母と見た「レオニー」

「映画でも見ない?」と誘われた時にはよく知らず、乗り気でなかった「レオニー」。イサム・ノグチの母親の人生を描いたストーリーである。私は普段、母とは映画の趣味が違うので一緒に見に行くことはめったにない。ところが、ちょうど映画をみたいこの時期、これしかないことがわかり期待して一緒に出かけた。
松井久子監督が出資者を広く募り、長年かけて構想を暖め、渾身の力を込めてつくった作品である。賛同者には著名人が名を連ねている。確かによくできた映画だった。印象に残るセリフも多い。字幕翻訳者をみたら戸田奈津子さんで、母が「ああ、なっちゃんだったのか」とつぶやいた。彼女たちは古い友達なのだ。だから余計に、この映画がどこか少し物足りないのを2人して残念がっていた。
それでも、ジェンダーに関心がある向きには、必見の映画となることは間違いない。興行的なことを考えるなら、レオニーでなくイサム・ノグチの名前をタイトルに潜ませるだろう。あえて、レオニーという女性に光を当てた心意気ある映画なのである。第二次世界大戦の前、米国でも女性はまだ家に入り主婦となることが当たり前とされていた時代、自由と自立を求めて奔放に生きた米国女性がレオニーだ。詩人で日本人の父ノグチに編集者、いや共著者として雇われ重要な仕事をしながらも、陰でありつづけたまま一生を終えた。才能を男にうまく使われてしまった歴史上数多いる女性の1人であろう。
しかし、結局レオニーは息子が著名な芸術家となることで存在を知られた(教育的な)母として描かれている。女性は"息子"の母となることでようやく認められるのか。そうであって欲しくはない。娘との葛藤はほんの1シーンでしか語られていない。そこにも、偽善やごまかしが潜んでいる。つまり、娘よりも息子に懸けるありがちな母親なのである。娘は女性で自分同様社会的地位を得にくいものだという無意識がそのような非対称を生むのかもしれない。
本人の人生が“息子の母"としての存在を上回ることはないのか。そうでなかったとしたら、“息子の母"で居続けようとする甘さに、もっと厳しい目を向けてほしい。そう描くことも可能だったはずだ。脈々と続くこの社会の根深い病理に、結局この映画は切り込むことを避けている。描き手と賛同者たちからなる「自立する」女性たちが、結局その構造の外に出られずに病理を再生産をしつづける当事者であることを、「レオニー」はあからさまにしてしまった。

午後の読書:アレックスと私

一息入れてふらっと入った近所の本屋でみつけた本。一気読みしてしまった。
「思考して話すヨウム(オウム)」と女性研究者ペパーバーグが過ごした日々の出来事が書かれている。いろいろな意味で泣かされるストーリーだった。parrot にはめっぽう弱いので。
ペットを飼ったことがある人なら誰でも、高いコミュニケーションの力を彼/彼女が持っていることは知っているだろう。でも、その表現を人間の言葉でできるように訓練するのは大変なことだ。幸いオウムたちには、人の声を真似できる能力が備わっている。You cube でもアレックスをみたが、素朴だけれど確かに相互の会話が成り立っていた。けれども、インコやオウムの飼育経験がある人なら、むしろ訓練すればできるようになって当然と思う行動が多いのではないだろうか。
私の飼っていた小型インコのセキセイでさえ、かなり高度な頭の使い方をしていた。人を見分ける、ということは当然形の識別ができるということだから、そこに言葉を与えてやるのはそう難しくないと思う。彼女は確かに「ペキちゃん」とは自分のことだとわかっていた。その上で、「ペキちゃんかわいい」としゃべっていたように、私には聞こえた。スズメがきたら、スズメ語?で呼びかけ、人間がきたら日本語を使い、気に入った音楽が聞こえて来たら合わせて歌い、リズムをとっていた。ダンスは以前にいたコザクラインコのネボちゃんの方がうまかったけど。より頭がいい大型のオオムなら、当然思考ももっと高度なはずだ。
本を読んであらためて気になったのは、こういう飼い主たちが共有しているもろもろを科学的な学術論文の形式に整えて認めてもらうことの難しさである。そして、そういうことを研究しているヘンな女性研究者がまともな職を得ることの難しさ、もにじみ出ていた。科学的な客観性とはどう担保できるのか、あらためて考え込んでしまう。このあたりの悩ましさは、声をはっきりもたない乳幼児の研究でも起きていることだろうし、科学で説明しきれていない数多の現象を、どう人は認知できるのかという根源的な問題をつきつけられているように思う。
学術の世界は、すべてを明らかにすることもできないし、そこで認められた事実だけが真実とはいえない。謙虚でありつつも、より真実に近づく努力を続けるしかないのだろうか。

学会という社交の場を終えて

この週末は名古屋で学会があり、あっという間に過ぎてしまった。学術業界にいる人にとっては、学会とはお仕事に欠かせない会合である。だから社会学者を名乗る私にとって日本社会学会とは重要な場(であるハズ)だ。久しぶりに共著者に名を連ねて参加した。むかし指導教官に、日本社会学会会員であれば所属がなくても社会学者!、と聞いてなるほどと単純に納得して入会し、誰も知り合いのいなかった沖縄の学会に参加してから15年。今日までに、ほんとうにたくさんの知り合いが増えた。そして今回も新たな出会いがあった。
大学に社会学の先生がほとんどいない環境で院生をしていた私にとって、人との出会いはすべて「学会」という場を通じたものである。研究発表を数多くしたわけではないけれど、発表内容に関心を持ってくれた人と知り合いになったり、学会が公募する研究活動へ参加したり、純粋に学問を通じて接点が広がった。そうやって学会に育ててもらったのだと思う。
ところが、多数の院生仲間のいる大学の人は違うようだ。それぞれの出身の仲間を中心に同窓会を楽しんでいる。せっかくの学会なのになんだかもったいない気もする。所属の大学やゼミの先輩後輩などを超えた学問上の刺激を、どこまで学会という場が提供できているだろう。かくいう私も年々知り合いが増えて話す人が固定化していく気がする。少し反省である。
たまに行く海外の学会が純粋に楽しいと感じられるのは、知らない人と交流する機会が日本の学会より多いからだろうか。セッションを組織するリーダーが先導してどこかに出かけたり、1人で参加しても困らないようなシステムになっていることも多い。若い研究者の発表が中心というわけでもなく、年齢も所属も関係なく研究内容だけで丁々発止する緊張感も高い。学会がそこまで重要な場になっていない日本では、そもそも忙しい中堅の研究者の多くは参加すらしていない。
とはいっても、ふだん自宅と大学を往復し、あまり他の研究者と会わない生活をしている私にとって、この2日間に会えた人と話した時間は本当に貴重なものだった。ああ「社会学」を日々やってる?人がこれほどたくさん日本にいるんだな、としばらく自分に仲間がいることを思い出しながら、日々過ごすことができそうだ。

