試験の季節である。学生にとっては単位の認定をめぐって努力する短期勝負の日々かもしれない。振り返ればこれまで担当してきた講義と認定した単位の数は膨大である。認定基準はわりと自分の中でははっきりしているので迷うことは少ない。しかし、近年いくつかの経験を通して、単位制ってなんだろう?とあらためて考えさせられている。
高校でも単位制をとるところが増えてはきたけれど、厳格に「単位」を規準に進級や卒業が決まる経験は、大学で初めての学生が大半である。なんとなく学校にいれば進級し、卒業できる。これが日本の初等中等教育の実態である。不登校でも病気でも結構なんとかなってしまう。いろいろと「配慮」されるからだ。そのノリは大学でも続いてしまう。大学教員は初めて立ちふさがる嫌な役回りになる。
大学での単位認定には学生の個別の事情に、どこまで「配慮」することがそもそも期待されているのだろうか。明確な規準が示されることは稀で、個々の教員の判断に任されているケースが多い。大学によっては(非)公式に、本人どころか職員から「体育会なんで配慮を願います」と頼まれる。職員が自分の親族に「配慮」をそれとなく要請してきたことさえある。立場の弱い非常勤講師時代であったけれども、「配慮」はしたことがない。幸い「配慮」する必要もなく単位認定できたので問題はなかったが。
体調が悪かったり怪我をしたり親族の世話をしたり、と欠席の理由は数多あるにせよ、講義にほとんど出られなかったり試験を受けられず、レポートも出せない、という状況では単位は認定されなくとも、しかたがないであろう。そこを「配慮」してほしい、といわれることが結構あるのだ。
私はその「配慮」を頼む側の理由にとても違和感がある。予定どおりスケジュールどおり卒業できないと就職できない、といった一斉卒業と一斉就職の呪縛に、本人も周りもがんじがらめになっていることがあるからだ。新卒でないと「よい就職」にありつけない、という側面が現代日本にまだあるにせよ、私にそう懇願されても、説得されようもない。
「4年で大学を卒業してすぐ就職しないと、人生が終わる」みたいに考えている人には、「それさえできればうまくいくほど人生甘いもんじゃない」と伝えたい。そういう神話をみんなで作りあげている不自由さから、そろそろ「一斉に」降りてみてはどうか。単位制とは、もう少し自由な学びを支える認定のしかたであったはずなのだから。
専門家であることの軽さ
ずっと気になっている日本社会らしさの一面に、専門家よりもゼネラリストが世の中を取り仕切っている、という現実がある。この一両日に、それを思い出させられた。1つは、伊藤淑子「21世紀イギリスの子どもサービス」を読んで、あらためてイギリスのソーシャルワーワーカーは、重要な判断を任されているな、と思ったこと。そして、同時に強い制度でソーシャルワーワーカーも守られている。よく知られるように、日本で子どもの虐待死はたらい回しになっているうちに生じることが多い。構造的に担当者がはっきりしない(させない)のである。裏返すと、責任持たされても困るような脆弱な制度になっている。
もう1つは、全然違う方面とはいえ、国会事故調の福島原発に関する分析を読んで、「専門家はどこで何を判断していたのだろう?」と考えたこと。国会事故調では、学術界はあまりにも陰が薄かったからである。「水素爆発するとは思わなかった」と能天気に語っていた、当時、原子力安全委員長だった班目氏がその後もずっと委員長をやっている意味がそもそも理解不能だ。
専門家っていうのは、判断を間違っても平気でその地位にいられるものなのか?歴史をひもとけば、水俣病の原因を間違って推定し、かく乱させた「有名」大学の教授がぞろぞろでてくる。早くから因果を正確に読み解いた宇井純氏は東京大学では最後まで助手(いまの助教)。3.11のあと正確に推移を予測していた小出氏は京都大学助教。どちらも、誠実に真実を見つめている。そういう人を、学者というのだと私は思っているが、出世はできないらしい。国会事故調をまとめた黒川清氏は学術会議のトップなので、業界を上り詰めた人といえるだろう。そのせいか、身内とも思われる(東京大学の)専門家にはおとがめもない報告書となっている。
どうも日本で、専門家は重たい判断を期待もされていないから、軽く扱われる。そして、専門家にもさほど緊張感が感じられない。どちらが先ともいえないだろう。委員会は形骸化し、人数をやたら集めて発言を少しさせ、さらに責任を雲散霧消させるのだ。博士号など吹けば飛ぶような価値しかもたないのもそのあたりに理由がある。ジャーナリストは専門領域が重視されていないし、中央官庁では、数年ごとに部局を移動するから日々がお勉強。結局、手際よくお勉強して吸収するのが得意な人たちが、重宝されていく。途中に判断する人がいない以上、だれが責任をひっかぶるのか、というと結局トップに負わせるしかないわけで、菅元首相と官邸が汚名を着せられたといえる。
私は、学者のはしくれとして、たとえ期待をされなくても少しはましな判断ができるように、日々精進したい。研究から引き出された結論を撤回しなければならないような事象はまだ起きていないのは幸いだが、自説が浸透しているとはいえない、というあたりが寂しい。
もう1つは、全然違う方面とはいえ、国会事故調の福島原発に関する分析を読んで、「専門家はどこで何を判断していたのだろう?」と考えたこと。国会事故調では、学術界はあまりにも陰が薄かったからである。「水素爆発するとは思わなかった」と能天気に語っていた、当時、原子力安全委員長だった班目氏がその後もずっと委員長をやっている意味がそもそも理解不能だ。
専門家っていうのは、判断を間違っても平気でその地位にいられるものなのか?歴史をひもとけば、水俣病の原因を間違って推定し、かく乱させた「有名」大学の教授がぞろぞろでてくる。早くから因果を正確に読み解いた宇井純氏は東京大学では最後まで助手(いまの助教)。3.11のあと正確に推移を予測していた小出氏は京都大学助教。どちらも、誠実に真実を見つめている。そういう人を、学者というのだと私は思っているが、出世はできないらしい。国会事故調をまとめた黒川清氏は学術会議のトップなので、業界を上り詰めた人といえるだろう。そのせいか、身内とも思われる(東京大学の)専門家にはおとがめもない報告書となっている。
どうも日本で、専門家は重たい判断を期待もされていないから、軽く扱われる。そして、専門家にもさほど緊張感が感じられない。どちらが先ともいえないだろう。委員会は形骸化し、人数をやたら集めて発言を少しさせ、さらに責任を雲散霧消させるのだ。博士号など吹けば飛ぶような価値しかもたないのもそのあたりに理由がある。ジャーナリストは専門領域が重視されていないし、中央官庁では、数年ごとに部局を移動するから日々がお勉強。結局、手際よくお勉強して吸収するのが得意な人たちが、重宝されていく。途中に判断する人がいない以上、だれが責任をひっかぶるのか、というと結局トップに負わせるしかないわけで、菅元首相と官邸が汚名を着せられたといえる。
私は、学者のはしくれとして、たとえ期待をされなくても少しはましな判断ができるように、日々精進したい。研究から引き出された結論を撤回しなければならないような事象はまだ起きていないのは幸いだが、自説が浸透しているとはいえない、というあたりが寂しい。
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