先週からひいた風邪が抜けずに週末を過ごし、疲れがとれないまま月曜の朝を迎えた。忙しすぎてどうにもクビがまわらないのに、なぜか書きはじめている。どうやら半年ぶりだ。こうやって、言葉は時として私の理性を乗り越えて吐き出される。
今朝、いつものように通勤したのにふと気づいたらいつも曲がる交差点を直進していた。そんなことは初めてだ。身体化されている通勤行動はめったに乱れることなどない。それほど私の脳内はやられてしまっているようだ。もちろん、パリのテロはそのきっかけの1つである。ただ、事件そのものというよりは、その後の世界の報道に揺さぶられている。
いったい誰が誰と戦おうとしているのか?敵は内なる世界にいるのではないか。
それをまったく世界の報道はつかまえそこなっている気がする。事実の重さと周囲の軽さの落差に、とことん気が滅入ってしまっている。私は物事を頭だけでなくまさに体で受け止めてしまう体質らしい。だから3.11の前後の時もかなり弱ってしまっていた。おそらくまたしばらく弱るだろう。なぜパリの出来事にそれほど反応するのかはよくわからない。もしかすると、昨日知人がfacebookでシェアしてきた「あなたは性格的に何人タイプ?」という質問のウェブサイトで(http://ja.what-character-are-you.com/d/ja/1289/index/7617.html)、冗談と笑い飛ばせないジョークだが「フランス人」と出て絶句してしまったように、自分の身体と地続きな場所だからなのかもしれないし、つい先頃パリ十一区に短期滞在していたからこそ感じる近さなのかもしれない。
でも、本当に重たくなってしまったのは、自分も含めた普通の人々が生み出した社会的排除の果てに起きたものとして、今回のテロを受け止めてしまうからだと思う。テロはシャルリ・エブド襲撃事件をまともに受け止めて適切に反応しなかった社会への報復でもある。とするならば、少し前にブログに書いた「川崎事件」の受け止め方を間違えた日本社会にも、いずれ訪れるであろう末路は似たようなものとなるに違いない。その恐怖が私を思考停止に陥らせるほどに衝撃をもたらすのだ。
あたりまえだが、無垢な市民が殺戮されれば人々は嘆き悲しむ。しかし、普段から市民たちの視界に入っていない多数のテロ実行犯とその予備群である人々の群れが、隔離された場所で醸成されている。あの殺戮犯たちの冷酷さとは、多くの世界市民の日常生活にある冷酷さと裏腹なのだ。遠くにいるISと「断固戦う」といって空爆しても、身近に新たなテロリストを生み出してしまう構造に変化は起きない。その増殖のしくみを市民はあまり見たいと思っていない。なるべく忘却していたい不都合な事実がたくさんある。
日本には自分もめぐまれない立場でありながら、もっと貧しい人に手を差し出し目を向けようと福祉分野で働く人々の分厚い層があると思う。そういう人々こそが本当の安全保障の担い手ではないだろうか。私は最前線の現場に出て行く学生たちに教える立場にあるが、誠実で真面目な彼らも時に「これではやってられない」と限界を訴えることがよくある。面倒で儲からないかもしれない、だけれど人が生きるためにどうしても必要な領域がある。そこから多くの人々は一斉に手を引き始めている時、あえて現場で苦労を引き受けたいと考え続けられる人がどのくらいいるだろうか。
社会が連帯の環に入れない人々を生み出していけば、いずれ排除された人々の一部は一般の市民を敵を見なして無差別に攻撃するだろう。じつは社会的包摂は誰かのための理念などではなく、市民が互いに危害を加えなくてすむためにこそ、どうしてもやらなくてはならないものなのだ。その重要性を日本人の経済的に恵まれた人々が感じとっているようにはどうしても思えない。