新学期がはじまってはや一ヶ月。毎日講義に追われつつも、やりがいを感じる瞬間がある。かれこれ20年になろうかという講義歴を振り返るとき、自分がずっと前に大学で語ってきたことがやがてマスメディアでとりあげられる問題となり、そして制度化していくという経験をするときがその1つである。あたりまえだが、学問とは常に世間に先行するものだから、そうなるのは当然ともいえる。
そのなかには、あまりうれしくないが触れてきた事象もある。例えば私は東日本大震災以前から原子力発電の危険性については講義で明言しており、その理由に日本が地震国であるという事情もあげていた。悲しいがこれは福島第一原発の事故となって具現化してしまった。
一方、セクシュアリティの多様化やジェンダーの問題については、語ってきたことのよい実りを感じられる。誰でもこの分野の研究者が触れていたこととは思うけれども、昨今の若い学生たちの柔軟な受け止め方には目を見張るほどの明るい変化の兆しを感じる。誰もが同姓婚に対して違和感を抱かず、友人にはカミングアウトしている人も数多い。この問題は渋谷区のパートナーシップ条例という形で、制度へと一部結実しているが、そのずっと前に学問があり、ついでドラマなどのマスメディアでの文化が花開いていき、ようやく制度としても日の目を見つつある。もちろん、IS(インターセックス)など性分化の曖昧さにかんする領域はまださほど知られていない。でも、これもすでにドラマ化の時代を経ているので、進展中だと思う。このドラマは、日本人にとどまらず留学生が見ているということも知った。そこにグローバルな価値の共有も広がっている。
大学の教員としての特権は、こうやって10年、20年後に向けて世界の若い人々に語れる機会を持てることにあるのかもしれない。そのためには、常に自らが先端に触れていること。すなわち研究をしつづけていられることが大事だと信ずる。多くの大学で教員の研究に対して、必要性が軽んじられすぎていると思う。本当は高等学校までの全ての教員にも研究へのアクセスが広がって欲しいところだが、検定教科書と入試に縛られる日本の教育のシステム上難しいのが現状だ。つまり、これが大学教員でいることの、唯一といっていいほどのやりがいにつながっている。自分を鼓舞しつつ前を向いてハードな学期を乗り切りたい。
いつかつながっていくかもしれない、よりよい社会構築の可能性に向けて。