千葉の台風被害と認知の遅れ

 千葉県民になってから今年で8年目になる。大震災の被災者に足元にも及ばないけれども、停電と断水生活を送り、軽いながら被災経験をしたら、少し世界の色が変わってしまい、まだ元に戻らない。

 9月9日月曜日の早朝に、台風15 号が千葉のど真ん中に上陸して猛威をふるってから丸4日。9月13日金曜日朝、いまだ20万戸近く停電がつづく。私の地区は1日半で復旧していたのでわりと早いほうだ。それも相当に長い時間に感じていた。信号機のつかない道路を様子をうかがいながら、移動し、あらかたしまった店舗を横目に、空いてるところでどうしても必要なものを調達する。幸い一番近くのスーパーがなぜか停電を免れ、いつも閑散としているのに、駐車場が遠方からの車で埋まっていた。「あー、ここにはなんでもある」と歓喜している人たちを見た。当然、すぐ食べられるものは売り切れて入手できない。

 リアルサバイバル生活から、抜け出したあとしばらくは「ああ、電気をつければ点く」とか「蛇口から水が出てくる」と感動し、熱中症気味の頭で疲弊して体もしばらく動かなかった。移動してくるとき、電車に乗り合わせた父と幼稚園児くらいの娘たち「あー、助かった〜」と電車のエアコンと電気に喜んでいた。気持ちは痛いほどわかる。苦労していたんだろうな、無言の父の疲れた表情。おそらく、どこかへ一時避難するのだろう。

 大荒れの台風で眠れぬ夜を過ごし、朝になって周りを見渡すと無残に壊れているもの、飛ばされた屋根瓦などが見えて、これは大変なことになってるな、と情報検索をして調べたら、最寄駅は屋根が壊れて当分電車も動かない、という状況だった。(当初はわりと4Gはまだ繋がっていた。)これはだめだ、きっとこのへんは当分復旧しないと腹をくくった。けれど、そのときのマスメディアの報道は、世田谷で風にあおられて転倒した女性が亡くなられたことと、あとはひたすら東京における交通の混乱に関する報道に終始していた。家が壊れている人が大勢いるはずなのにな、と不思議だった。

 上階からの雨漏りで天井から水がしたたっていて水を抜いたり、ベランダをかたづけたり、菜園の様子を見に行ったりてんやわんやしていたら、昼過ぎに自治体の防災無線が聞こえてきて、「浄水場が停電で動かないからもうじき断水になる」と。ありったけの容器に水を汲みおきして備える。ガスがあれば電気がなくても昼間はそう困らなかったけども、断水は相当不便になる。そのまま夜を迎える。キャンドルで闇を楽しむ余裕もあるし、電話はだいぶつながりにくくなってはいたが、まだ家族と状況を共有する余裕もあった。

 一夜あけても相変わらずニュースやSNSでも千葉県民が生活に困っているという話題はあまり出ていなくて、成田空港で足止めされている人へのインタビューとか、やっぱり報道は「東京都へのアクセス」問題を追っているように見えた。そして内閣改造で小泉氏に記者が群がっていた。震災のときには全壊、とか半壊、とか損壊がないかすぐに報道が入るし、洪水だって水に浸かった家が映る。そういう映像があまり出てこないまま、停電戸数がちっとも減っていない!と唖然とし、浄水場に電気が来てないくらいじゃ、優先順位相当低いな、と諦めて予定変更し移動(早めの避難)を決意。だんだんスマホも繋がらなくなってきて、音声が時折止まりながら、なんとか用事の電話をすませる。

