そして原発を残すことを選んだ日本人

 たまたま投票権がなく、他人事のように終わった選挙。新聞も取ってないし、テレビもほとんど見ないから、何か変化があったっけ、という程度に終わった。わりとそういう人は世の中に多いのだろう。職業柄はまずいのかもしれないけれどもそれだけ政治が「軽い」。この国では。
 もちろん、個人的には重たく受け止めているし、完全なる敗北感を味わっている。単純にいえば、あの3.11の震災とそれ以後のフクシマにおける事故を、「たいしたことではなかった」とみんな信じたいということがあからさまになった。それは、マスメディアがつくっていた現実でもある。つまり結果は順当だ。そう、なでしこの世界制覇が愛国という雰囲気作りに強く貢献してしまったのも、危惧したとおり。
 ひどく日本人は傷ついているのだろう、と選挙結果を通して感じた。個々の政策を吟味して投票する人は少ないのだから、その手の論評はあまり意味をなさない。ひどい景気で身近な生活が痛んでいる。みんな目の前の生活に精一杯なのである。その痛みを「気持ちとして」受け止めてくれそうなところに票が集まった。民主党の人々は官僚みたいにあまりにも「情」が薄く見えるのである。
 安倍氏はとても感傷的な人。彼がお気に入りだと言う映画「ミリオンダラー・ベイビー」を見た時に確信した。私はあの種の美学が苦手なので、後味の悪かった映画として記憶に残る一作である。かっこわるくても無様であろうと生き続けようとする人を安倍氏は評価しない。だから恐ろしい。維新も「熱そうな心情」は伝わる。がっちりと論理で説得しようとした党派はことごとく消え失せつつある。日本人はそう教育されているのだからいたしかたない。安倍氏が種をまいた愛国的な教育方針がさらに強まることになる。学者稼業には厳しい社会である。
 原発はずっと日本人が気にしなかった問題である。こういう事故で意見や考え方を変えるような人は少なかった。そこに余裕のなさが露呈している。「愛国」が言い出される時とは、それが揺らぎつつある時。信条が崩れ落ちそうになると人はよりいっそうしがみつく。3.11後に自分の思考の正しさをかたくなに守るために、多様な情報を閉め出した人と、積極的に取り入れて行った人に、世間は大きく2分したが、後者はあいかわらず少数派である。自分がこの少数の中にいることを、これでもかというほど思い出させられた。
 そういう意味では、これからの人生をさばさば過ごせるという気もしている。少数の人とともに歩き続けるということで、よろしい。一時、さほど自分がマイノリティでもないような気がしたことがあった。幻想にすぎないと久しぶりにカツを入れられた感じ。10代の頃の原点に戻ったような軽快さもある。ずっと孤独感をひきずりながらも素晴らしい友たちと出会えた。それでよい。そして、サッカーという魔法のツールが、時には世界とつながっているという思いを与えてくれれば、そう、何とか生きていける。

卒原発のための環境社会学講座:6) 権力の集中から分散へ

 講座シリーズはきょうで最終回になります。原子力発電を残すかどうか、あるいは残るかどうかの分かれ目は、その社会が権力をどう配置させたいのかと関連してきます。少数の権力者が物事の可否を判断し、大衆がそれに従うといった構造の社会と原子力発電のやりかたは馴染みやすいでしょう。逆に権力が分散し、地域ごとの判断が重視されていくような社会では、原子力発電は排除されていくでしょう。
 今後も途上国で原子力発電が導入されていく可能性が高いのは、そういう権力構造がよくみられるからで、ドイツでさっさと脱原発が宣言されたのも、地域主権の徹底した国ならでは、と見ることもできます。すでにふれたように、地域主権を重視する政党が卒原発と主張するのは、そういう理由から理解できます。
 少数の権力者が物事の可否を判断する、というシステムで原子力中心で粘っている国に、フランスがあります。権力は相当に(パリに)集中し、エリート養成システムが徹底しています。ただし、その分、権力者への監視も半端ではありません。常に徹底批判されることを覚悟しながら、彼らも論理構成を鍛えています。なにかあったら、だまっているような国民ではないので、権力者も戦々恐々でしょう。
 振り返って、日本はどうでしょう。ここ数日の間に、原発の近辺に活断層が次々と発見されていることからもわかるように、やっていることがお粗末すぎて信頼して「権力者」に任せられる状態にありません。そのことは、3.11で痛いほどみんなわかったはずですが。でも、結局お任せしてしまう。誰も責任とりたくないのです。ぐるぐる、責任をトランプのババ抜きのようにまわしてるだけ。
 投票というものは確かに1つの責任を伴う行為です。残念ですが今回私は転居時期の問題で投票権がないようです。選挙権を得てこのかた、初めて投票に行けません!期せずしてすでに責任を逃れております。このブログを書くことは、唯一現状でできる卒原発のためのささやかな行為でした。さて、みなさん16日の投票はどうされますか?

