医学部不正入試と女性であること

 きょうは朝からなんだかおかしいことばかりで、淹れたコーヒーを飲まずに仕事に出てしまったし、人に会おうと思って会えなくて、あげくの果てにウトウトして電車を乗り過ごして、7年目にして初めて隣の駅に降り立った。無人駅で20分待って上り電車に乗った。
 でも、おかげで疲れて腹も減ったから、時折行く素敵なサーファーの大将がやってる寿司屋に寄って、ワイワイ楽しく(飲まずに)美味しく食べて帰宅。途中購入した有機ワインが不味い!と思いつつ飲んでると、ブログを書きたくなった。

 嫌なニュースばかりの毎日にあって、あまり関心のないニュースがこの「医学部不正入試」問題である。大学を卒業して仕事を続けているような女性はさして驚きもしないし、「そんなもんだろうな」と回答している、あのニュース。続々と現れる、そちらの大学もそうでしたか、という報道を見ていて、何か掘り下げられている記事が見当たらない。先日会った女性の知人も、「高校入学からして男3:女1定員。なにをいまさら。」と言っていた。私も少しマシとはいえ「男2:女1定員」高校出身だから、同感だけれども。
 しかし見たくないのは、見るのが辛い、という意味でもある。

 日本型入試の生命線は、点数のみで公明正大である(ハズ)ということ。他に何もメリットなどないペーパー試験の入り口型入試で、そういう「属性」による点数以外のセレクションが起きるのであれば、神話の全てが瓦解する。だって、他に良いところがない。大学を卒業するまでは平等であったと信じようとしていた女性にとって、この問題は深いところでダメージを与える。そうか、教育でもそうだったなというリマインドがおきる。フラッシュバックというべきか。

 「入学以降」の状況の推測による「属性」のセレクションの妥当性という説明に、はっきりとした否定をマスメディアが与えていない。これは、「就職」と「入試」で起きていることと一緒だからだろうか。日本のエスタブリッシュメントがずっとやってきたことを、論理的に否定しきれていないという事実を露呈する。あー、やだやだ。

 たまたま今日のゼミナールで学生と読んでいた本に、このやり口の何がまずいのかについて、理論的根拠が書かれていた。ハンナ・アーレントの「何」と「誰」の区別に関する論述である。その人が「何」であるかによって、どういう人かを予期してあらかじめ落としたのがこの不正入試だ。その人がほんとうは「誰」なのかということが生じる「現れの空間」こそ世界のそうあるべき場所なのであるが、そこで人は属性でもって「予期」されることはない。個々のユニークな人間であるのだから。

 よって入試で「属性」で落とされる女性や浪人生とは、「優位にある人々が劣位にある人々をネガティブに同定する『有微化』marking」(斎藤純一,「公共性」岩波書店)がなされたという明々白々な現象となる。もちろん、この含意を別の事例でいうなら、「ユダヤ人だからガス室に送るべし」という恐ろしき歴史的事実が裏に見え隠れする。

 思い返せば私も、女性だから、浪人しているから、いったん企業に就職しているから、夫がいるから、子どもがいるから、、、。大学で仕事をする上でのあらゆる「属性」による劣位を所持しながらかろうじて生きながらえてきた。その劣位たるやもう慣れっこなのだが、フラッシュバックのように思い出させるニュースなのだった。だから、無意識に関心を払わないようにしてきたのかもしれない。

 おまえら、いいかげんにしろよ。
 歴史においては劣位に置かれたものが優位に立つものに逆襲する。
 無意識の蓋を開けてくれた今日という日に乾杯!
 
 

