遅ればせながら、松田茂樹さんの勁草書房「少子化論」について書いてみます。共著「揺らぐ子育て基盤」(勁草書房)も出している研究仲間でもあります。見てきたデータはほとんど同じもの。いろんな事実を共有しているがゆえ、結果として出てきた考えがかなり異なるということが新鮮でした。そのあたり、どこが違ってきたのかを振り返ってみたいと思います。普段からの議論なども踏まえていますので、いわゆる書評のように本の内容だけにそったものとはなりません。
まず、松田氏の「少子化論」はとてもわかりやすく書かれています。読みやすく、すらすらとかかれていて著者の論旨は明快そのもので、
*1)少子化は問題である→2)少子化を解決するにはどうしたらいいか「全体像」を捉え直す→3)克服にはこういう道があることを提示
ぐちゃぐちゃとわかりにくい言い回しをする学者が多い中、政策担当者に対して実に魅力的な著作であることは間違いないでしょう。けれども、残念ながらこの著作が少子化の克服に対してプラスの材料をもたらすのだろうか、と少々疑問が生じました。
段階を追っていきましょう。1)少子化は誰にとって何のために問題なのでしょう?著者の答えは明快で「それがわが国に深刻な影響をもたらすから」。私には「わが国」とは何なのかが、いまだよくわからないのですが、あまり明るい状況でないことだけは確かですので、問題意識は共有するといたしましょう。
つぎに、2)「全体像」という言葉には引っかかりました。少子化という人間の所作の総和を捉えきることが、どこまで1人の研究者には可能なのでしょうか?私にはとても自信がありません。そこで、気づいたのですが著者は少子社会の「人間像」をかなり特定化された人格でなりたたせているのです。つまり切り捨てによる明快化です。このあたりの人間観は、3)克服メニューにもはっきりと出てきます。簡潔にいえば、「ホモエコノミクス」たる経済的側面をかなり重視する合理的人間像なのです。戦略的切り捨てであることは理解しますが、もしそこで損なわれたものが大きすぎれば、結果的に間違えてしまうことにならないでしょうか。
もちろん人々が経済性を判断の中心においている場合も多いでしょう。それがデータから得られる現実から導かれやすい結論でもあります。祖父母などに子育てを手伝ってもらうために、親族同士による集住を勧める政策を推奨したり、性別役割分業を行う典型的家族を若い人が望む、と捉えられています。しかし、現状の多数の人々が結果的にそうであり、合理的なやり方であるという松田氏の静態的な捉え方では、近代化の潮流が世界的にもたらしつつある人間、とりわけ女性の変化を軽視していると思います。人はそれがいくら「合理的」であるとわかっていても、できない場合もあるのです。女性が「自分らしい人生を送りたい」とする時代を迎えた瞬間に、残念ながら三世代同居や専業主婦的生き方との相性は悪くなります。膨大な研究がその理論的下支えを果たしているはずです。
「子どもを持つこと、育てることへの価値」というよりも、たぶん「圧力」はいまだ高い日本社会のなかで、なぜ人々は子どもに優しくないのでしょうか?はからずも、著者が参加したという外国から帰国した日本人の母親がインタビューで口にした「海外のほうが赤ちゃん連れに優しい」という言葉が、重要なヒントを与えてくれたのではないでしょうか。
人は「赤ちゃんだけに」対して優しくなることはできないと私は思います。人が人に対して優しくなるとは、子どもを持たないこと、結婚しないことも含めて自らが尊重された時ではないでしょうか。いいかえれば、「海外の方が人に優しい」のです。このようにひどい労働環境のもと女性がいまだに「産む性」であることに変わりがない社会で、他人に優しくすることは難しいのも道理でしょう。だから、政策メニューの中身はさておいて、特に「女性」が生きやすくなるように整えていくことが結果的には少子化対策になるのです。フェミニズムを忘却しては何も前に進みません。残念ですが現政権のもとではこの点がすっかり忘れられ、女性=産む性へとさしもどされているように感じます。それでは逆効果になるでしょう。
もっとも、著者の提示している政策メニューの多くは必要なものばかりです。非正規雇用の均等待遇に重点をおいた雇用政策は私自身も、優先順位が高いと考えており、ぜひ中央政府の政策にたずさわるなかで主張を続けてもらいたいと期待しています。