卒原発のための環境社会学講座:5) 自然エネルギーは期待できるか

 そろそろ最もポピュラーな話題に。原発の代わりに自然エネルギーはどのくらい期待できるのか、という問題です。この話は少し丁寧に、出版予定の本(そういいつつ、なんと3年くらいたっている!)に書いたので、そちらを読んでもらえればよりありがたく思います。(http://www.pot.co.jp/green/20101012_163828493920011.html)ここでは、ごくかいつまんで解説しましょう。
 ひとことでいうなら、原発程度の電力を自然エネルギーで生み出すのは技術的に言えばごく簡単なことです。けれども、社会的にはいろんな障害があります。やろうと思えばできることなので、20年前に代替していたらいまごろ原発などなくてすみました。誤解の始まりは、人々が「技術の問題だ」と思っているところにあるように思います。適度に「技術」とか「理系」を持ち出すと、ごまかしやすくなるんです。
 自然エネルギー技術は、発展途上なのではなく、すでに商品化されているものばかり。これから研究、とかいっていたら補助金産業のための予算取りだと思って下さい。いまは研究より投資の時代のはず。私が特に期待している自然エネルギーは日本の風土に合う地熱と水力です。火山が多く地震だらけの日本とは、すなわち地熱を取り出すのに最も適した場所であるということで、モンスーン気候で雨がじゃぶじゃぶ降り、平地が少ないということは水力に最適。物理現象として考えればどうみてもこの2つが当確のはず。ついで、「バイオマス」も期待できる。
 それなのに、なぜこの3つより「太陽光」とか、「風力」などばかり注目が集まってきたのでしょうか。それは、原発の存在とまともに競合してしまうエネルギーが「地熱」と「水力」だから。わざわざはずされてきたと考えると整合がよいのです。巧妙であざとい中央の人々が考えそうなことです。マスメディアは、ずっと騙されて来ました。
 「地熱」も「水力」装置産業として世界での商売が期待できるのに、妙な規制でがんじがらめの日本に導入しにくい状態が作り出されています。そうこうしているうちに、海外でつぎつぎに商品化が進展してしまいました。それでも、元首相の管さんがクビと引き換えに成立させた固定価格買い取り制度は、じわじわと効いてくるでしょう。原発で提供されていたベース電源分が自然エネルギーでまかなえる日もさほど遠くないはず。
 「未来の党」代表代行の飯田哲也さんは自然エネルギー分野の玄人です。やっかいな人を相手にしなくてはならなくなったと、技術系官僚は非常に煙たがっています。彼が他政党の政治家から必死にこきおろされているのをみると、実力ある人だとよくわかります。必死で排除されるということが実力の証のようなものだから。私は将来、水力や地熱による自家発電でまかなえる地域に暮らしたいという夢を抱いています。

