常勤と非常勤のあいだ

すっかりごぶさたしてしまいました。この4月より(久方ぶりに)常勤の職につくことになり、単身で関東圏に舞い戻っております。多くの方々に、まだ何もお知らせしていなくてすいません。連絡先に変わりはないため通知は出しませんがお許しを。これで家族全員ひとりずつ、ばらけました。相変わらずお騒がせ家族です。
ところで、ようやく連休に一息入れられたので、記憶の薄れないうちに、書いておきたかったのです。常勤と非常勤のあいだにある、「世間」の断層を。ここしばらくたくさんのおめでとうを言われました。その言葉はとてもありがたく、素直に受け止めてはいます。自分が相手の立場でも同じような声かけをするかもしれませんし、喜んでくれる周りの方々には心から感謝しています。常勤職につくことを就職とするなら、確かに就職とはむしろ周りの人のためにするものなのだ、と思ったりもしています。それに将来の制度がどうなるのかはともかく、共済年金に入れるのはありがたいことです。国民年金だけでは老後は食べていかれませんから。
それでもやはり、「おめでとう」という言葉にどこかにひっかかりを感じているのも事実です。私自身は非常勤講師でいることを不完全な状態とも不幸とも思っていませんでした。乙武さんが言ったような、障碍は不幸ではないが不便ではある、といった感覚でしょうか。1つ例をあげましょう。試験の答案を回収したとき、オフィスのない非常勤講師はその答案を持参して自宅で採点をします。数百枚の答案は持ち帰るには重いので宅急便で送ることもよくありますが、大概は着払いなど自前で払います。常勤であれば、そもそも試験答案を持ち帰らなくても研究室に持参して手が空いたときに採点できますし、自宅に送るにも公費(研究費)で可能でしょう。情けなさを感じるのはそんな時でした。
ただ、大学で常勤職員のポジションがない、ということに対し大学業界内での受け止め方には、自分とかなりの温度差があると常々感じておりました。やはり「就職」へのこの社会の価値づけは大きいのでしょう。入学することが節目になっている社会の延長に、入社があるのですから。そして、組織の中にいると日々内向きになってしまう環境があります。大学教員としての常勤職は初めてであっても、私にとって仕事はずっとつづけてきたものです。その意味からいうと、仕事の外的環境に変化があったとしても、内的状態にさほど大きい変化はありません。変わらないのに変わったのは「待遇」と「世間の目」でしょう。この落差をどう埋めていくべきであるのか、私なりに納得できる対処方法をぼちぼち思案中です。