため息をついてしまう。身近な領域で人が言い争っているからだ。とくにジェンダーとかセクシュアリティとかそういった分野で甚だしい。なぜなのか考えてみたいのでこれを書くことにした。
学問界隈に限ってさえ、議論のお作法は属しているコミュニティーによって大きく違う。具体的にはゼミナール単位レベル、学部レベル、大学レベル、で全く異なる。「どう議論するのが正しいか」という方法が違う。その違いをめぐって人が互いに優劣をつけ合う傾向がある。私は大学院だけで、大学を2つ、ゼミナールを4つ経験し作法の違いを体感しているので、どれが正しいのか決めるのは難しいと考えるし、それぞれの正統性や意義深さを認める。つまり、精緻であるべきとするポイントがそれぞれ違うだけ、という立場だ。
荒っぽい論の運びだなー、といってもいきつく結論が面白かったり、ガチガチに組んで隙がないなあ、と関心しつつも「で、何が言いたいのかな?」と考えたり。だいたい、文章には著者の「性格」が反映されている。人の個性がそれぞれ違うように、書かれたものに差異が生まれることは、もっと許容されてよいのではないか。
その差異を議論するとき、内容の前に、お作法のすれ違いを互いにディスっている議論があまりに多い。いってみれば、前提となる枠組みの違いが互いに許容できない。そうすると、内容が深まらずすれちがいの議論が続いて互いに消耗戦となるか、感情のもつれを生じていく。果たしてそれは皆が共通目標に掲げている多様性ある社会に資するのか。相手を貶めるためだけに議論をするのをやめてほしい。
世の中には様々な水準の差別がそこら中に広がっている。完璧な人などいない。そのなかで、それなりに差別に敏感な人どおしが互いに「あなたは差別している」と非難の応酬をしているかたわらで、信じられないほどベタな差別が横行しつづける。非難されるべき差別は別のところにないだろうか。対峙するべき相手はその間にほくそ笑んでいるかもしれない。
個人の考えは必ずズレる点が残り完全に一致することなどない。人が参照できる情報やデータはさまざまだ。この文献がサイトされていないとか、このデータを見ていないとか、この言葉づかいがおかしいとか、そういう指摘をすることに意味が生じるのは、結論の相違がなぜ起きたのかを問題化するためにこそ、なされるべきである。
左派は細部における不一致を緻密に議論し問題化しているうちに、連携ができなくなり空中分解していく弱さがある。いっぽう右派は議論を避けるがゆえ連合しやすい面がある。結果として右派の方が多様性を許容していたりする状況が時に発生する。議論をすることは大事だが、差異を認識しつつも寛容な態度を上位におかないと、民主的な集団は永遠に連合体にならないと思う。
日本社会における「議論」のしかたはどこか根っこが宙に浮いている。ある枠組みを置いているからこそ可能な、職人的な議論を良しとする、という価値観はそろそろ終わりにしたい。