素直に喜ぶアルゼンチン戦の勝利

こういうのを幸福な出会いというのだろう。ザック監督と日本サッカー代表選手たちのたった5日間が途方もなくすごい結果をもたらしてくれた。わがエスパルスの岡崎のゴールには、思わず(テレビの前で)絶叫してしまった。金曜の夕方、東京の仕事先から直帰してみたかいがある。
つい数ヶ月前にあのようなサッカーをしていたメンバーが、まるで違うサッカーをすることができる。やはり監督を変える、というのはそういうことなのだ。ああ、数ヶ月前ワールドカップの直前にザックに頼んでおけば、という後悔まで生まれる。なーんだ、ほら普通にやればいいんだよ。奇策なんかいらない。十分実力あるんだからさ、みんな自信もってやろうよ。トルシエもオシムも同じことを言わんとしていたはずなのに、なぜザックは同じことを短期間に選手にしっかりと伝えられたのだろうか。(ディフェンスの体の向きからという指示には驚いた!代表なのにどれだけ基礎から。。。)
熟慮の上で選ばれたというわけではないけれど、たまたまイタリア人だったことが大きいと思う。あの国はメンタリティがヨーロッパの国の中では日本人に近い。私はあまり好きではないけれど、ウエットな情感が共有できる。北野の映画がカンヌでなくヴェネチア映画祭でグランプリを取ったことも偶然ではない。言葉が違っていてもそこがわかり合えていると、意思疎通は早いだろう。スペイン系の監督に引き受けてもらえなくて「偶然」助かった。ザックは繰り返し「自分が日本人に合わせる」と言っている。これまではっきりそう言った外国人監督はいない。彼がイタリア人の中では、どまんなかの人でなく、少しはずれた人であったことも幸いした。理想はともかく、ムリなものはムリ。ザックによってはじめて、オシムがやろうとしても成し遂げられなかった「日本のスタイル」が見えてくるかもしれない。うーん、ライオン(だっけ)に追いかけられて肉離れをしてしまうウサギは日本にはいるのですよ。オシムが足りないと嘆き続けた戦いつづける社会のメンタリティには、およばなかった私たち。
スタイルとしてもとっても気持ちがいいサッカー。同じように守備から入っているはずなのに、どうしてあんなに岡田ジャパンと違うのか?みんなチャンスとみればタテへと急ぐ。この勇気がワールドカップでどれだけみたかったか。指揮官の落ち着きと自信があれば、こうやって前に出られる。選手は監督の無意識と一体化するのであって、うわっつらの言葉には惑わされない。あのストレスのたまる二重なねじれた言葉が飛び交う緊張空間がなくなり、選手の体は開放され、伸び伸びプレーしている。そういう意味では、原さんが指揮をとった2試合もそうだった。ずれ込んでも交渉をしていた彼の功績は大きい。最後に、きちんと鍵をかけていく(カテナチオ!)交替のしかたも、繊細かつ明確で感心。
おおげさにいうと、この勝利への自信は、あとで振り返って日本社会のいろんな転換点になるほど大きいような気がしている。私たちに強いサッカー代表がある、と思えたら、なにかと被害者意識や卑屈に傾きがちな日本人の心強いお守りになる。アジア隣国の蔑視などに傾かず、余裕ある態度も保てる。右翼のような活動でなく、日本代表で愛国活動してもらうほうがどれだけよいか。
この幸せがつづくのか、それだけが心配とはいえ、このアルゼンチン戦を胸にきざんで残りの人生を生きられるだけでも、至上の喜びである。

夏休みの読書感想文

ようやく手当たり次第乱読する読書三昧の夏休みを過ごしている。手に取ったうちに2冊の一般書があったので、感想文書いておこうっと。ちなみに子どもの頃から、この宿題は大嫌い。ブログに書くときと、要求される「心構え」がちがうからかな。
1冊目は「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」。普通の書店で山積みになっているし、かなり広く手に取られている本である。ずっと念のために読もうかどうか迷っていた。私も戦前の家族生活などを別の資料で扱っているので、このころの政治の動きを、ざっとおさらいしておくことにした。一般むけ企画としては、大変すばらしい。教科書らしく、中立で偏りない記述がつづく。学術的にも手堅く一次資料が提示され、新しい論文を参照して説明がなされる。高校生のほどよいつっこみ、文句のつけようがないまとまりのよさ、イラストのかわいらしさが印象的な本である。
しかし、どうにもつまらなかった。加えて意外とあざとい「つくりこみ」を感じる。この本は、歴史とはかように込みいった現実とともにあることを自分の頭で考えられる力を身につけさせたい(歴史的思考力を獲得させたい)、という立場を主張しながらも、答えはこうだと言われていますよ、と1つ1つの史実がどう展開したのか場面ごとの解釈を示すことに終始している。けれども、肝心の一本筋が通った答えはみえてこなかった。著者も何回も文中で嘆いているように、「なんでそこでそう判断しちゃうかなー」というあたりは、結局よく説明できていないのである。これでは、いくらみんなが本を読んでお勉強して知識を身につけたところで、日本人はまた同じことを繰り返すのではないか。しっかりそのなりゆきを説明できてこそ、その先に社会は進んでいける。「歴史は、内気で控えめでちょうどよい」といわれても、最初から煙幕を張っているような気がしてしまう。
2冊目は全く逆のタイプの本だった。「「新聞記者」卒業:俺がブンヤを二度辞めたワケ」これは掛け値なしに面白かった。とても品格ある文章とはいえないが。なんせ、主語は「オレ」だし。なぜこんなに180度違うスタイルの本を同時進行で短期集中読破したのかよくわからない。でも、そのことで自分の立ち位置をあらためて考えられてよかった。一言でいえば、1冊目の本は日本社会における「よい(女の)子」の本、2冊目は「悪い(男の)子」の本なのだ。肩書きも東大教授、正社員を辞めてるフリーライター。「悪い子」のすがすがしさといったら、これ以上ない。まあ、私はかなり「悪い子」に近い筋になるに違いないが、日本社会にじつは「悪い(女の)子」の居場所はない(^^;;;;;;;;;
 このような筆力のあるスゴい記者さんが結局外にはじき出されてしまうほど、いまの大新聞はじめとしたマスメディアという組織はおかしい。常々私もそう思ってはいたが、この自伝的ノンフィクションには強い説得力があった。恨みつらみのようなチンケな立場から書いていない、しごく一貫性のある筋の通った本である。
じつは、1冊目の本にかかれていない回答が2冊目の本に書いてあった。終章で引用されている中江兆民の言葉「日本人は利害にさといが、理義(道理正義:大辞林)にくらい。流れに従うことを好んで、考えることを好まないのだ...。」100年前といまの日本と頭の中がかわっていない、と著者はいう。一方、1冊目の本には「日本の植民地はすべて、その獲得が日本の戦略的利益に合致するという最高レベルでの慎重な決定にもとづいて領有された」というアメリカの研究者からの指摘が引用されている。実にすっきりとつながるではないか。
私が思い出したのは、日頃から典型的に展開されている気候変動問題に関連する新聞記事の中身である(研究中)。ほとんどの場合「日本の利害」を巡って議論は行われていることに、違和感が表明されることはまずない。歴史を学ぶことは、やはり現代とつなげて過去を振り返るところに重要な意味がある。少なくとも社会学という学問は、そこに自覚的であるべきだろう、とあらためて自戒した。

