「ザ・コーヴ」の後味

ずっと気になっていた問題のドキュメンタリー映画。やっと見られた。それも自宅にほど近い小さなシネマテークで上映してくれたのがうれしい。撮影地の三重県太地はすぐお隣の文化圏。海水浴にも出かけたことがある。イルカやシャチのショーを子どもと見にいったおぼろげな記憶が映像からよみがえる。深く海岸線がえぐられた入り江(The cove)の奥にひっそりとたたずむホテルのプライベートビーチは、これまでの人生で経験した最高の海岸だった。でも、近くにある入り江に秘密のイルカ屠殺場があったとは知らなかった。
帰りに食事に寄るとさすがに喉を通りにくかった。ああ、後味が悪い。吐き気を催しそうになるなんてめずらしい。映画がそれだけ影響力のある、優れたものだったということだろう。もっと単純なプロパガンダ映画だったらかえって心が重くならなかったと思う。マイケル・ムーアの作品のような押しつけがましさもない。イルカと人間の関係を考え続けた1人の男性の物語として丁寧に仕上げられている。太地のイルカ漁は、彼が終生反対しつづけているイルカショー産業への輸出基地を追う過程で出会った1つの場にすぎず、それがたまたま日本だったということだ。
それにしても、この映画がなぜ日本文化を批判するものとして右翼の妨害にあったり、上映中心になったりするのか不思議だ。マイケル・ムーアの辛辣な米国批判映画を見慣れている人は、その控えめな作りかたに歯痒さを感じるくらいなのではないだろうか。批判されているのは食文化などではなく、問題を隠蔽しようとしつづける関係者の態度だったり、捕獲と屠殺の方法がイルカにひどい苦痛を与えるものであるとか、肉の水銀値が高いのにそれをちゃんと調べないまま官庁が放置している事実である。
実際この映画のあと太地では住民の毛髪検査が行われ、水銀値が全国平均の4倍になることがわかったようだ。普段のクジラ・イルカ肉を食べる頻度と水銀値に相関もあった。食物連鎖の上位にくる魚が危険であることは、環境関連の講義で以前から話していたので知っていたが、この種の情報は十分に人々に知らされていない。データの水準はともかくこの事実を公に主張しただけでも意義がある映画だ。
マスメディアに登場する論者は偏った見方であることを強調する。だが両論にふれて、はい、おわりのNHKではないのだから特定の主張にそってドキュメンタリーがつくられるのは当然で、そこを批判しても意味がない。主張がどれだけ説得力をもって語られているかということに注目するなら、上々であったと思う。対抗運動とは許可を得て行うものではない。どういう根拠で自然の海岸に入ってはいけないのか、という根拠を示すのも実は難しい。血にそまる入り江をあまり人に見せたくないもの、として立ち入り禁止の看板で囲い込んでいる時点ですでに堂々と主張できる「文化的営み」とはいえない。そのことを、一番感じているのは関係者たちだろう。立ち入り禁止状態が映画をスリリングなものに仕立ててしまったということも皮肉である。
いるかやくじらをカワイイと愛でる街のすぐ横にある入り江で行われ続けるグロテスクな営み。その共存の様子がシュールでホラー映画のようだ。アメリカの美しい郊外に突然起きる殺人事件、というあの定番の設定と似ているようで少し違う。もっと自然にカワイイとグロテスクが共存してしまっている。この共存のしかたに慣れている日本人である私にとっても、この現実は不気味で続いてほしくないものだった。映画を見たことで、イルカショーを素直に楽しめなくなり、ベジタリアン度も高まりそうだ。

「家族主義」に期待する不幸

ここしばらく家族というものの存在を考えさせられる事件がつづいた。都内の男性最高齢とされたお年寄りが、同居家族がいながらミイラ化した死体で見つかったケース、幼い子ども2人が置き去りにされ、泣き叫んだ声で近隣から通報がされたにもかかわらず放置され、救えなかった事件。どちらも家族という高い壁に阻まれて、個人が守られなかったという共通の事情が背景にある。日本社会の制度は理想としては家族主義を掲げているが、現実には福祉の担い手として家族が機能しているわけではない。その事実を象徴する事件が続いたと感じている。
テレビのインタビューで、都知事があいかわらず「家族は何をやっているんだ」などと発言をしているのが虚しい。誰にでも暖かいケアを提供してくれる家族がある、という時代は昔もなかったし今もない。行政は何もしていないことが露呈されたのに、責任を転嫁して幻想の家族主義に頼ろうとする。その態度が「消えた高齢者」をたくさん生み出したことを反省してほしい。家族はいつも「よい機能」を発揮しているわけではない。DVや虐待は後を絶たず、日本の殺人の4割以上が家族内で起きている。年金取得のために手段を選ばないことも十分ありえる信用ならない存在だと、疑う余地を残しておいた方がいい。
社会が大きく変化したのに、制度の変革が追いつかなかったのだ。第二次世界大戦後の民法は、戦前の家制度を曖昧なかたちで温存させてきた。国民は個人単位で登録されるのではなく、戸籍という家を単位として登録され、さらに世帯単位で住民登録されている。これらの書類上の住所は、実際に居住している場所と一致することは強くは求められていない。つまり、私たちは3つのアドレスを使い分けることができる。このような複雑な制度を持つ先進社会がまず特殊なのだ。したがって、本人確認をする立場にある自治体の担当者が、簡単に行ける範囲に本人が居住していないこともめずらしくはない。基本的な制度上の不備なので、相当に大量の確認のとれない人が存在するであろう。
人口に関わる基本データさえ怪しくなってくると、「消えた年金」なみにショッキングな出来事である。どうも長妻大臣は、「消えた」ものをちゃんとチェックさせる人なのですね。通常、制度の単位が個人になっている社会では、このようなことは起きにくい。家族が世話をする、といって曖昧に代行することができないからだ。常に本人確認の作業が入ってくると外部との接触は遮断されようがない。
家族に加えて、いつのまにか行政の機能を代行していた地域の共同体、いわゆる世間の目も消えていた。集落単位で監視しあう社会を、私たちはやめたいと感じ都会へと流れついたのだから、そろそろ実態にふさわしい制度をつくろう。世襲の政治家たちは、生まれてこのかた東京育ちでも、地方の代表として選挙に出る。住民票が実態と最大にズレているのが政治家なのである。その状況をあたりまえのように認めてきた日本人の感覚は、この事件がおきる前からとっくに麻痺してしまっている。