ようやく手当たり次第乱読する読書三昧の夏休みを過ごしている。手に取ったうちに2冊の一般書があったので、感想文書いておこうっと。ちなみに子どもの頃から、この宿題は大嫌い。ブログに書くときと、要求される「心構え」がちがうからかな。
1冊目は「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」。普通の書店で山積みになっているし、かなり広く手に取られている本である。ずっと念のために読もうかどうか迷っていた。私も戦前の家族生活などを別の資料で扱っているので、このころの政治の動きを、ざっとおさらいしておくことにした。一般むけ企画としては、大変すばらしい。教科書らしく、中立で偏りない記述がつづく。学術的にも手堅く一次資料が提示され、新しい論文を参照して説明がなされる。高校生のほどよいつっこみ、文句のつけようがないまとまりのよさ、イラストのかわいらしさが印象的な本である。
しかし、どうにもつまらなかった。加えて意外とあざとい「つくりこみ」を感じる。この本は、歴史とはかように込みいった現実とともにあることを自分の頭で考えられる力を身につけさせたい(歴史的思考力を獲得させたい)、という立場を主張しながらも、答えはこうだと言われていますよ、と1つ1つの史実がどう展開したのか場面ごとの解釈を示すことに終始している。けれども、肝心の一本筋が通った答えはみえてこなかった。著者も何回も文中で嘆いているように、「なんでそこでそう判断しちゃうかなー」というあたりは、結局よく説明できていないのである。これでは、いくらみんなが本を読んでお勉強して知識を身につけたところで、日本人はまた同じことを繰り返すのではないか。しっかりそのなりゆきを説明できてこそ、その先に社会は進んでいける。「歴史は、内気で控えめでちょうどよい」といわれても、最初から煙幕を張っているような気がしてしまう。
2冊目は全く逆のタイプの本だった。「「新聞記者」卒業:俺がブンヤを二度辞めたワケ」これは掛け値なしに面白かった。とても品格ある文章とはいえないが。なんせ、主語は「オレ」だし。なぜこんなに180度違うスタイルの本を同時進行で短期集中読破したのかよくわからない。でも、そのことで自分の立ち位置をあらためて考えられてよかった。一言でいえば、1冊目の本は日本社会における「よい(女の)子」の本、2冊目は「悪い(男の)子」の本なのだ。肩書きも東大教授、正社員を辞めてるフリーライター。「悪い子」のすがすがしさといったら、これ以上ない。まあ、私はかなり「悪い子」に近い筋になるに違いないが、日本社会にじつは「悪い(女の)子」の居場所はない(^^;;;;;;;;;
このような筆力のあるスゴい記者さんが結局外にはじき出されてしまうほど、いまの大新聞はじめとしたマスメディアという組織はおかしい。常々私もそう思ってはいたが、この自伝的ノンフィクションには強い説得力があった。恨みつらみのようなチンケな立場から書いていない、しごく一貫性のある筋の通った本である。
じつは、1冊目の本にかかれていない回答が2冊目の本に書いてあった。終章で引用されている中江兆民の言葉「日本人は利害にさといが、理義(道理と正義:大辞林)にくらい。流れに従うことを好んで、考えることを好まないのだ...。」100年前といまの日本と頭の中がかわっていない、と著者はいう。一方、1冊目の本には「日本の植民地はすべて、その獲得が日本の戦略的利益に合致するという最高レベルでの慎重な決定にもとづいて領有された」というアメリカの研究者からの指摘が引用されている。実にすっきりとつながるではないか。
私が思い出したのは、日頃から典型的に展開されている気候変動問題に関連する新聞記事の中身である(研究中)。ほとんどの場合「日本の利害」を巡って議論は行われていることに、違和感が表明されることはまずない。歴史を学ぶことは、やはり現代とつなげて過去を振り返るところに重要な意味がある。少なくとも社会学という学問は、そこに自覚的であるべきだろう、とあらためて自戒した。