「ザ・コーヴ」の後味

ずっと気になっていた問題のドキュメンタリー映画。やっと見られた。それも自宅にほど近い小さなシネマテークで上映してくれたのがうれしい。撮影地の三重県太地はすぐお隣の文化圏。海水浴にも出かけたことがある。イルカやシャチのショーを子どもと見にいったおぼろげな記憶が映像からよみがえる。深く海岸線がえぐられた入り江(The cove)の奥にひっそりとたたずむホテルのプライベートビーチは、これまでの人生で経験した最高の海岸だった。でも、近くにある入り江に秘密のイルカ屠殺場があったとは知らなかった。
帰りに食事に寄るとさすがに喉を通りにくかった。ああ、後味が悪い。吐き気を催しそうになるなんてめずらしい。映画がそれだけ影響力のある、優れたものだったということだろう。もっと単純なプロパガンダ映画だったらかえって心が重くならなかったと思う。マイケル・ムーアの作品のような押しつけがましさもない。イルカと人間の関係を考え続けた1人の男性の物語として丁寧に仕上げられている。太地のイルカ漁は、彼が終生反対しつづけているイルカショー産業への輸出基地を追う過程で出会った1つの場にすぎず、それがたまたま日本だったということだ。
それにしても、この映画がなぜ日本文化を批判するものとして右翼の妨害にあったり、上映中心になったりするのか不思議だ。マイケル・ムーアの辛辣な米国批判映画を見慣れている人は、その控えめな作りかたに歯痒さを感じるくらいなのではないだろうか。批判されているのは食文化などではなく、問題を隠蔽しようとしつづける関係者の態度だったり、捕獲と屠殺の方法がイルカにひどい苦痛を与えるものであるとか、肉の水銀値が高いのにそれをちゃんと調べないまま官庁が放置している事実である。
実際この映画のあと太地では住民の毛髪検査が行われ、水銀値が全国平均の4倍になることがわかったようだ。普段のクジラ・イルカ肉を食べる頻度と水銀値に相関もあった。食物連鎖の上位にくる魚が危険であることは、環境関連の講義で以前から話していたので知っていたが、この種の情報は十分に人々に知らされていない。データの水準はともかくこの事実を公に主張しただけでも意義がある映画だ。
マスメディアに登場する論者は偏った見方であることを強調する。だが両論にふれて、はい、おわりのNHKではないのだから特定の主張にそってドキュメンタリーがつくられるのは当然で、そこを批判しても意味がない。主張がどれだけ説得力をもって語られているかということに注目するなら、上々であったと思う。対抗運動とは許可を得て行うものではない。どういう根拠で自然の海岸に入ってはいけないのか、という根拠を示すのも実は難しい。血にそまる入り江をあまり人に見せたくないもの、として立ち入り禁止の看板で囲い込んでいる時点ですでに堂々と主張できる「文化的営み」とはいえない。そのことを、一番感じているのは関係者たちだろう。立ち入り禁止状態が映画をスリリングなものに仕立ててしまったということも皮肉である。
いるかやくじらをカワイイと愛でる街のすぐ横にある入り江で行われ続けるグロテスクな営み。その共存の様子がシュールでホラー映画のようだ。アメリカの美しい郊外に突然起きる殺人事件、というあの定番の設定と似ているようで少し違う。もっと自然にカワイイとグロテスクが共存してしまっている。この共存のしかたに慣れている日本人である私にとっても、この現実は不気味で続いてほしくないものだった。映画を見たことで、イルカショーを素直に楽しめなくなり、ベジタリアン度も高まりそうだ。