コンクリートでは自然に勝てない

 大阪での地震、西日本での大雨、そして私の近隣でもある千葉での地震。自然の猛威をしみじみと感じて心が萎えている。日本に住む私たちは自然を征服することなど到底できないのに、日頃考えないフリをして暮らしている。
 ガチガチに護岸を固められた河川は、一見安全にみえる土地を大量につくりだした。でも、そこが本当に安全であったわけではなかった。どこか一箇所でも堤防が決壊して水が流れ込んでしまえば、固めたコンクリートに阻まれて水はプールのようにたまりつづける。海につくられた堤防も同じ役目を果たす。岡山の真備で起きている信じられないほど高く持続している洪水と浸水は、自然の災害であると同時に人工物による災害なのだ。
 でもきっと、政治家は150年に1回の洪水が頻発するなら、300年に1回のレベルに堤防をかさ上げしようと言い出すだろうし、市民も賛成してしまうかもしれない。そうやって土建国家は延々と続いてきた。東日本大震災のあとにも、海を見渡せないコンクリートの壁が築かれている。復興で儲かる業者がいて、下請けがいて、働く人がいて、政治家がいて、支える市民がいる。少数の反対の声はかき消される。実際「コンクリートから人へ」は人気がないスローガンになっていった。
 私は近隣で朽ち果てそうなコンクリートの塀を見るたび、恐怖を感じながら歩く。これは正真正銘の凶器である。アメリカでは銃が凶器として大量に出回っているけれど、かわりに日本ではコンクリート塀という凶器だらけの空間がある。いつどこで起きるのかわからない地震で倒れそうなコンクリート壁の横、車道に申し訳程度についている狭い歩道を歩いていて学校のブロック塀で亡くなった小学生がいた。不条理な死の象徴だ。いまブロック塀という人工物を所有している人は、気づいてほしい。どんなに美しく綺麗な家に住んでいようと、塀という凶器を人に向けながら過ごしていることを。
 コンクリートブロックの構築物をみるのは心から嫌い。とにかく美しくない。このコンクリート塀だらけの風景ができたのは、たかだか戦後である。アメリカからコンクリートブロック製造機械が輸入され、日本の風景を急激に醜悪なものに変えていったのだ。壁だけじゃない、消波ブロックを大量に投げ込まれて景観の破壊された海岸線も目を背けたくなる。これも敗戦後に入り込んだ誰かが儲かるための押し売り産業の1つなのだろう。いまも世界で売れなくなった石炭をアメリカが日本に売りつけようとし、儲けたい人々がその要望を受け止めているように。
 自然を力でねじ伏せようとするやり方はそろそろやめよう。すばらしいお手本をロシアW杯の日本代表が示してくれたんだし。私はニンジャサッカー、と勝手に呼んでいるけれどもするりするりと巨漢の間をぬけていく柔らかさ。ガチで壁を構築するだけでは芸もない。そんな新しい日本サッカーに希望の光をみた。縮小していくこの国をコンクリート壁に囲まれずとも安全に過ごせる知恵は、きっと皆で絞れる。

メルカリとジモティのある世界

 人生も後半戦にはいり、家を小さくするためにモノを手放していたら、新しい世界にはいりこんだ。学生時代から中古で買う、拾って使う、などなどセカンドハンズやリサイクルの世界に熟達していたけれど、おくればせながら、メルカリとジモティにハマっている。

 たった5年くらいの間に世界は様変わりしていた。リサイクルショップにまとめてひきとってもらおう、と思ってももう叶わない。各方面探して電話しても引き取ってくれる先がない。このままでは粗大ごみにするしかない。それはあまりも悲しい!そこで手間はかかるけども、じゃあ始めるか、と「メルカリ」や「ジモティ」に出品すると、あらゆる品物に数分以内に問い合わせが殺到するではないか。。。なんだ、こんなにマッチングがよい人が世の中にはいっぱいいるじゃん。

 どのモノたちも、必要とする人に受け渡すことができた。それがとてもうれしい。手放す人のストーリーと受け取る人のストーリーが取引を通じてマッチングする。どの取引もとっても「気持ちのいい」(ジモティは評価が「気持ちのいい取引ができましたか」なので)。いちいちお互いに評価しあうシステムもどうかなと思うけども、信頼をほかに担保するものはなにもないのだから、まあしょうがないか。

 たぶんこのアプリ取引は人のことをどこかで信用していないとやっぱりできないものなので、そういう人どおしで行われているからだろう。「そんなことやって大丈夫?」という疑心暗鬼の人よりは、「まあ、大丈夫でしょ」という人がやっている取引。きっと変なこともあるんだろうし、困った人もたまにはいるんだろう。けれども、アプリはとてもよくできていて、ちょっとしたチャットのやりとりから、スクリーニングをへてその後の取引につながっている。「複数で人目のあるところで」取引しましょう。まっとうな推奨。

 ついこのあいだのNHKニュースでGDPが下がった理由を「メルカリ」の取引が増えたから、と説明していた。手数料分しかGDP参入されないんだって。ジモティにいたっては、0円とりひきしたらGDPへの反映はほぼ0だ。車で移動するガソリン代くらい?粗大ごみにして新品買わせた方が儲かる人はいるよね。そのうち政府は規制に乗り出すかな、Airbnbみたいに。

 でも、この世界で私たちは確実に豊かさを増しているはず。まずもって、気持ちのいい対面の取引をしたり、チャットを交わしたりして、いらなくなったモノを捨てるに忍びない人と、ほしい人が出会う機会が爆発的に増加している。昔の掲示板、ミニコミ、マスメディアでやりとりする情報量の限界をスマホのアプリは劇的に解消してしまった。

