言葉と行為の一貫性をめぐって

 学期末多忙で苦しいのに言葉を書きつけたくなるこの性分。どうしようもないですね。相次いでオリンピック界隈で起きたこと、それについて語っている人をみてつい触発されました。私は言ったこと(言葉)としていること(行為)の乖離がわりと少ない家族・親族のもとで育ったため、思春期を迎える頃、ようやく外の世界では乖離している方が多いと気づきはじめました。

 オリンピックがらみで次々と解任されたり辞任したりしている方々は、過去の言葉や行為と現在がSNSで呼び戻されて問題化しています。人間に一貫性を求めるという状況に日本人の大半は不慣れです。だから歯切れの悪い発言に終始したり、妙な反応を示したりする。自分もそんなこと言われたら困るな、と感じる人たちの発言は典型的には古市憲寿氏にみられるように、「忘れる」ことを推奨します。「誰の味方でもありません」という彼らしい。言葉と行為の一貫性がある人間などやってられない、という宣言ですよね。自分も間違えず傷つかない場所。

 私はこれまで古市憲寿氏が社会学者と名乗ろうと憤りはありませんでした。でも彼を仲間と考えることはさすがにもうできない。(TVコメンテーター、と自称していただければ問題ないです。)学者であると宣言したら「忘れる」のはまずいでしょう。過去の言葉に縛られていくのがこの職業ですから。

 じゃあ、言葉と行為のリンクの一貫性はどこまで気にされなければならないのか、ですかね。この一貫性はさほど気にしない学者の方が多いように思います。私はなるべく一貫させたい人ですので時に辛いです。なにせ新しく気づいたことを言葉にするたびに、それに行為を寄せていかなくてはなりませんから。その人がどんな人なのかをSNSが映し出してしまう道具となるなら、それはしかたのないこと。言葉にはその人がしていること、つまり行為の断片がいつか表出してしまうものでしょう。

 ふわりふわりと軽やかな言葉を発する人が好まれる社会では、痛いことや面倒なことは言わない作法が人気です。それを「傷つけない」というなら間違うでしょう。いつか回り回って誰かが傷つくからです。目の前の人を「傷つけない」やさしい人がいじめる側をつけあがらせていくのです。正義を振りかざした人が暴走するのではなく、止める人が足りない時に集団は、そして社会はトチ狂っていくのではありませんか。

 その人がどういう人なのかすこし余分に気にする社会になるのなら、そう悪くもなかったと後で思い出せるオリンピックになるのかもしれません。