「家族主義」に期待する不幸

ここしばらく家族というものの存在を考えさせられる事件がつづいた。都内の男性最高齢とされたお年寄りが、同居家族がいながらミイラ化した死体で見つかったケース、幼い子ども2人が置き去りにされ、泣き叫んだ声で近隣から通報がされたにもかかわらず放置され、救えなかった事件。どちらも家族という高い壁に阻まれて、個人が守られなかったという共通の事情が背景にある。日本社会の制度は理想としては家族主義を掲げているが、現実には福祉の担い手として家族が機能しているわけではない。その事実を象徴する事件が続いたと感じている。
テレビのインタビューで、都知事があいかわらず「家族は何をやっているんだ」などと発言をしているのが虚しい。誰にでも暖かいケアを提供してくれる家族がある、という時代は昔もなかったし今もない。行政は何もしていないことが露呈されたのに、責任を転嫁して幻想の家族主義に頼ろうとする。その態度が「消えた高齢者」をたくさん生み出したことを反省してほしい。家族はいつも「よい機能」を発揮しているわけではない。DVや虐待は後を絶たず、日本の殺人の4割以上が家族内で起きている。年金取得のために手段を選ばないことも十分ありえる信用ならない存在だと、疑う余地を残しておいた方がいい。
社会が大きく変化したのに、制度の変革が追いつかなかったのだ。第二次世界大戦後の民法は、戦前の家制度を曖昧なかたちで温存させてきた。国民は個人単位で登録されるのではなく、戸籍という家を単位として登録され、さらに世帯単位で住民登録されている。これらの書類上の住所は、実際に居住している場所と一致することは強くは求められていない。つまり、私たちは3つのアドレスを使い分けることができる。このような複雑な制度を持つ先進社会がまず特殊なのだ。したがって、本人確認をする立場にある自治体の担当者が、簡単に行ける範囲に本人が居住していないこともめずらしくはない。基本的な制度上の不備なので、相当に大量の確認のとれない人が存在するであろう。
人口に関わる基本データさえ怪しくなってくると、「消えた年金」なみにショッキングな出来事である。どうも長妻大臣は、「消えた」ものをちゃんとチェックさせる人なのですね。通常、制度の単位が個人になっている社会では、このようなことは起きにくい。家族が世話をする、といって曖昧に代行することができないからだ。常に本人確認の作業が入ってくると外部との接触は遮断されようがない。
家族に加えて、いつのまにか行政の機能を代行していた地域の共同体、いわゆる世間の目も消えていた。集落単位で監視しあう社会を、私たちはやめたいと感じ都会へと流れついたのだから、そろそろ実態にふさわしい制度をつくろう。世襲の政治家たちは、生まれてこのかた東京育ちでも、地方の代表として選挙に出る。住民票が実態と最大にズレているのが政治家なのである。その状況をあたりまえのように認めてきた日本人の感覚は、この事件がおきる前からとっくに麻痺してしまっている。

お仕事の周辺:評価のつけかた

春学期が終わろうとしている。教員である私はひたすら採点の季節。人の文章をたくさん読んでいるうちに、自分で文を書きたくなってきた。今年は多くの学生さんに教える機会を持っているので、大変な量の小論文を読まなくてはならない。どうやって評価されているのか気になっている人もいるだろう。私の規準をここに記してみたい。
最近は持ち込み可で、長文でも時間にあまり追われない範囲の字数を設定して論述してもらうタイプの試験を複数回して成績をつけることが多い。講義の内容にもよるけれど、原則としてレポートは課さない。本当は内容からいってレポートを書いてもらいたいところを、時間制限内で小論文を書いてもらうという方式だ。過去にはレポート試験を課していたこともある。さすがにあまりにも多いインターネット剽窃のチェックに疲れ果ててやめた。結果として剽窃により単位が認定できなくなる割合は減ったと思う。出席回数は評価に含めないことが多いけれど、語学・データ・調査系など結果だけでなくて参加の努力を認めたほうがいい科目では使っている。数百人取っている科目だったりすると、正直言って読むのはキツいが中間と期末、2回は書いてもらう。1回で評価するのはやはり不安定になるからだ。
長年このようなやり方で採点しているので、かなり安定して評価できている自信はある。短時間目を通すだけでも大概の場合2回の小論文評価は近い値となってそろってくる。もちろん課題が違うので、ずれることもたまにある。合わせると例え質問されてもちゃんと理由を答えられる評点になる。小論文は曖昧なようで、実力はしっかり現れているものなのだ。
知識とは、思考に使えてこそ意味を持つと私は考えている。残念ながら、自分の頭を使って考えたい学生さんは昨今そう多くない。また、自分で考えるのは得意な人でも、一端つくってしまった思考の体系にこだわるあまり、柔軟性を欠き論理の展開に無理がある論述をする人も目立つ。新しいデータや根拠が示された時に、それを無視して主張を繰り返すのはいただけない。常に主張には根拠が必要だし、説得力を持たせる書き方をしてほしい。日頃論文を書いている研究者には当然と感じる小論文のお作法も、学生さんにはなじみがない。日本の高校までの教育はこのあたりの力の育成がどうにも弱い。
私が気を使っているのは、自分と違う主張を退けないことである。思想的には相当に納得いかないことが書いてあっても、書き方が正しいかどうかで判断する。社会科学はイデオロギーと切り離せない学問だけれど、それをできる限り持ち込まないように心がける。意図してかどうか私の著作を読んでよく勉強して書いてくる人がいても、そうよい評価になるとは限らない。
教員である、というだけで何かの権威が発生するわけではない。評価には常に根拠が提示できなくてはいけないとなると、大変にエネルギーを使う知的作業を必要とする。少し採点すると脳が休眠しだすので、長くは続かず休み休み。
よくぞここまで身についた、とうれしい答案もあれば、落胆する答案もある。それにしても採点しているといつも気になることが1つ。講義で紹介しているような事実とその考察に至るまでに、どれだけたくさんの積み重ねられた議論があったのかという重みが学生に理解されているだろうか、ということ。学問のすごさが伝わっていないとしたら、まだまだ私が未熟だということだと自戒しなくては。