 メルカリは世界に打って出るんだって?さあ、どうなるか。私は難ありだと思う。ジモティが近隣での互酬的取引を支援するにとどめているのに対し、メルカリは手数料で儲けを出し、クロネコヤマトと提携したりして運送システムを整えた。だけれども、こんなに安い送料で確実に全国にモノが迅速に届くシステムなんて、他国に期待するのはやめたほうがいい。そう考えたら世界展開のハードルは高い。

 モノはなるべくなら地元界隈で勝手に対面で取引したほうが、お財布にも、エコ的にもたぶんいい。結局、私もほとんどの取引がジモティで早めに成立したのは、偶然ではなくてそれが合理的な結果だったということなのかな、と感じている。

 モノをほしい人は若い人が圧倒的なのに、スマホを使わない中高年が困って捨てている出品されていないモノたちがたくさんあるんじゃないかと残念でならない。中高年の皆さん是非メルカリとジモティのある世界においでください。普段出会えないいろんな面白いかたがたと会えて、とっても楽しいですよ。
 
 

「父の娘」たちへの手紙

 寒くて長かった冬が終わり急に春めいてきましたね。いかがお過ごしですか。
 こちらはおかげさまで少し崩していた体調も、暖かさとともに回復してきました。子どもも両親もあいかわらず元気にすごしているようで何よりです。私の夫は、そうですね、いつものようにブツブツいいながら、淡々と仕事をこなしつつペットの亀に餌をやり植物に水をあげる毎日を過ごしているようです。もうじき祖母は103歳の誕生日を迎えます。私も顔を出してこようかと思います。

 お子様たちも大きくなって、自分のために使える時間が増えましたか。
 いえ、あなたのことですから、自分のために時間を使うよりはお子さんのために相変わらずたくさんの時間を使っていることでしょう。でもそれは子どものためですか。お節介ですけれど、もしお子さんをあなたのお父さんの期待するような人になるように鍛えているのだとしたら、それはかわいそうだからやめてね。お子さんは父へのあなたからの貢物ではないのですから。
 
 そろそろあなたが心から自分のやってみたいことを始めてはどうですか。あなたは「やりたいことがよくわからない」というかもしれませんが。その理由が最近ようやく腑に落ちました。お父さんにやるように言われていたことをずっとしてきたのですね。勉強をして多芸でよい仕事について、将来父に代わってくれる立派な男性と結婚して子どもを産んだら、あとは子どもを立派に育てる。でも生き生きしている子どもはあなたの意図どおりになんて育ちません。それが一番のあなたの子どもへの贈り物なのですよ。ほんとうにお疲れ様でした。

 あなたはやってきたことに自信を持ってもよいはずなのに、どうしていつも「自分はダメだ」とか「何もできない」と不安げに口にするのですか。私なんかとは比べようもなくあらゆる仕事をそつなくこなし、そんなにも素敵なのに。謙遜しているほうが世間の受けはいいからなのかもしれないけど、いつもそれだけとは思えないんです。
 新しく何かやってみるのは怖いことですか。私もほんのすこしだけ想像できますよ。車の運転をし始めるとき母が「大丈夫か」とやたら心配したんですよ。もう何年も乗っていてゴールド免許なのに。うんざりです。心の奥にかすかに眠っている小さい不安を呼び起こされる瞬間でもあります。交通事故はどれだけ気をつけていようとも、相手もあることですし、起きる時は起きるんです。こんなに誰でも車に乗ってる時代に、なんでいつまでも心配されないといけないかな。やめてほしいんですよね。なぜか夫が運転してると安心するらしいのも勘違いとしか思えません。女は運転できない、しちゃいけないって世間はようやく言わなくなってきましたけど、煽り運転は対女性が多いらしいですね。ついに運転しはじめたサウジアラビア女性に、乾杯!

 父は運転には「大丈夫か」とは言わないんですよ。気にしていないみたいですね。でも母は運転はできないまま一生を終えます。それは父が運転しないほうがいいというからなんです。若い頃は運動神経抜群で、たぶん父より上手に決まっているのにね。自分ができることを妻がやるとカッコつかなくなるからなんでしょう。バカみたい。そう、あなたも母を通じて間接的に父にダメ出しされてるんですよ。それが家父長制の真髄です。母が毒?いえいえ、結局父なんですよ。母がいつも父にダメ出しされている。そうすると面倒なことに、あなたは気をつけないと父と母2人から交互にちびちびと「ダメ出し」されることになるんです。

   その分ほめられるように頑張って生きてきたでしょ。家のことをちゃんとやり子どもを育てて母にダメ出しされないようにして、仕事をちゃんとやって父にダメ出しされないようにして。このまま続けるのは無理です。彼らは2人あわせて1人分だったのに。なんであなたは2人分もやるの?そんなことしたら体を壊します。お願いだからもっと自分を可愛がってあげてください。夫の世話?大丈夫ですよ。彼には自分のことくらいはさすがになんとかしてもらいましょう。どれだけあなたが頑張っても、父はあなたを下に見ることをやめませんし、母も救われません。キッパリあきらめましょう。

