コロナ禍という戦時下の悲しき大学人

 あまりにも悲しくなる一斉メールを受け取った。私の所属先(給与はもらっていないが)でもある早稲田大学総長からの学生への呼びかけ文である。進まないワクチン接種に業を煮やして政府が接種促進を呼びかけたのに応えたのだろう。一部を抜粋する。

「これからクリスマス、お正月と楽しい冬休みのシーズンに入ります。その前に是非とも、皆さんもご自身の感染を防ぐためだけでなく、ご家族や、周囲の幼いお子さんや高齢の方たちに感染を広げないためにも、是非ともオミクロン株(BA5)対応のワクチン接種をしてください。」「冬休み前に、1人でも多くの学生の皆さんにワクチン接種を受けてもらい、安全で楽しい冬休みを迎えてもらいたいと思います。」「ワクチン接種が体質的に受けられない方にまで、ワクチン接種を強いるものではありません。」とあるが、ワクチン接種を強く推奨を強くしていることは明確だ。

 

 これだけ新型コロナワクチンについてネガティブな学術的知見が積み上がっており、今後様々な議論が予見されるなかで、政府の呼びかけに素直に応じる態度を示した学長に心から失望した。「学の独立と進取の精神」のかけらも新型コロナ禍への態度にはみられない。「権力や時勢に左右されない、科学的な教育・研究を行う」という大学の精神にも反した呼びかけ文である。なぜCovid-19問題になると大学人はこうも政府に従順で議論すらしなくなるのか。政府が集める「専門家」集団がいかにあてにならなかったのか、ミナマタやフクシマを見よ。学の独立がそう簡単なことではないのはわかっているが、なら掲げるなといいたい。

 コロナ禍当初盛んに広報された「感染を広げないため」に接種を推奨する政府の見解は、データと齟齬がある。すでに批判されいてさすがに政府もそのトーンを下げている。最新の知見を常に追って先を見て判断するのが大学という場所なら、その時代遅れだと知られている広報を堂々と書いたら恥ずかしいと思うだろう。それを、最も副反応との兼ね合いで安全性の判断が大きく分かれる若い大学生に、ためらいなく推奨している。少なくとも副反応の懸念について触れるのが誠実さというものではないのか。

 

 単純に事実を見よう。100人あたりワクチン接種回数はすでに日本は世界のトップレベルにある。人々は延々とマスクをし続けている。それでも新規感染者(陽性者)は一向に止まらない。というよりも、ワクチン自体が感染を促進している可能性が理論的にも実証データ的にも次々に上がってきている。副反応による死亡者や後遺症の事例が積み上がっている。シンプルな事実から目をそらさず判断したとき、現政府の結論に間違いがある可能性が高まってきている。オミクロン株のコロナはもう世界で恐れられている感染症ではなくなった。現実をよくみて生活を元にもどす時だ。そうでないとあらゆる副作用(ワクチンに限らず、社会的、心理的、経済的な問題)で社会が衰退する。


 どうしても書きたくなった理由は、NETFLIXWWⅡ最前線:カラーで甦る第二次世界大戦」に映された戦時の日本の姿が、現代に重なって見えたからだ。最後の1人まで降伏せず戦う決意のある日本人たちは美しいかもしれないが、よく生きるという目標がなかった。そして、政府(当時は軍部だが)の教えをよく身につけ、守り、言う通りに行動していた日本人が戦場に赴きつぎつぎに若い命を落としていった。時代の空気に従う人々。ではその空気はどうやってつくられるのか。大学人が醸成に加担しているなら罪深い。空気に水を差す役割が社会学者だと信じているからには、政府の見解をそのまま受け入れるような行動を、私はしない。

多様性に資する寛容な議論をしたい

 近頃SNSをみてため息をついてしまう。身近な領域で人が言い争っているからだ。とくにジェンダーとかセクシュアリティとかそういった分野で甚だしい。なぜなのか考えてみたいのでこれを書くことにした。

 学問界隈に限ってさえ、議論のお作法は属しているコミュニティーによって大きく違う。具体的にはゼミナール単位レベル、学部レベル、大学レベル、で全く異なる。「どう議論するのが正しいか」という方法が違う。その違いをめぐって人が互いに優劣をつけ合う傾向がある。私は大学院だけで、大学を2つ、ゼミナールを4つ経験し作法の違いを体感しているので、どれが正しいのか決めるのは難しいと考えるし、それぞれの正統性や意義深さを認める。つまり、精緻であるべきとするポイントがそれぞれ違うだけ、という立場だ。

 荒っぽい論の運びだなー、といってもいきつく結論が面白かったり、ガチガチに組んで隙がないなあ、と関心しつつも「で、何が言いたいのかな?」と考えたり。だいたい、文章には著者の「性格」が反映されている。人の個性がそれぞれ違うように、書かれたものに差異が生まれることは、もっと許容されてよいのではないか。