ワールドカップに埋もれた参議院選挙

夢が実現した決勝を控えて、さすがに今晩は寝るわけにはいかない。というわけで選挙報道を見つつブログを書いている。普段はもう少し選挙に意識が回る私でさえこれでは、選挙報道はワールドカップ報道に喰われ、埋没してしまっていたような気がしている。同じ戦いならどう考えても面白い方を見てしまうのは人情だろう。それにしても投票の数日前にNHKのニュースで、タコのパウルくんの予測報道やっている場合か?マイナーなネットニュースだと思っていたらみんな知ってる(笑)。そりゃそうだ、大新聞とテレビであれだけ報道するんだから、、、。怖いなあ、マスコミ洗脳。それにしてもなんで消費税が響いたって、コメントするんだろう。だって10%に上げるって明言した自民党があれだけ人気回復したんだよ。頼むからもうすこしまともな分析をして。
消費税に反対をする人は今回、みんなの党か共産党か社民党に入れるくらいしかなくって、みんなの党だけ増えている。合わせたらたいした勢力ではない。つまり、日本人が消費税にアレルギーがなくなったということは驚きの変化であった。伝統左翼は本当に弱体化してしまった。東京の共産党の議席がついに消えて、みんなの党になったところが象徴的である。それでも伝統左翼の人たちは敗北を決して認めない。潔くないから格好が悪く見えてしまう。
でもって自民党の復調がすごい。よくあの崖っぷちからよみがえりました!ゾンビなみ生命力。そこに生気を吹き込んだのは、日本代表のトーナメント進出でしょう。いまや相撲の歌からサッカーの歌になった君が代を唱和し、国民一体となって熱く国をかけた戦いをする。「日本を守る」という自民党のメッセージがあれほどよくシンクロする代表もない。みんな「日本が一番」のプライドをくすぐられ陶酔して、昔日の自民党を思い出したのです。これで日本が初戦でまけていたら、少し浮いてしまうメッセージだったところ、救われた。日程選択を間違えましたね、民主党さん。
マニュフェスを見てもたいして差が見えてこない(しょせん読んで決めるわけでもない)。となると、雰囲気勝負になる。いかにも叩き上げの東京風の人という菅さんじゃあ、地方の人にはあくが強すぎた。そこへもってきて、5倍を超える一票の格差があったのでは、地方の一人区こそが大きく影響する。つまり地方で議席がとれない看板では民主党は負ける。大都市では結局負けてる訳ではないし。いつも地方対都市の市民の対立構図があるのに、マスメディアは深入りを避ける。
子育て中の家族にバラまかないで公共事業と経営者にバラまいてほしい、という方向へまた振れた。それがずっと続く大きい対立軸。残念ながら、これだけ弱い家族政策予算でさえすぐ否定されるようではキツい。子どもは自分たちの親族で育てるものでヒト様に頼っては行けない、となると近代社会での次世代育成は本当に困難になる。育児休暇もない、児童手当もない、なんにもないないづくしでなんとか子ども2人を育てて生き延びてきたけれど、それはまだ豊かな世代に生まれたから。次世代が育てられなくて、どう国が守られるのだろうか?誰が「愛国的」で保守的なのか、いつもながらどうにもよくわからない選挙であった。

サッカー日本代表、宴のあと

パラグアイ戦を終えた選手たちが帰ってきた。送り出される時に浴びせられた冷たい視線とはうってかわり、暖かい拍手で迎えられている。たった1ヶ月の間のジェットコースター。岡田監督は人々とメディアの扱いに達観している。岡ちゃんに謝ろうとか、感動をありがとうという言葉がとびかう。オランダ戦あたりから、辛口の批評をするオシム氏のコメントがネットニュースのトップページから消えていった。水を差すということだろう。「強い」日本の復活にしばしみんなで酔いしれると気持ちいい。それは確かに私にとってさえも少し幸せな時間であった。

それでも、やっぱり、すっきりしない。
パラグアイ戦がPKにまで突入すると予想した人はオシムだけではないだろう。グループリーグの戦い方をみれば、それはトルシエ風にいうと「論理的な結果」というやつなのだから。引いて固めるチームが点を取れるのは、前がかりで勝ちにくる相手と戦うときだけだ。私は一人のサッカー好きとして、決勝トーナメントでああいう試合をする日本代表を持ったことをとても悲しく思った。守りを固めるカウンターサッカーなら、パラグアイに一日の長がある。負けるのはいたしかたない。岡田監督は言葉を発する意識と無意識が二重になってる。「ずっと勝ちに行くよう指示していた」と繰り返し、自分は一貫していると主張するのだが、選手はメタに発せられる無意識を尊ぶのである。誰が見ても、後半の終わり近くになって憲剛をいれるまで自陣に引きこもっていたのは日本だ。

じつはずっと前から、日本代表は弱いことを自覚して守備的に戦うほうがいい、と周囲につぶやいていた。ずっとベンチにいた阿部なしには戦えないと思っていたし、内田より駒野だろうと断言してたし、本気で俊輔より松井だと思っていた。楢崎と闘莉王の相性が悪いんじゃないかとグランパス戦の守備をみて不安にかられていた。という意味では、ベストな人選になりかわったということになる(笑)。
だからうんざりするのである。なんで一ヶ月前に変えるのか?少なくとも半年以上前には、そのやりかたで機能しないという感触は明らかだった。もちろん、岡田監督が戦いかたを劇的に変えたことで、付け焼刃とはいえグループリーグが突破できたことは間違いない。けれども、おかげで突然はしごをはずされた犠牲者が出た。俊輔は本当にかわいそうだ。選手たちに失礼すぎる。そこで怒らない、ブチ切れないで一丸となれるところが日本人チームのすごいところである。フランスチームのように選手と監督どちらも譲らずに、ついに崩壊する国とはまるで逆だった。

この大会で私は日本サッカーの将来をこんなふうに考えることにした。
ころっとスタイルを変えることに、あまりにも人々が寛容で、結果しか見ないので、一貫性のある時間をかけた代表のスタイル構築にはもう期待しない。オシムの理論は正しくても受容が難しすぎる。日本人はそんなにサッカーに対して忍耐強くないのである。そして、人気を集めるために自信にあふれたスター選手を一人必要とする。考えてみたら、あらゆる領域で一貫性のなさこそが一貫してる。列島の津々浦々に、スペインサッカー好き、イタリア好き、イギリス好き、ドイツ好き、南米好きがいて思い思いにサッカー指導をして、なんとなく選手が育ってくる。その時々の代表監督がお好みの選手を探せば、どこかで見つかるだろう。幸い日本はデンマークのような小国ではないので、人材もかき集めれば当分はなんとかなる。サッカー大国になるのは難しくても、そこそこの強国にはなれる。まあ、毎回ちがうのも酔狂ではないか。