 移動すると決めたので自分が持久戦に備える必要がなくなったら、ふと近隣に住む足の悪い高齢者のおばさんはどうしているだろう、と頭をよぎり、思い切って声かけしてみたら、「水がつきてきて朝から顔も洗えていない」と。飲用のお茶を確保していたけれど、暑くて熱中症になりそうな様子で困っていた。充電器を持っていなくて、電池も切れそうだという。トイレがいよいよ流せなくなっていた。断水を知ってすぐ風呂に水を貯めようとしたけど、間に合わなかったらしい。自宅の風呂残り水を運んで流ししばらく使えるように手伝った。おばさんは市役所に電話して「水をなんとか家まで運んでくれないか」と問い合わせたけど、ダメと言われたそうで「ここは冷たい土地だ」と嘆いていた。九州の人でかつて台風被害にあったらしく、その時は行政がよくしてくれたそうだ。おいおい、放置は人命にかかわるよ、市役所さん。

 私たちの部屋も車も無事なんだから恵まれてた(実際同じマンションでもガラス壊れた家もあり、車に穴が開いたり水につかったりしている人もいる)。普段はエレベータで降りて車にのって買い物できる自立している人で介護も受けていないけれど、停電断水で一挙に生命の危機に陥いる。一人暮らしでもないけど、夫も高齢で多くは運べない。給水車のところまで取りに来い、といわれても実際無理な人はたくさんいる。それにガソリンつきたら、給油に1kmの列!に並ばないといけなくなる。電車が動いていないから、移動手段は車しかないし。高齢になったら家はフラットでないと無理だなと実感。1000人並ぶ給水では、たとえ親切心があっても、自分が他人の分までもらって運べないだろう。幸いつぎの夜が来る前には停電が解消され、水や充電器や電池やスポーツ飲料をおばさん宅に供出し安心して、私は移動。

 弱者は自ら発信する力がもともと弱い。けれど電波がつながらなければ誰でも受信も発信も無理だ。あまりにつながらないので、私もしばらく返信するのを諦めた。役所の固定電話もダメなんだから、呆れるしかない。母は「固定電話あるから大丈夫でしょう」と信じていたけれども、昔の電話の話だよね、それ。電気に依存していない時代のほうがセキュリティが高いとは、やれやれ。公衆電話は次々消えてるし、どこにあるんだか。マスメディアの記者たちはすぐ現場に行き取材で走り回ったのだろうか?特に、NHKは災害報道体制をあれだけ敷いているのに、被害を掘り起こそうとしたようには全く感じなかった。今回の社会の認知の遅れに重大な責任がある。普段は東京に通勤している人も数多くいる一時間程度しか離れていない場所なのに。来て歩き廻り人にインタビューすればわかっただろう。

 メディア関係者はネット検索をしていれば情報が入ってくると勘違いしていないか?というのは、一次情報がちっとも増えず、熱中症で死亡が2人とずっと報道され続けたり、どのニュースをみても同じだったから。元ネタはわずかでそれを少しずつ加工して報道にしているニュースばかり。同じ情報がぐるぐる回っているだけ。心配して親の様子を見に行った子がTwitterで拡散していったりした話がようやく少しずつ出てきた。それ、先にメディアがやる仕事でしょ。順番逆になってない?この災害では、初動の報道があまりに弱かったので、親に連絡するのが遅れてそのうち電話がつながらなくなってしまい、心配していた友人もいる。

 堀潤さんも、「報道されていない」と訴えられてようやく来た。そのあと、取材箇所は鋸南町に集中。倒れた木や電柱だらけで先に進めない道の奥に、まだ孤立した人々がいるはず。停電が復旧しないのはそういう環境だからなのに、東電もその情報が集められていないから、何回も「予定どおりに復旧できませんでした」と謝罪を繰り返している。同じように現場への密着の弱さが露呈している。実際、自分で道を確保しようとチェーンソーで木を切断していた男性が倒れてきた木で亡くなったりしている。千葉の民は日頃から道具を備えていて(いや、ほんとにみんなチェーンソーとか普通に持ってるから)、自助や共助でなんでもやってしまい、行政は甘えている。声をあげたり助けを頼んだりするのは苦手だと思う。その人たちが助けて、と言いはじめている深刻さをわかってほしい。

