天皇杯で年が明け、アジアカップで1月が終わった。すべての講義のお仕事も無事に終了。さて久々にサッカーを語ろうっと。この季節、私もフットサル現役復帰中。しばらくボールに触っていなくても、プレーのイメージがてんこ盛りでかなり楽しめています。でも、期待して購入したサッカーマガジンの分析は、ちっとも面白く読めなかった。
じつは元旦から国立まで応援に行ったのです。わが清水エスパルスの応援に。結果は惨敗。新年そうそう厳寒の中負けたのですから体の芯まで冷え込みました。岡崎がアジアカップで「優勝」の喜びをかみしめている裏には、あの悲しい銀杯の苦難があったんですよ〜(しくしく)。目の前にせまった優勝への期待をこめて老若男女のサポーターが詰めかけたスタジアムで、勝てなくても選手をねぎらい、健太監督をはじめクラブを去る選手に最後まで惜しみない拍手を送り、淡々と帰るサポーター。
静岡からこだまに乗ったので、行きの新幹線はすでにサポ列車。前の席には、70代はすぎていると思われる老夫婦。長い応援旗などを持参している本格派でした。隣の母子は、たぶん先発隊ででかけた父親と合流するのでしょう。3歳くらいの女の子が30番(小野)のユニフォーム着てるなんて、にくいなあ。黙々と横断幕を片付けている60代のおばさま3人組は、応援ユニフォームにほぼ選手全員のサインが入っている。これが、エスパルスの(熱いゴール裏ではない)一般的サポーターが座る席で見る風景なんです。帰りがけ、無言あるいは小声で語り合うオレンジサポ。電車のホームや駅中で会うと心の中でねぎらい合うのです。その暖かい集団に属しているという想いだけで、また一年生きていけるんです。だから勝てないのかも(笑)。
ところで、ザッケローニが来てから、日本代表はどうしてあんなに急速に魅力的に変わったのでしょうか。批評家たちはちっとも疑問に答えてくれません。もしかすると彼らはどうもその変化を「感じて」いないのかもしれない。試合を見ている普通の人たちの方がずっと敏感に、わくわくできる代表サッカーを楽しんでいる。なんでだろう。
変化を言葉で語りにくいことも一つの理由でしょう。日本でメディア受けしそうな話題はあまりない。奇をてらうスローガンもないオーソドックスなサッカースタイル。新しいレギュラーのメンバーだって、DFの吉田、FW前田、MF香川くらい。中沢と闘利王がいないから守備が不安定だった、とかいわれることもある。いやいやいや。全然そう思わない。私はあの2人の組み合わせはいいと思わない。今野をセンターに入れたってことがまずすごい。彼は細かく予測し未然に様々なことを防いでいます。あのクレバーなプレーは中沢と闘利王コンビでは実現できない。
ザッケローニが決定的にいままでの監督と違うのは、ふつうに選手をリスペクトしているところ。選手の1人1人が世界の一流の水準と変わらない、という前提でチームをつくっている。監督の期待の水準に、選手の方が合わせていったんです。できるといわれればできる。メンタルで支えられた自信が劇的にプレーを向上させました。なんと長友は、ついに頂点までアクセス中。リスペクトしたことは初めてではないんです。ジーコはみんなうまいんだし、並べれば大丈夫とやっていた。でも、日本は四天王のいるブラジルチームではなかったので、残念ながら、無理があった。監督としての「普通」の能力に欠けました。
リスペクトするという前提から出発すれば世界スタンダードな戦術がとれます。1対1が同じ水準だと仮定しないとなれば、やたらに局面で人数かけろとか、余分に走るとか、リスクを避けるプレー中心になるとか、相手のよさを消すことにやっきになったり、特殊なことをしないといけなくなる。アジアでは、最初から堂々と王者のように振る舞えるようになりました。だから、負けていても逆転して、追い込まれても最後に勝てる。見ている方も負ける気がしない。試合の始まる前に勝利を予測することができる。鹿島にあって、清水になかったことが、これなんです。(ゴトビさん、大々的改革よろしく。期待しています)。
オーストラリア戦最後の李のような、目の覚めるようなFWのボレーで点がとれるチームを代表に持つことができるなんて、少し前には想像ができなかった。前田も香川のシュートもなぜかカッコいいのです。(岡崎のよさは、そこにはないけどー(^^))。こういう形になったら、決まるよな、ってところで決まる。「ふつう」のヨーロッパ風サッカーの感覚で見られます。なんでいままでできなかったのか。実はそういうことができる選手がちゃんといたのに、監督やコーチに見えていなかっただけなのではありませんか?
この閉塞した時代、サッカー日本代表の界隈には、気持ちのいい空気が流れているようです。その空気が社会にもきっと少しずつ流れてくるでしょう。私も春の予感とともに新しい一歩を踏み出そうっと。