さあ、日本代表が去ったこれからが、ワールドカップ本番。スペイン対オランダの決勝戦を夢みて睡眠不足の日々をやり過ごそさなくては。

機密費をもらうジャーナリスト

どうやら本当にいたようだ。権力からお金をもらうジャーナリズムが存在していたとは、すごいことだ。互いに守り合い、世論をつくりあげるマスメディア。座して死を待つのだろうか。政権交代しても、さほど世界が変化したようには見えないながら、政治の力学が変わって何かとほころびやボロが見えやすくなっている。政官財+記者クラブ:鉄の四角形がゆらいでいる。
機密費をもらわなくても、(くれるはずもないが)お金に左右されてものを書かなくてすむように、ということだけは忘れたくないと常々心している。でも、もの書きや評論家はさして裕福ではない。そんなときに、札束をくれるパトロンが現れたらどうする?似たような話は中世の時代に西洋でもあったという。印刷物もない時代、人々はうわさばなしで情報を知るので、時の権力者たちは吟遊詩人をお抱えにして敵に都合の悪い噂を流した。機密費おかかえジャーナリストも似たような感じ、といえなくもない。
さりとて、現代の日本人がマスメディアのいうことを信用しているのか、というとそもそも雲行きが怪しい。新聞・雑誌も読まれなくなっているし若者もテレビ離れしつつある。インターネットにはあらゆる「裏」情報が飛び交う。どの言説にも頼れなくなったとき、私たちはいったい何に寄りかかるのだろう?本気で心配になるのは、どちらかといえばそちらの方である。

盆栽はどうも苦手です


 ガーデニングの季節がやってきました。ただ、なかなか春がちゃんと始まらないので、植物がとまどっている感じ。週末に少し時間を使うだけで楽しめるコンテナ園芸は、私にとって最高の気分転換です。忙しい新学期こそ自宅から離れなくてもいい趣味なので、しばし没頭しておりました。
引っ越してから和な植物に目覚めたとはいえ、結局盆栽からは手を引きました。はやりの採花盆栽でさえ、だめでしたね。私には楽しめないみたいです。本日づけの中日新聞日曜版に「盆栽入門」特集があり、そこにこの上なく明快に盆栽の特徴が述べられていたので、あらためてその理由に気づきました。一部引用させてもらいます。
「実は、盆栽にはただの鉢植えとは決定的に異なる特徴がある。盆栽を作る人は、何十年後かに完成した時には、この樹木はこんな形になっていてほしいと考えて、毎日毎日、植物という生き物を守り育てる。その一方で、植物が勝手な形に成長しないように人工的な技術を駆使して、自由に大きく伸びるのを抑え続けているのである。」(盆栽って何?:大熊敏之,2010.4.18中日新聞日曜版)
盆栽は、針金を使って形を整えたり頻繁に剪定をしなくてはなりません。時として使用する器具類は、まるで拷問道具のようにも見えます。入手したときに植物についていた針金は、結局すべて外してしまいました。痛そうな気がしてはめておけない性分なのです。これでは盆栽にはならず、まさに「ただの鉢植え」です。
さらにいただけないところがあります。盆栽は、一鉢に一種の樹草木が普通で、決まった方向から樹形を眺めて楽しむのが基本。様々な樹草木を合わせて植え、鉢の組み合わせ方の妙を楽しむコンテナ園芸とは、かなり発想が違います。下町の鉢植え園芸を眺めると楽しいけれど、並べかたへの無配慮はどうにもしがたい。これは日本人のコンテナ園芸の基本が、一鉢ごとの盆栽だからでしょう。
さきほどの引用文で植物や樹木を「子ども」に変えてみてください。日本人が伝統的に「育てる」という時にイメージを見事に表現しているではありませんか。まさに植物も人も形を「しつける」のです。これでは、フィギアスケートにはよくても、サッカーには向かない教育になるのは避けられません。日本で多様な人を組み合わせる組織のつくりかたの下手さを、盆栽をみてはつい思い出してしまうのも苦手な理由。一度地に植えた盆栽の樹木は、自由に伸びて二度ともとに戻らないと、アメリカに渡った日本女性を例える話もありましたし(菊と刀)。
その上、ちょうど起きたばかりの事件が頭の中で盆栽とシンクロしてしまいました。引きこもりの息子による家族刺殺事件です。引きこもりは、盆栽型家庭教育と深くかかわっていると私は常々考えています。(ちなみに、著作の中ではさすがに盆栽を教育には結びつけて書けませんでしたが)。「こんな風に育ってほしい」と親は誰もが願うでしょうけれど、「勝手に成長しないように自由に大きく伸びるのを抑え続ける」と、そのつけは意外に大きいかもしれません。

早春のパリを散歩

ひさしぶりの海外。仕事の後少し時間が取れたので街歩き。何かとご縁がある街で、これが3回目。しかも毎回わりと滞在日数が長い。そのせいなのかどうなのか、新鮮さとか驚きとか外国にいるという緊張感がないまま過ごしてます。かなり不思議な感覚ですね。夕方テレビをつけたら、日本語の主題歌付きアニメが流れて来たので、なんだろうと思ったら「鋼の錬金術師」だし。
到着した時から、どうもフランス人の顔をみると日本人にいた○○さんに似てる!と想像できてしまう人がやたらに多い。北欧とか北米・英国にいる時にはあまりない感覚なんです。それに、ここは来るたびにそうなんだけれど歩いていると何回もフランス語で道を聞かれる。(当然ごめんなさいをする)。私もPardon madame とかいってから道を聞くと、I am sorry...フランス語わかんない道わかんない...などと英語で返ってきたり、「私はルーマニア人!だからわかんない」とルーマニア語らしき言葉で返されたりする。さすがに世界都市。これほどに都市らしい場所を私は他に知らない。でも、なぜかブロンドのアメリカ人はちゃんと外国人扱いされるらしくて、道を聞かれないって言っていた。北欧に行くと道を聞かれるんだそうです。確かにブロンドはあまりここでは見ない。髪の毛の色って同質な雰囲気を醸し出しているのかもしれませんね。(もちろん肌の色が全然違うアフリカ系の人も大勢いる)
とにかくこれだけ高密度に隙間を使い尽くしている都市もめずらしいでしょう。中高層の建物が延々とびっしりつづくのはよく知っていたけれど、地下にものびてることを実感したのが、カタコンブ(地下の無縁仏墓地)。骸骨が600万体分!隙間なくきちんと地下の貯蔵庫に積まれているのでありました。想像すると怖い空間ですが行ってみるとそうでもなかった。駐車場も地下にたくさん作られている。道路には許可された路駐の車が延々と続く。休暇には空間にゆとりのあるところに滞在しないと息が詰まってくること間違いなし。
山の手線内にすっぽりおさまる街の小ささと高い人口密度がカフェやレストランに人をよび、通りのにぎわいは夜がふけても続く。みんな近くに住んでいるから遅くまで平気なんでしょう。そんな密度なのに、地下鉄の駅近くに小さいながらもメリーゴーランドや、公園があったりするから、大人だけでなくて子どもにも居場所がある。とことん狭い空間であってもいろんな人々に必要な施設を配置する計画が実現されていることに脱帽です。
パリに住めるのはそれだけ高い家賃を払える、つまり高給であるという証。または、学生ゆえに住む場が用意されているとか、特別な人。ここが楽園なのもそんな一面があるからなんでしょう。パリから押し出された人々がやってくる、鉄道駅の近くではパリの内と外が交差して、さすがに緊張感が伝わってきます。