卒原発のための環境社会学講座: 4) 効率よくエネルギーを生みだす方法

そろそろエネルギー問題としても原子力が不要な理由の説明に移りましょう。まずは、電気というエネルギーはとても高級なものですが、人間は電気でなくても構わないエネルギーをたくさん使って暮らしていることを理解してください。都市ガスは家庭では電気と同じくらい存在感があります。ガスでお湯を沸かすとその場で大半のエネルギーが水をお湯にするために使われます。無駄がそうありません。では、火力発電するためにガスを使ったらどうなるかというと、残念ながら、最新鋭の設備をもってしても、半分以上は捨てられてしまい、電気として使うまでにいたりません。火力発電所は6割のエネルギーが温排水などで、海に流れているのです。もったいない話ですよね。でも、それを捨てないで使う方法があるのです。
3.11後の計画停電の時、六本木ヒルズにいる人々は涼しい顔で心配をせずにすんでいたことを知っていますか?自前で発電しているからです。発電と同時に出てくる熱を冷暖房や給湯などに使っているので、捨てられているエネルギーは3割ほどですんでいるでしょう。このようなシステムをコージェネレーションといいます。原子力ムラは長年このシステムがそれほど広がらないよう、様々な工夫?をこらしてきました。安あがりのこのシステムが広がりすぎると、原発がいらなくなるからです。北欧などの国々では暖房に有効なので集合住宅にほぼ標準的に入っていたりします。日本にも寒いところはいくらでもあるけれど、めったに導入されていません。
不思議に思いませんか?オール電化住宅はエコであるとの「でんこちゃん」の宣伝に洗脳され、理由は深く考えずオール電化住宅にしてしまいましたか?IHクッキングヒーターの熱効率がいくらよくても、電気を使う時点ですでに6割のロス。送電線が遠いとさらに、1割のロスが発生しています。そのことは黙っているなんて、ある種の詐欺に近い言い回しでしょう。そうまでしてオール電化住宅を推進した理由が、あまっている電気を夜に使ってくれるともうかるから。原発は電気しかつくれないし、夜もとめられず小回りがききません。そんななか、省エネの時代に消費が減らないように、電気依存のライフスタイルを作りあげるしかなかったのです。
原子力が止まっている間に、この設備を導入するところは増えるでしょう。でも、現状ではおとなりで発電していても自由に直接売ってもらえないままです。独占している電力会社が買い上げてから売るしくみだから。電話会社が自由に選べるように、電気も選べるようになることを、だから彼らは怖がりつづけて必死に阻止しようと、いろんな理由を並べつづけています。

卒原発のための環境社会学講座: 3) 安全が損なわれた労働を生み出す原発

 フクシマ以後、多少はメディアにとりあげられ目に見えるものとなった原発の下請け労働者のおかれたひどい環境はいまに始まったわけではない。ただ世間が見ようとしなかっただけだ。Youtube「隠された被曝労働〜日本の原発労働者」のシリーズでは、このあたりの丁寧なドキュメンタリーがみられる。1995年にイギリスのテレビ局が作成/放映したもので、日本ではこの種の内容になると、どうやら全く放映できないらしい。
 私が原子力発電という巨大システムにとうの昔にダメ出しをした一番主な理由は、実はこの差別された労働者の問題であった。原発はウランの採掘から始まり、定期点検中のメンテナンス、その後の核燃料処理などあらゆる工程で、汚い仕事が発生する。恒常的に被曝労働者を生み出すシステムなど、持続させてはいけない。環境社会学にも公害問題が起きる前にその物質を扱う労働者の健康問題として現れがちだ、という重要な知見がある。まさに、原発労働者にはこの構図があてはまる。広く薄く毒物が散らばる前に、労働者はより多く高い濃度で浴びるのだから。それを、「しかたがない」といえるのは、汚い仕事を誰かに押し付けることができる「貴賤のある」労働システムあってのことだ。
 そういうと、もっとひどい労働は世の中にたくさんあるのではないか、と言われるかもしれない。命をかけて戦地に赴く人だっているのだ、原発労働なんてたいして危険性はないのでは?という人がいたら、「すりかえないでください」といえばよい。それは無駄なリスクでしかないからだ。少なくとも、他の方法で電力を生み出す工程では、もう少しましな環境のもとで労働が営まれている。もっと直裁にいうなら、誰かが儲かる為に誰かの命を減らされている。しかも、黙って危険性を十分知らされずに。見えにくい放射能の特徴がここで最大限に利用されるのだ。
 事故後話題となっていたように、労働者の日給がいかに安かったことか。8次下請け!などという醜悪な搾取構造が蔓延しているという。時に、これを英雄扱いや神聖視してごまかそうとする輩も出現する。あえて管理を行き届かなくすることで、責任を霧散解消させているとも考えられよう。「原発ジプシー」という言葉は30年前からあるのに、正面から問題化することを政府も避けつづけてきた。自分の親族や友人が原発の日雇い労働者になることなどない、と思い込んでいる階層の人々が安心して、他人事として原発は安いと語る。厳しい職業階層が持続している社会だからこそ、原発はここまで延命できたのである。