 その差異を議論するとき、内容の前に、お作法のすれ違いを互いにディスっている議論があまりに多い。いってみれば、前提となる枠組みの違いが互いに許容できない。そうすると、内容が深まらずすれちがいの議論が続いて互いに消耗戦となるか、感情のもつれを生じていく。果たしてそれは皆が共通目標に掲げている多様性ある社会に資するのか。相手を貶めるためだけに議論をするのをやめてほしい。

 世の中には様々な水準の差別がそこら中に広がっている。完璧な人などいない。そのなかで、それなりに差別に敏感な人どおしが互いに「あなたは差別している」と非難の応酬をしているかたわらで、信じられないほどベタな差別が横行しつづける。非難されるべき差別は別のところにないだろうか。対峙するべき相手はその間にほくそ笑んでいるかもしれない。

 個人の考えは必ずズレる点が残り完全に一致することなどない。人が参照できる情報やデータはさまざまだ。この文献がサイトされていないとか、このデータを見ていないとか、この言葉づかいがおかしいとか、そういう指摘をすることに意味が生じるのは、結論の相違がなぜ起きたのかを問題化するためにこそ、なされるべきである。

 左派は細部における不一致を緻密に議論し問題化しているうちに、連携ができなくなり空中分解していく弱さがある。いっぽう右派は議論を避けるがゆえ連合しやすい面がある。結果として右派の方が多様性を許容していたりする状況が時に発生する。議論をすることは大事だが、差異を認識しつつも寛容な態度を上位におかないと、民主的な集団は永遠に連合体にならないと思う。

 日本社会における「議論」のしかたはどこか根っこが宙に浮いている。ある枠組みを置いているからこそ可能な、職人的な議論を良しとする、という価値観はそろそろ終わりにしたい。

 

なにが「フェイク」なのか、もうわからない

 Facebookなどでシェアされるフェイクニュースが話題になっていたころには、まだ真実に近いニュースとフェイクニュースは区別できると信じていた。コロナ禍の間にその信仰が消え失せた。

 私は政府が言っていることを疑いの目でみる癖がついている。政府認定の専門家が推奨する「子育て法」がある年に突然大きく変わってしまい、正しい育児のしかたが真逆になるのを分析した研究もしているくらいなので、そう簡単には鵜呑みにできない。一から自分で考える。

 それも、参照する外部世界があるからできたこと。「こんな風に変わってしまったけれども、世界ではこうも言われている」と書くこともできた。いくら少数派でも孤立はしなくてすむし、最初から白い目でみられるわけじゃない。でも、世界中で新型コロナに対して人と接触せずにマスクしてワクチンを打ち続ける、のが正しいやり方となったとき、そこには疑いを挟む余地や外部世界がなくなっていた。

 疑いを挟むだけで、「フェイク」や「陰謀論」や「反ワクチン」とレッテルを貼られる。これは、初めての事態ではないか。そうなると、学術業界の人々にとっては恐怖による忖度が働く。世間からまともな人にみられたい、という欲望に逆らえない。高学歴の人ほどマスメディアの差し出すニュースに寄り添うことになる。

 ここ1年はニュース摂取を極力減らしほぼ遮断した上で、自分で1つ1つ基礎知識やデータの断片などの情報集めをすることにした。GoogleやYoutubeでまともな情報を提供している人々がBanをくらっていく様子を見て驚愕した。政府認定の専門家が提供する情報に私は「正しさ」を見つけられなかった。

 つまり、「フェイク」と言われている方に私は説得力を感じているわけだ。しばらく連絡とっていなかった友人と話したら、似た結論に至っていたことがわかってホッとした。彼女もやはり博士で、1つずつ自分で情報を取捨選択する。もちろん、お互いそれぞれ孤独である。リアル世界で情報交換できる人が見つかっていなかったら、いま私はとても不安定な感覚のまま生きていただろう。考えを共有する人々のネットワークが構築されてよかった。

 疑いを持っても、何も言わずに密かに過ごしている人も多いだろう。これはまさに、戦時中の感覚に違いない。実名を出して「言ってはいけない」「白い目で見られたくない」という状態だ。この状態を最初に作り出すための鍵が「フェイク」や「陰謀論」というレッテルなのだ。いや、そんな一枚板のようなものじゃない。単に事実やデータの積み重ねがあるなかで、まともな議論がむしろ「フェイク」とレッテル貼された世界ではなされている。正しさを掲げる人々の議論には科学性はむしろなく、論理の飛躍や無理筋データ解釈のオンパレード。最初から意見の多様性は排除され、プロパガンダに逆らうとプラットフォームで焚書になる。世界はもう闇に包まれているのだ。

 私は真実を探すために学者をしていたが、学者であるほうが世間に引きずられ真実から引き離されそうになるようだ。学者であると名乗ることが不自由なら、それをやめれば思考が自由でいられるのではないか。

 これがそろそろ学者の共同体から足抜けしようと思った理由である。