 あなたのこれまでの頑張りですでに手にしている素晴らしいものがたくさんあるでしょう。それを1つ1つ思い出して自分を十分に認めてあげてください。あなたの娘が自信を持って人生を歩んでいく力の源にあなたがなってください。あなたの娘をあなたのように父の娘にするのは、もういい加減やめませんか。それがジェンダーを再生産してしまうのですから。あなたの父はただの男性に過ぎないのです。なにやらもの凄そうに見えていたとしたら、それは母にかけられた魔法のせいです。あなたの父は死ぬ間際まで妻と娘に対して強がってみせるでしょう。頭も体はすっかり衰えているというのにね。
 あなたはうすうす感じているはずです。父亡き後には夫がそのかわりにあなたを支配していくであろうと。もうそんな重たい生活はやめにしませんか。結婚していようといまいと、よい仕事があろうとなかろうと、父の娘が精神的に自律するのはとても大変。でも、あなたがいったん気づいてしまえば簡単に魔法は解けるはず。

 新しい1年をこの春から始められるよう祈っています。
 
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 晶文社スクラップブックで「母と息子のニッポン論」を連載しています。そのウラにあたる「父と娘」関係もけっこう重症だな、と感じる機会がよくあります。いつかこのテーマも書きたいですね。


 

 
 

 
 

非正規雇用労働者はフリーライダーになりやすい?

  ああびっくりした。小林盾氏の「ライフスタイルの社会学」を読んでいたら、「正規雇用労働者と比べて非正規雇用労働者ほど、仕事の責任が少ないため、職場でフリーライダーとなるだろう。」という仮説をたててデータで検証して「そうだった」と結論していた。何かの間違いかと思って読み直したけど、はっきりそう書いてある。目が点になるとはこのことだ。腹が立つを通り越して、呆れ果てている。


 彼は「非正規雇用労働者は、仕事に手抜きをするわけではない」と述べている。じゃあ、どこでフリーライダーになるのかというと、「期待される業務が正規雇用労働者と異なるためか、仕事量、同僚サポート、アイディア提案が少ない」だからだそうである。それは、まさに契約上仕事で期待される内容の違いそのものではないか。なら、フリーライダーっていうな!

 非正規雇用は正規雇用の同僚と同列に比較されうる対象になるどころか、搾取される側ではなかったっけ。単純にいって、時給は低くて昇給はないわ安定はないわ、という立場が非正規雇用ではなかったっけ。だからみんな正規雇用になろうと血眼になって就活するんじゃなかったっけ。その前提は常識であるとして、かりにその常識と違う話をするなら、理由や根拠を厳密に提示するのが最低限のマナーだろう。

 どこから非正規雇用労働者をフリーライダーって考えようというアイディアが出てきた?しかもこの本はトンデモ本じゃない、東京大学出版会という、学術界きっての格式高いところから出されている。学会でもセッションが立っている。著名な方々の推薦により出版されている。また偶然にしてはできすぎであるが、小林氏は現首相の母校である成蹊大学の教授だ。

 私はフリーライダーになるのは苦手なほうだと思っている。それで、昨年度、常勤の准教授職をやめて非常勤講師に戻ったばかりだ。逆に常勤職をフリーライダーが出現しやすい場だと思ってきた。非常勤には、そんな自由すら与えられていないはずだ。大学という場には常勤と非常勤の給与体系に厳然とした水準差がある。その差をうめるべくFWANという試みを始めたのも不当だという思いからだ。常勤職には大学を運営する上で様々な責任があるのは事実であるが、どう単価計算しても講義の比重は高い。教育が中心の私立大学であればなおさらだ。常勤職の講義1コマあたりの時給を考えたら、非常勤職は半分以下しか支給されていないのは確実だ。金銭で報われないその仕事を熱心にしている人間をフリーライダー、ともし教授陣が考えているとしたら、不当であると言い返したい。

 小林氏は自分の足元の職場にあるその差別を、完全に見ない人なのだろう。彼が社会学者であると名乗っているとするならなお恥ずかしい。この記述を含む本書が、とりまく人々が指摘することもなく、学術出版されてしまうというシステムの脆弱さ。

 こんな実態を重ねていては、学問というものへの信頼性など消え失せるだろう。いやもう、とっくに消えているのかもしれない。人々のリアリティを捉えそこなったエリートの語る言葉への嫌悪が、世界を席巻している。いまなにが真なのか偽なのか急速に誰もがわからなくなりつつある。それは些細かもしれないこういう違和感の積み重ねが生み出しした悲しい帰結だと私は考えている。