温暖化対策「基本法」では変わらない

また1つ基本法が増えそうだ。地球温暖化対策の基本法である。ないよりはあったほうがましかも、と思うのだけれど、気になる点があった。経済産業省と重工などの業界はずいぶん有頂天なのではないだろうか。なぜかというと、排出権取引の方法で原単位方式を認めたこと、原子力発電の推進を明記したからである。これは、彼らにとっての成功だろう。
基本法はある理念を追求している姿勢を、政府が示したい場合につくられる。シンクタンクが調査などして、基本計画が整備され、はい実質的には終わり。事後点検する頃には、みんな忘却中。これがよくあるパターン。でも気をつけないと個別法の上位に来るので、後で作る法律を縛ることがある。教育基本法、男女共同参画社会基本法、食育基本法などが記憶に新しい。環境関連では循環型社会形成推進基本法などがあった。なかには、少子化社会対策基本法、特殊法人等改革基本法など、作られても明らかに事実として実効性に乏しかったものが頻出する。ということは、この法案が通っただけでは、なにも期待ができないわけである。
 結局、基本法は具体的なことは決めない。だから反対派を説得しやすく、世間はなんとなくそれで何かが進展したかのような気になる。政府も何かしているそぶりを演出しやすい。それなのに妙に具体的に気になる部分が一部明記されているのは、いかにも裏がありそうではないか。環境省と経済産業省あたりでなんらかの取引があったに違いない。官僚たちのやりくちは芸が細かい。マスメディアは相変わらず、官庁の関連筋から上手に流される話を、まるで広報のように報じている。
 幸い情報公開されている様々な委員会などの議論を丁寧に追うことで、官僚の意図がだいぶわかる。「何かを前向きにやるぞ」、という報道がなされるときには、大抵「重要なことをやらないための小さなガス抜き」が企図されている場合が多いので、注意してみるとバレバレである。内部の関係者はみんなわかっていて沈黙。メディアはわかっているのか、いないのか、専属広報のまま。官僚たちからみれば、民主党など赤子の手をひねるより容易く操れる、という説はどうやら本当らしい。





もう夫婦別姓してますが...

夫婦別姓法案をめぐって、いよいよ保守派が騒がしい。自民党も国民新党も超党派で、熱心に牽制している。明治維新の後に、まだ旧体制を忘れられない人々がじたばたしている歴史をみているかのようだ。
私は法律婚をしておらず夫婦別姓であるが、法制化はもうどうでもよくなっている。いまさら家族の戸籍を統一する必要を感じないからである。じつは、日本社会は結婚に関して戸籍上よりはむしろ実態優先であり、事実婚に対してさほどの差別はない。最近は、住民票上で妻(未届)などという面白い表記にも遭遇した。配偶者控除は受けられないが、社会保険や健康保険には入れる。配偶者控除はもうじきなくなるのだから、問題は少なくなる。もとより共働きにとっては、恩恵のない制度だ。必要な時に通称で「家の名字」を名乗った方が圧倒的にラクなのだ。よく、職場で通称使用できればいいんじゃないか、という人もいるが大変である。一度経験して煩雑さにうんざりしてやめた。(つまり戸籍上は結婚して離婚した。)
やめてみれば、別にどうってこともない。住民票を世帯で一枚にすると世帯主を1人に決めなくてはならない。国民年金と健康保険は、自分で払ってるのに世帯主あてに送られてくるのが意味不明で、結局世帯も別にした。同一住所だからといって、世帯を一つにする必要もないのである。もちろん、親子の名前が違っていてもさほど困ることはない。これだけ離婚、再婚家庭が増えているのだから、まあ当たり前である。笑い話としてよく語っているのは、名字の違う子どもが私の携帯電話と家族割がすぐに組めず、待ったがかかって困ったこと。(ちなみに、外国人は名字が違っても結婚をみとめる制度があるので、日本人だけがこのルールでひっかかると言われた。すごいダブルスタンダード!)
それにしてもどうして、別姓を選択する自由さえ奪いたい人がいるのだろう。日本文化を持ち出すのも変だ。夫婦同姓の歴史はそう長くない。北条政子は源頼朝の奥さんなのだ。新しくつくった「家制度」を守りたいから?いつの文化から守りたい人が「保守」なんだろう。でも、余計なお世話を承知でいうと、保守派が本気で戸籍とイエ制度を守りたいのなら、今回の別姓法案には反対しないほうがいいと思う。子どもの名前も統一するなど、ずいぶん“ひよった”法案になっているから。この法制化の機会を逃すと、迷ってる人や別姓法案を待っている人(案外保守的な層だったりする)が、あきらめて事実婚になったり、子どもを持たなくなったりするかも。ずっと前から家族社会学で指摘されている通り、別姓を支持する層には一人っ子で家を継ぐために、名字が捨てられない人が結構いる。むしろ家制度の支持者たちだ。つまり保守派からみると、仲間割れをすることになり“意図せざる結果”を招く可能性がある。
外国人の地方参政権問題と合わせて反対しているのは偶然ではない。日本人とは戸籍を持っている人で、その人のみが選挙権を持つべき、という一貫した主張なのだ。外国人の地方参政権付与とは、ある意味で準日本人というカテゴリーをつくる試みである。例えば、在日韓国人が帰化して日本人になった場合、結婚するとき夫婦同姓を名乗らないといけないが、中国や韓国の伝統では夫婦別姓であるので、躊躇するだろう。帰化しなければ、別姓のままで法律婚ができる。別姓法案は、「日本人枠」をゆるやかに広げる可能性もある。国際結婚も増え、世界中で国籍の持つ意味が揺らぎつつある現在、「日本人」と「外国人」をきっちりと分け続けることはもはやできるとは思えないのだが。
保守派には「日本人で在ること」の枠を小さくし続けてきた結果が、人口の縮小へとつながっている事実の重みを直視してほしい。多様性をみとめない社会は、残念ながら“種”としてやせほそっていく運命をたどるのが避けられないのである。

