小室ゼミの伝説はたくさん耳に入っているのだが、小室直樹の著作を持っていないし、ほとんど読んでもいなかった。編著者である橋爪大三郎氏は私の先生なのだから、孫弟子になるのにもかかわらずである。2011年当時私は世界文明センターのフェローで、小室博士は特任教授でもあったのに、会う機会がないうちにお亡くなりになってしまった。記念シンポジウムに出席したかったが、名古屋にいて東京にいく交通費の捻出が厳しかった。熱意が欠けていたことは率直に認めよう。それでもようやく記録を採録した本を出していただいてうれしい。すっかり没頭して読んだ。
互いに丁々発止、けんか腰で議論する純粋な世界がそこにあった。久しぶりに学問したい、考えたい、ものを書きたいという衝動が高まった。最近、この感覚を持てる場所に出入りしていないのだと実感する。登場する人々の博識ぶりと、知性の鋭さには脱帽するしかない。日頃は限界ばかり感じている社会科学に対して、やっぱりすごいんじゃないか、と希望も沸いてくる。
しかし、それにしても、である。ちょうど昨日みたばかりの映画「ハンナ・アーレント」の世界にはあったなにかがこの世界には、ぽっかりと抜けている。それがなにかを考えてみたい。まず、第1に違和感があったのは「小室直樹の世界」が国家を基盤とする強烈な思考枠組みの中で語られていたこと。その理由は明らかで、小室氏は「アメリカに勝てる強い日本にするにはどうあるべきか」と考え続けているからだ。有力な弟子のひとりである副島隆彦は、まさにその意思をついで「属国・日本論」などを書いている。国民国家の枠組みで、思考し続けていくことへの限界は語られていない。
第2に、徹頭徹尾マスカリニティ(男性的)な世界であったこと。「女性がやっていること」は視野に入っていなかった。つまり、彼らは世界の半分を見ていない。ジェンダーやフェミニズム、家族論などは些末なことだろうか。「男子の本懐」に特化した話題でヒートアップしていく様はこの時代にあって奇妙である。ばかにしているとは思わないが、単純によくわからなかったのではないか。小室氏の生活に対する破滅的な態度、後年、奥さんに生活を立て直してもらった事実も、この領域への無関心と知識の欠落を端的に物語る。思考と生のありようを切り離せないと繰り返し論じるハンナ・アーレントの見ている射程は、一段深いところにあったように思う。
つまるところ、私は「小室直樹の世界」の世界からぽっかりと抜け落ちていると感じたことを、彼らの生み出した思考法を学びつつ研究しているのかもしれない。その意味で残念だが「小室直樹の世界」を直接引き継いでいけることは少ない。けれども、繰り返し唱えられる「エートス論」とは、まさに人がどういう価値観を内面化しているのかを問題化しているはずだ。人間の社会化へと通ずる家族や子育ての領域が、価値観の醸成とどう結びついているのかを知ることなく、国家を論じることなどできないと私は考える。