難しい社会哲学の本を、忙しいからこそ読みたくなる。雑事に紛れている日々に、清涼な風を吹き込んでくれた本。初邦訳の貴重な論文集である。ポランニーはずっと気にとめてきた学者の1人だけれども、この論文集を読むとほんとうにすごい人だったということがわかる。人生の軌跡を含めて尊敬してやまない。無人島に一冊だけ持って行く本を選べ、と今いわれたら絶対これにする。
現代社会を考えるために重要な論点が散りばめられているが、彼が擁護しようとしている価値は「自由」なのである。その自由を希求するためには、権力と価値が制御される必要があると彼は考えている。そして、その制御の現場として具体的に彼が考えているのは、まさに人間の日常生活なのだ。「周囲の環境に対する、友人に対する、家族や人生の伴侶や子どもに対する人間の関係、自分自身の能力や仕事に対する関係、自分自身との関係、首尾一貫性と誠実さ、それらとともに人間は自分自身と向き合い、内面的良心に対して死によって制約された運命の責任を負う。ここに作用しているのが個人的自由であり、それによってはじめて人間は人間になるのである。」(p.34)
彼は、「大転換」で知られるように、市場原理主義への批判者であるが、「自由」というキーワードから理解してようやく彼の思考の深さが見えてくる。「複雑な社会」にあってそれが簡単に手に入れられるものでもない。誰かの自由が誰かの不自由を招きがちである諸側面に彼は目を向け続ける。考えてみると、私もずっとそのことばかり気になって研究をしてきた。
ところで、まさに目の前で起きようとしている橋下フィーバーを理解するのに、とても役立つ論文が第4章「ファシズムの精神的前提」に述べられている。ファシズムと経済がどう結びつくのか、これほどシンプルに説明したロジックを私は知らない。ファシズムは、資本主義に伴って引き起こされてしまう経済上の不平等化と、議会制民主主義という制度が意味する平等という理念のズレを調整する動きとして捉えられているのである。ファシズムに対置されているのは社会主義であり、社会主義が民主化された政治から経済を民主化しようとするのに対し、ファシズムは政治を廃棄して経済を絶対化し、経済から国家を掌握して国家を経済から「分離」しようとし、政治とともに「自由」の領域を廃棄するという。議会主義が機能不全になって経済が機能しなくなったときに、矛盾に満ちた出口を探そうとする大衆運動から発したファシズムという介入により、資本主義が救出されるというのだ。
「経済的に」思考する階層のあいだでこそファシズムが政治的な効果を持つという説明が腑に落ち、橋下徹の主張がようやく一貫性をもって理解できた。やはり彼は典型的な「ファシズム」を体現する政治家のようだ。そして、民主党政権誕生時から一貫して「ズレの調整」を社会はしようとしているのだが、その失敗があからさまになりつつあるいま、維新の会が調整役の受け皿となっている。
ファシズムと社会主義の闘争はつまるところ信仰戦争だという。「自由か支配か、人間と歴史の意味を信じるか信じないかが重要なところでは、最後まで戦い抜く決戦しかない」のだそうである。ファシズムではなく社会主義(あるいは経済の平等化)をめざすには、物質的利益を求めてはならず、流れに逆らって泳ぐしかないようで、ひもじさに負けて自由を売り渡したら最後、全体主義に敗北する。橋本徹は自由を擁護せずに、支配を好むことは明らかで、経済至上主義に堕している。私は自由を擁護する側に立つ。
しかし、対抗する勢力もまた、「今日のパン」に照準しているように見える。それは、日本人が日常世界で「自由」よりも「支配と今日の(より多くの)パン」を選んでいるところの反映でしかない。ポランニーが見ていたのは、その責任を結局引き受けていくのが私たちでしかありえないという、冷徹な現実であった。