サッカー日本男子代表の黄昏

日本男子サッカー代表の中国戦。途中から見ていてなんだか胸が苦しくなってきた。ベネズエラ戦につづいてダメ押し?してくれた。もう、何か書かないと胸のつかえがとれない。そして最後の岡田監督の苦渋の表情とあたりさわりのない、しかし憔悴が伝わるコメント。ここでトヨタ社長の記者会見と重なってしまうところが、社会学してしまう私の性ゆえ。いずれも、こんなに丁寧に細部を積み上げてきたのに、なんで結果がうまくいかないのかよくわからない、という本音がみえる。
すぐれた個人、あるいはパーツはそれなりにそろっている。しかし、個人の足し算=全体なわけではなくて、それ以上の力を集団が生み出さないと、いいサッカーにならない。チームのデザインは、細部の積み上げではなく全体に優れたものとして提示されないと。日本(男子)の社会は意識してそういう優れたシステムを構築するのが、大変に不得手。サッカー代表も例外ではありえない。サッカーでは、個人が全体のルールを考えながらも、自由に振るまえないといけない。こういう人格は日本でよく育てられない。サッカーは、そういう人格をよしとする国、イギリス生まれのスポーツだから、ある意味しょうがないのだ。
女子は、まず「日本社会」にまともに入れてもらえないから(笑)。そのぶん(いまのところは)自由なサッカーがまだ可能な余地が残されているのかもしれない。思えば、男子サッカーにも少し前まではそういう雰囲気が残っていた。Jリーグができ、人気が安定して制度化されていった結果、ふつうの日本(男子)社会の縮図になり、うまくいかなくなってきた気がする。オシムの病気とともに、最後に可能性が消え去っていった。それ以来、代表のサッカーに心がわくわくすることは、できなくなってしまっている。
まじめで、勤勉で、ハードワークする、チームのルールに忠実にプレーできる選手が選ばれている。そして、監督に意見するような人は、注意深く排除される。いささかでも、ベスト4への疑念の目を向けるような選手は本番に残れない。選手は痛いほどそのことをわかっている。招集がほぼ確立した選手は安心してある程度自由に振る舞えるが、どちらに転ぶか不安を持っている選手は、それだけで本来の能力さえ発揮できなくなるだろう。
監督の思考の枠をはみ出ない選手ばかりを集めたチームは、なんだか日本の会社みたいではないか。(だからトヨタを思い出してしまうんだろう。)岡田さんは、古武道の姿勢や走りかたなどを取り入れようとしたり、日本人らしいサッカーをしようという意識がめちゃ高い。玉田、大久保、岡崎をならべたりするのもその現れだろう。残念だけど、その延長にチームの進化はないと思う。
それにしても、女子の試合が一般のテレビに映らなかったのは残念。女子代表の試合の方が絶対面白そうだったのに、と思ったのは私だけだろうか?

「揺らぐ子育て基盤」が出版されます

委員会への参加から足掛け5年の歳月を経て、勁草書房から共編著が出版されます。本屋さんに届くのは1月20日の予定。私は第1章の「親の育てかたと子どもの育ち」、第3章の「居住環境と親子生活」を書いています。昨年の8月は、執筆のためにひいひい、言っておりました。それでも今読み返すと、学術本とはいえあまりこなれない日本語で書いているなあと反省してます。
この本では、規模の大きい3つの社会調査データを分析してわかったことを書いています。私自身、新しい発見がいろいろとありました。まずは、保育園に行っている子の方がよく発達しているとか(1章)。相当慎重に分析しましたけれど、そういう結論にたどりついてしまいました。それから、自家用車で通園していると、園で友人・知人をつくりにくいなど(3章)。普段なかなか見えにくいことを、データ分析で浮かび上がらせる作業は大変だけど、とてもスリリング。
以前出版された「<子育て法>革命」では、こういうデータの分析は行っていません。そこで仮説的に出していた子育ての現状を検証したりもしています。単年度の調査ですから、<子育て法>で描こうとした長期的な変化は実証できませんけれど、現状の添い寝率の高さや、卒乳の遅さなどは追認できました。研究を始めた頃と比べると、パソコンの性能はどんどん上がり、データを使う研究はずいぶんラクです。(そのぶんやらなくちゃいけないことも増えたけど。)元理系の私は数字を扱うことに抵抗がないので、やりだすととことんハマってしまいます。苦しいけど楽しい時間でした。
それにしても、ほんとに手間ひまかかっている本です。(共編著者の皆様も必ずや同感されるでしょう。)時々誤解されるのですが、膨大な時間を使ってこういう本を書いても収入はほとんど得られることはないので、これで暮らしてはいけません。でも、調査のための費用を出していただいた独立行政法人福祉医療機構、委員会を支えてくださった全国私立保育園連盟、議論に参加してくださった多くの方がいる以上、結果をまとめて世に出す役割は果たさなくては。手にとってもらえた方々のお役に立てれば本望です。
調査をはじめた頃を振り返ると、まだ子どもと同居していたし、母親業にも追われていたような気がします。いまでは懐かしいほど遠い昔のよう。さすがに乳幼児の子育てに関しては臨場感はなくなりました。ああ、でもまだ、同年代の友人たちはまさに乳幼児を抱えているんですよ。子育てを頑張るにしても、自分の体も大事にしてね、と気をもんでしまう。ほどほどで大丈夫だから安心して子育てしてね。
そうそう、最後に1つ。2年ぶりにフットサル現役復帰の予定。大学がお休みの期間だけ、しばしmy paceな生活を楽しみたいと思います。