 千葉県を地図でみてもらうとわかるけれど、半島でとても広い。しかも最高高度400メートルで低いから、別荘と地元民が混在してあらゆるところに住んでいる。その割には道が狭くて、国道は酷道とも言われている。その特殊性が復旧に時間を要してしまった。都市/地域計画の無策がこういう時に影響する。浦安や柏など、千葉都民の人々にとって、千葉市より南は日頃視野に入らない。実際、ディズニーランドも成田も「東京」だし。もし浦安に何かあったら、すぐ大騒ぎになっていただろう。実際、成田の「交通問題」は注目されていた。東京に通勤している人は、横浜市は多く千葉市は少ない。千葉は真ん中あたりで、分断されている。今回は千葉市から南に台風がひどい爪痕を残していった。台風の東南の風が強いのはよく知られているのだから、少し考えればどういうことになっているのか想像できたはずなのに。

 ニュースの価値のトリアージ?はどうなってるのか。東京への「通勤の足」より「家屋の損壊」とか「飲料水の不足」とか、「物資の調達」とか生命に関わる方をまずは心配すべきではないのか。工場への被害、とか農業、というのも無事だった消費者からの目線だろう。報道をする側の「都心中心主義」で、世界はねじれていく。地方在住の人がいつもその目線にさらされているのは、地方出身者の私もイメージできるけれど、今回は少し違った気がしている。北海道の停電や九州の洪水の方が、初動からの報道がまだあったと思う。近すぎで「首都圏」つまり自分たちの問題として、意識が「交通」に集中してしまい、直接被害がなおざりにされたのかもしれない。

 戦争末期、食べ物の調達のために東京から大勢の人が千葉に反物をもって頭を下げに来たと聞いている。幸い、この地は水も食料も豊富で、飢えの経験が少ない。備蓄のある人も多いからこのくらいで済んでいる。都心でひとたび何か災害にあったとき、隣県への冷たい報道姿勢はきっと記憶されているだろう。あまり想像したくない未来が頭に浮かんでしまう。
 
 
 

19世紀のプロレタリアと20世紀の奴隷と、女でいること

 夏も終わろうとして振り返ってみたら、読んでいた本がどちらも岩波文庫の「奴隷」(細井和喜蔵)と「イギリスにおける労働者階級の状態:19世紀のロンドンとマンチェスター」(エンゲルス)だった。論文を書きながら現在につらなる重たい歴史的事実に思いを馳せていた。100年の時間と空間を異にしながら、この2冊の本のなかで、資本主義は同じ顔を見せている。そして同時に、どこか違っている。忘れないうちにブログという形をかりて記しておきたい。

 「奴隷」の作者は「女工哀史」で知られる細井で、小説にはあまり光が当たっていなかったという。岩波文庫に2018年に初めて入っていなかったら私も手に取らなかっただろう。いわずとしれたエンゲルスは、どちらかというとマルクスの影として扱われがち。どちらも資本が縦横無尽に暴れ出した今の時代の源流を教えてくれる。自分が若いころに、これをじっくり読みたいという気分にはならなかった。時代の空気が変わったのだ。

 細井は当事者の目線で書いている。プロレタリア作家、というよりも当事者の記録とか生活史といった趣だ。エンゲルスはもちろん本人がブルジョアで、あらん限りの資料や見聞から生活史を書き起こしている。イングランドには、細井に匹敵するような当事者としての書き手はいたのだろうか?ぜひ専門家に聞いてみたい。28歳で亡くなった細井が短い半生の間に、ここまでの著作が残せる人として生き延びられた背景には、「頑張ればなんとかなる」と社会が隙間を見せ続けたからかもしれない。長時間労働のあと夜学に通い、発明で特許をとる夢を見て日々精進する職工にも。結局、発明はかなわないが、本を残せた。細井の描く組織の人々はみな上をみて下を蔑む。周囲の人たちも、虐げられ罵倒され酷い目に合っているのに、みなギリギリまで「がんばって」いるのは時折組織が引き上げる可能性もあるからだろう。上に反抗したものは憂き目にあい、ほとんどの人は「なんとも」ならずに野垂死にしていくのに。

