イギリス福祉と文化の旅

 学生とともに一週間イギリスで過ごしてきた。個人としてではなく大学の授業として企画し、海外を旅するのは初めてである。1人で行くのもいいが、こういう旅行も意外とよいものだった。10人の初めてイギリスを訪れる学生たち。自分とは違う気づきを私も共有できるのはとても新鮮で有り難い経験である。とても濃密な時間を味わえた。
 乗り慣れた地下鉄の風景は変わらないけれど、ロンドンの人々の表情からオリンピックのあとの観光客疲れをなんとなく感じる。あちこちのお化粧直しが行われたとみえる駅舎。古びた施設を誇るロンドンがちょっぴりモダンになっていた。
 旅の主な内容は、ロンドンで福祉関係の施設をめぐり、コルチェスターに移動してエセックス大学で講義を受けること。でも、企画の意図は福祉国家の理念を常に先導してきたイギリスの福祉を、歴史と文化の文脈で理解することだった。だから、pubも行ったしノNotting hillの丘も歩いた。200年前の家を購入して17年かけてリフォーム中、といういかにもイギリス人らしいこだわりのご家庭も訪問させてもらった。私としては学生の反応に手応えを感じて満足している。
 もちろん自分の研究上でも学ぶことが多かった。事前に調べていたとおり、ブレア政権が終わり、いまイギリスの福祉理念と政策は大きな曲がり角にきていることが実感された。ユニバーサルクレジットが登場し、今後70年の福祉制度を設計する、といわれるほどの大改革が行われようとしている。福祉に関係する人々が困惑のなかにあり、真摯に次なる理念と制度の立ち上げをめぐって議論をしている渦中だ。誰もがこのままでは立ちゆかないと思いながらも、どうしたらいいのか意見は多彩である。現地に行かないとなかなかこの情報は入らない。
 時代の変化を敏感に読み、理念と現実をすりあわせていこうとする点にかけて、イギリスの人々は常に先進的だ。いまは、少子高齢化と財政難(どちらも日本のほうがよほど深刻なのに)という「避けられない条件」のもとで、どうやったら公平に、合理的に、みんなに福祉を行き渡らせたらいいのか、知恵をしぼっている。「ない袖は振れない」という現実主義の中で、人は誰でも尊重されるに値する、というシンプルな理想を誰もが共有している。その感覚で帰国したあと、この社会にいると少々痛い気持ちになる。みんな現実をみたがらず、誰かにお任せにみえる。
 Care homeでは、私も老後にこんな部屋なら住んでもいいと思える落ち着いた室内を案内してもらえた。障がい者のday careでは人が持っている機能をできる限り維持し、向上させるプログラムの多様さをみせてもらった。保育園でもやはり子どもが1人で落ち着くことができる空間も用意され、能力をできる限り引き出すような仕掛けが多数あった。どこにいっても、出てくるキーワードはindividual、つまり個人なのである。ここが「近代」だから当然か。個人というかけ声がいつもあるわりに、実際には2の次の東アジア文化圏とはどうみても隅から隅まで違う。
 その延長上に、social workerの強い権限、保育士のプロ意識、施設マネージャーの経営者としての自負、などがある。学生から「日本で制度の一部を真似して取り入れてこうなるもんじゃない」という声も自然に出た。システムとしてみる社会学を体感してしまったらしい。
 けれども幸い、大学の講義を聞くに至って、現実に直面している問題の中身のと悩みの深さが意外にも近いこと、専門職の権限が強いがゆえの、何かあったときのバッシングの厳しさ、などが存在することがわかり、この2つの全く違うようにみえていた社会が、急に親しく見えてきたあたりで、旅の終わりが訪れた。めでたしめでたし。さて、また振り出しにもどって、どこから手をつけたらいいのかを考えていくことになる。
 あいかわらずリスが木にのぼったり降りたりし、カモたちが人間をみると近づいてくる公園。アンティークな住宅とすでに春に備え始めているガーデン。私にとってどうにも去りがたいイギリスの風景であった。とはいえ、帰ると食べ物がどうにもおいしく感じられるのも、間違いなく真実である。