 それに対して、エンゲルスの描くプロレタリアは同じ繊維工場で働かされているけれども、「がんばっている」様子は見えてこない。身分の壁は非常に厚い。貧民街はひたすら不衛生で不潔で、食べ物に事欠き、餓死するものも多い。そして、早晩道徳的に堕落していく様が描かれる。住居は狭く、すし詰めで汚物は周囲に撒き散らされている。都市の真ん中にこのような地区が出現し、時に伝染病の源となってしまう。そこで中産階級やブルジョアジーは見ていられなくなるから、貧民を救済して都市を“きれい”にしよう(スラムクリアランス!)という提言の根拠となる。

 「奴隷」に描かれる労働者の住居は汚物にまみれたりはしない。それどころか、「糞便」は肥料として売って企業の利益にさえなっている。労働者は寄宿舎という牢獄に、文字どおり閉じ込められるからだ。生活は事細かに規制され、生活用品は市価より高いものを買わされる。つまり労働者は2重に搾取される。逃走したものは罰せられ、支払われた前借金で年季が明けるまで、外出はできず給金は積み立てられて手取りがないから、もし辞めたら没収だ。生活手段が賃金でない形で支払われるとはそういうことだ。けれど、食べるものは餓死しない程度には出てくるから、炊事もしなくてよく、独身者は楽である。手にする金がほとんどない仕組みなので、個人の裁量で貯めることもできないが、エンゲルスの描くアイルランド労働者のように、賃金がアルコールに消えてしまわずに済むのだ。
 
 できる限りの時間を労働者から奪うという意味では、まさに日本の工場は搾取の頂点にある。毎日14時間働く上に、残業もさせられ病気でも妊娠中でも工場に駆り出される。めったにない休みのうちの1回は「会社の運動会」に全員強制参加なのに文句も言わずに喜んで、最後には「工場長万歳!」と自主的に叫んでしまう。細井はこの受動的で従って生きている様を、奴隷根性と呼んでいる。容姿がよかったり能力が優れていたりするものみな足を引っ張り合い合う。仲間であるはずの労働者たちと、連帯している様子がないどころか、「連帯責任」を課すことで企業内は資本家に都合よく統治されている。救い難い悲しさを感じさせるのは、資本家と労働者の対立にすらならない様である。ちなみに、労働の民俗学者福田アジオによると、農村の休日はみな一斉に神事に参加する祭りが中心だったという。そうやって工場は農村を真似ていたのだ。イングランドの工場には見られない生活と労働の一体化である。

 資本は2つの社会のどちらでも、できる限り“効率よく”人を集約労働へと駆り立てる。紡績は児童や若い女性にも長時間工場で労働させるので、イングランドでは時に能力によって夫が失業して妻が工場で働き夫が子どもを面倒を見ている家族が出現しており、エンゲルスはこの実態を両性の人間性をそこなうばかばかしい状態として嘆く。効率のよさを徹底すると時に資本は性差を消していくが、日本では性差は最初から職種の分離として組み込まれていて、こういう事態はおきない。そして、器量の良い女性は身分差があっても妾として囲われる可能性を残し、男性は身分の中での地位獲得競争をする。地位、金、女はセットなので失敗すれば全てがおじゃん、になる。「奴隷」の主人公が自殺しようとする瞬間がまさにそれだ。性別職域分離はこうやって男性の勤勉性を作動させる。

 100年たってそれぞれの社会で起きている現実をみるにつけ、資本主義は一枚岩でもなく、基層としての文化が強固である。現代日本に連綿とつづくジェンダーの暑い壁が張り巡らされているなか、資本が万人に平等に働く一面さえみえてこない社会で女をするのも、なかなか大変だ。